浸蝕する温度
ヤイトは鳴り響いているアラームの音を止め、やっとの思いで目を覚ました。元々朝は得意ではなかったが、今朝いつも以上に気怠いのは昨夜で自分が変わってしまったからだろう。そんな風に思いながら、ヤイトは朝の支度を済ませる。
「あんた、朝ご飯はどうするの?」
朝食を摂らずに学校へ向かおうとするヤイトを、ヤイトの母が呼び止めた。
「何だか食欲がわかないから、食べないで行くよ」
そのように返答したヤイトに、母は心配そうな顔を向ける。
「顔、青白いよ?体調悪いの?」
元からだよ、と答えて玄関のドアを開けたヤイトは、朝日の眩しさに少しよろけた。
「想像以上にきついな……」
ふらつきながら、不健康そうな顔と共に学校へと向かった。
学校では、早くもミカの話題で持ち切りだった。
クラスメイトが昨夜から行方不明。家出なのか事件なのか、と、興味本位で語らう生徒を余所に、ヤイトは足が付くのを恐れ一人、震えていた。
「ヤイト、聞いたか?ミカが居なくなったんだってさ!」
身近な事件に興奮した男子がヤイトへと語りかける。ヤイトは精一杯平静を装い、それに答えた。
「今、知ったよ。心配だよね」
ところで、と、ヤイトは続けざまに問う。
「この話はどこで広まったの?」
「なんでも昨日、ミカの帰りが遅いのを心配したミカのお母さんが、クラスの女子数人に電話したらしくてさ。それで、今朝も学校に来てないから噂が噂を呼んで、ってことらしいぜ」
それでは、まだ警察に届けてはいないのかな、と、ヤイトは人心地ついた。
そもそも、遺体さえ見付からなければ、事が露呈することは無いのではないか。遺体の入った袋はエリスが持って行った。手慣れた様子の彼女なら、上手いこと処理しているだろう。
考えを巡らせていたヤイトに、男子は言う。
「そういえば、今日は転校生が来るらしいぜ。可愛い女の子だといいよな」
「エリスです。よろしくお願いします」
ヤイトの予想通り、転校生はエリスだった。
小柄で整った貌をしている彼女の制服を着た姿は、西洋の人形を思わせ、教室中の人を一度で魅了したようだった。
休み時間になると、女子がエリスの元へ集まり、質問攻めが始まった。男子は近寄らなかったが、遠巻きに彼女の噂をしていた。ヤイトの元へも、男子が寄る。
「なぁ。エリスちゃん、可愛くね?」
「ヤバいな。めちゃくちゃ好み」
他の男子が絶賛するため、ヤイトもそれに合わせた。
「うん、すごく可愛いね」
すると、エリスはヤイトの方を振り向き、微笑んだ。
「今!こっち見た!」
ヤイトの周りに居た男子は、ひそひそと歓喜の声をあげた。
「エリスちゃん、お昼一緒に食べようよ」
休み時間毎にエリスに話し掛けていた女子達は、昼休みになると、彼女を昼食に誘った。しかし、エリスは申し訳なさそうにそれを断った。
「ごめんなさい。今日は昼休み、先生に呼ばれているからゆっくり出来ないの。明日、また誘ってくれる?」
上品な動作で席を立ったエリスは、ちらりとヤイトを見ると、教室を出た。
「ヤイト、購買行こうぜ」
エリスの意図を汲み取ったヤイトも、クラスメイトへ断りを入れる。
「僕、さっきの授業で分からなかった所を先生に訊いてくるから、みんなで食べててよ」
「流石、真面目だねぇ」
からかうクラスメイトに苦笑いで応えながら教室を出たヤイトは、他の生徒の視線を集めながら廊下を歩くエリスの後を、距離を置きながら追う。エリスは人目を気にしながら屋上へと侵入し、ヤイトもそれに倣った。
ヤイトが屋上の扉を閉めると、エリスはそれに鍵を掛け、ヤイトを優しく抱き寄せる。
「屋上は進入禁止になってるはずなのに」
エリスはヤイトの背中で手に持った鍵をじゃらじゃらと鳴らす。
「校長先生がくれたの。」
鍵をポケットにしまうと、その手を再びヤイトの背中へ持って行き、彼の胸に小さな顔を強く押し付けた。
「今朝、可愛いって言ってくれたの、嬉しかったよ」
「耳、良いんだね」
目を逸らしながら言ったヤイトの胸から離れると、エリスはジッとヤイトを見つめる。
「ヤイトくんも集中すれば出来るよ。もう、人間じゃないんだから。」
はっとしたヤイトは、上目遣いで覗き込む様に見つめるエリスと向き合い、深刻そうに言った。
「学校ではもう、ミカちゃんのことが話題になっている。あの袋は、どうしたの?」
「袋はきちんと処理したよ。今度からは、あんまり派手にやらないようにね?」
エリスの青い瞳に吸い込まれそうになる感覚から逃れるように、ヤイトは屋上の奥へと踏み入り、校庭で遊んでいる生徒達を見下ろす。
「僕はもう、血は吸わないよ」
エリスは後ろ手に手を組むと、大股でヤイトの傍へと寄る。
「無理だと思うよー。我慢出来たとしても、満月の夜には、気分が高揚しちゃうしねぇ」
ヤイトはその話に居心地を悪くし、あからさまに話題を変えた。
「そういえば、エリスはモテるね」
「ヤイトくんも、これからどんどん人を惹き付けるようになるよ。今日も、ちょっとだけそれを感じたんじゃない?」
確かに、ヤイトは今日のクラスメイトに違和感を感じていた。普段は都合の良い頼みごとくらいしかしてこないクラスメイトが、今日はやけに積極的に話し掛けてくる。ヤイトは最初、ミカのことやエリスのことがあって落ち着かなくなったクラスメイト達の気まぐれ、くらいに思っていたが、エリスの話を聞いて得心が行った。
エリスは、不意に太陽を遮るように、顔に手をかざす。
「屋上に来ておいてなんだけど、眩しいね」
まだ暑さはなく、過ごしやすい昼であったが、太陽が天敵の二人にとってはただただ陽の忌まわしい時間帯だった。
「午後の体育、男子は外なんだよ……」
憂鬱そうに呟いたヤイトを、エリスは愛おし気に撫でた。