こんばんは世界
曇天模様の空の下、春の憂鬱に当てられたヤイトは決意を固め、家を抜け出した。
ヤイトは自分の求めるもの、それが何かは分からなかったが、その求めるものが手に入ることはないという、ひどい厭世感に苛まれ、森へと向かうことにした。
家は座敷牢だった。そこへの服従は、恐怖からのものだ。そしてその恐怖は、自分の中に他人が入って来たとき、世界の全てになった。
ヤイトは、良い子を続けた。それは、恐怖からの逃避、そして、何処かにあるであろう求めるものを手にするためであった。
数字を残し、出しゃばらず、断らず。
しかし、出来のいい子、優しい子、都合のいい子では、彼の求めるものを手に入れることは出来なかった。
それは、簡単に手に入るものの様にも思えた。持て余す者も居る。ヤイトにその正体は分からなかったが、その様なことばかり感じ取ってしまい、やりきれなくなった。
逃げ出してしまいたかった。しかし、それが未遂に終わった時、恐怖が待っている。そしてなにより、何処へ逃げたって、自分からは逃れられない。
そのように考えはじめて数ヶ月。ある春の曇りの日、ヤイトは消えることにした。
夕刻。ヤイトはリュックを背負い、郊外の森へと向かう。
人の立ち入ることの少ない森で、世界から消えよう。ヤイトは、ゆっくりとした足取りで街を過ぎて行き、やがて、森に辿り着いた。
空模様の悪い夕方は時間の便りが少なかったが、鬱蒼とした森の中では、よりいっそう、時間の分からなくなる様な感覚に襲われた。
ヤイトは品定めをし、一本の大木に身を委ねることにした。
ヤイトの心の中は、ただただやりきれない思いと、世界への呪いで埋め尽くされていった。
もしも留まることがあったなら、この決意のもと、まだ頑張れるだろうか。
幾許かの希望を払拭する様に、ヤイトは形式に則り、靴を脱ぎ揃えた。
すると、何処からともなく、声が響いてきた。
「私なら君の欲しいもの、あげられるよ」
「分け合う為に、一緒に生きようよ」
女性の声が、森の中を木霊の様に反響し、ぐるぐると回る。
どこから聴こえたのか分からない声を意識した時、ヤイトは唐突な眩暈に襲われ、片膝をついてしまった。
すると、木陰から、小柄な少女が姿を現した。
綺麗な金髪に人形のように小さく整った顔。少女はその顔に、うっすらと笑みを浮かべていた。
「こんばんは。私は、エリス」
そう言って少女はゆっくりとヤイトに近付くと、舌を小さく出して見せ、その舌を自らの尖った歯で深く傷つけた。
「何、してるの……?」
戸惑うヤイトに向かい、エリスと名乗った少女は血で口許を赤くしながらにっこりと笑うと、ヤイトにキスをした。
エリスは舌を深く入れこみ、ヤイトを強く抱き寄せる。
ヤイトは初め唖然としていたが、鉄の味が口に広がると共に考えが追いつかなくなり、いつの間にか血を求め、強く舌を吸っていた。
長い口付けが終わると、ヤイトは体の怠さと、強い渇きを覚えた。
「のど、渇いた」
「飲み物持ってきてあげるね」
エリスはそう答えると、一度の跳躍で何処かへと消えていった。