山神様と僕
僕がまだ小学校に入る前、曾祖父が言っていた。
『うちの山にはそれはそれは美しい山神様がいらっしゃる』と。
子供心にも、もう随分痴呆の症状が出ているとわかった曾祖父のその言葉を大人の誰もが聞き流す中、その話が嘘だろうと判っていても、曾祖父の話す山神様の美しさに、その話をする時の曾祖父の生き生きした表情に、僕は何度も何度も話をねだり、その骨と皮だけになった細い胡坐の中につつまれ甘えた。
だから、ある日ふらりと曾祖父が家を抜け出し裏山の雑木林で冷たくなって見つかった時。行き慣れた山で遭難するほど痴呆が進んでいたと大人たちが噂する葬儀の最中、曾祖父の幸せそうに微笑む最期の表情に僕は一人だけ気がつき納得した。
曾祖父は山神様に連れて行かれたんだ。と。
*****
「寒い」
手袋をしていても凍てつく寒さに指先の感覚が鈍り、思わず口にした言葉が白い息となって気温の低さを伝える。
昼間の日差しで融け、今朝の寒さで再び凍ってしまった歩道上の雪だった複雑な図形を描く氷の塊の上を気をつけながら走らせる自転車のタイヤは、それでも滑り、昨日の誰かの道をなぞり進む。
受験に失敗して、仕方なく通い始めた母方の実家傍にある高校は、地元の地方都市から電車で一時間、更に自転車で三十分かかる山の上にある。
たった一時間の距離しか離れていないのに農村風景が広がるそこに住まう人々の時間はゆっくり流れ、纏う感情はとても穏やかだ。
名前も知らないのに通り過ぎる人々はみな挨拶を交わし笑顔を見せる。
この地域に山神様の伝承は残っていない。
この高校に通いだし、役場から寄付と言う名で押し付けられ行き場を失った、図書館に住まう民俗学の資料を読み漁って、それは判った。
何より、曾祖父の痴呆が生み出した妄想かも知れないそれに想いを馳せていた少年期、何度も足を延ばした曾祖父の山の中、十夜は彼女に会うことは叶わなかった。
『十の夜を越えた先、あの方はいらっしゃる。お前の名前の由来じゃ』
曾祖父の山神様の話の終わり、必ず慈しみのこもった瞳と声で語られた一言は十夜の中での誇りであり希望だった。たとえ伝承に残っていなくても、雪道の中の轍のように曾祖父が残したものに少しでも触れられれば、なぞり進めると十夜は信じ続けていた。
高校生活も随分と慣れ、後数ヵ月後からはニ年生と言う節分の日の朝、通りかかった母方の実家である曾祖父の家の前。本当は待ち構えていたであろう祖父や伯母に、偶然を装い夕食に招かれた十夜は笑顔で快諾した。
とても優しい人たちなのだ。
曾祖父との思い出が深いこの家が十夜は好きだった。曾祖父が亡き後も自ら好んで足を向けていたし、またこの家の人たちも喜んで十夜を迎えいれてくれる。今では時折冗談めかして、両親の元を離れ、継ぐ子供がいないこの家と養子縁組し跡継ぎとして入ってほしいとまで乞われている。
もともと交通の便も悪く、天候悪化で唯一の公共交通機関であるローカル線のディーゼル車も簡単に止まってしまうこともあり、十夜がこの家に一人泊まらせてもらう回数は高校進学を気に一気に増えた。伯母の気遣いもあったのだろうが、今では数日位なら普通に生活できる程度の私物が、昔曾祖父が使っていた部屋に揃えられている。
今年、優秀な弟が地元の有名進学校への進学を決めた今、差ほど家庭内で重要視されていない十夜にとって、本当にここは居心地が良い場所だった。
放課後いつものように気心の知れた友達とじゃれあいながら、さも当たり前のように曾祖父の家に帰れば、玄関先の雪かきをしていた伯母が、これもまた当たり前のように友達も手招きし、ストーブの上のやかんがホツホツと蒸気を上げる中、暖めておいてくれた居間のこたつの上にお菓子を並べもてなしてくれる。
「良い伯母さんだよな。俺、ずっとお前んち、ここだと思っていたよ」
お笑い番組の再放送を寝転び笑いながら見ていた友達が、CMの中の幸せそうに煎餅をかじる家族を見ながら、ふとそう言った。
「僕もそうだったらいいなってずっと思ってた」
思わず口にしてしまった本音は、CM明け早々の下ネタギャグに紛れ冗談のように響いた。
足元が悪くなる前にと帰っていく友人を見送った後、母親に曾祖父の家に泊まる旨を渋々メールした十夜は、節分の柊鰯の準備がまだだと騒ぐ台所の女性陣の声に、居間のこたつから重い腰を上げた。縁側においてあった洗濯用のサンダルを履き、屋根からずり落ち溜まった雪を避けながら母屋の裏にある台所の勝手口を開けると奥に見える一段上の中の台所の扉が開いていて、祖母と伯母が大豆を煎る香ばしい香りが鼻腔に広がる。
「柊が足りないんですか?裏の木からとってきます」
声を掛けると祖母が嬉しそうに顔を覗かせ、風呂焚き用の薪小屋にある鉈の位置を教えてくれた。
既に小さな星が無数に輝く夜空の下、あまりの空気の透明さに、十夜はニュースで聞いた異常透明という言葉を思い出す。
本来ならばかなりの距離を挟み、はっきり見えないはずのものが非常に澄んだ大気の中なら、その距離感を感じることなくはっきりとみえる現象だったと記憶する。
裏の薪小屋から鉈を取り出し見上げた裏山は木々の隙間が本当に何処までも見通せそうで、その身を雪に包み沈黙を守っていた。何も羽織らず着乱れた学生服姿のままでは大寒の最期の日の寒さは身にしみる。早々に柊の枝を持って帰ろうと十夜は、ぶるぶるっと震えながら母屋から裏山に続く庭の木の配置を思い出す。そういえば、この冬は、曾祖父が亡くなった冬と同じ位、雪深いらしい。縁側のサンダルで来たのは失敗だったかと後悔しながら、十夜は一度も雪かきの手を入れられていない、日々降り積もった雪がそのまま横たわる山のほうへ歩みを進めることになった。
「寒い」
秋頃から口癖になりつつある、思わず口にした言葉が白い息となって気温の低さを伝える。白く上染めされている視界の中、記憶を頼りに、やっと見つけた柊は庭と裏山の曖昧な境界線上、母屋の鬼門に植えられていていた。冬の凍てつく寒さの中、凛としたその葉の緑は、呆けてもなお、裏山を静かに見つめ、自分の身だしなみに気を使い続けた曾祖父の姿を思い出させる。
こんな自分のやっつけの姿がなんだか気恥ずかしいと感じながらも、母屋を背に靴下の爪先や踵が濡れてしまうのをこらえ、手を伸ばした柊の枝の先。ずっとずっと山の奥。
見えた光景に十夜は一瞬、息が詰まった。
握っていた鉈は手から離れ、そのまま積もった雪の中に埋もれる。
サンダルで靴下が濡れてしまうとか、さきほどまで気になっていた些細なことなどもうどうでもよかった。
本来なら、こんなにはっきりとは見えない距離だった。
聞こえぬ筈の空気がしゃらりと鳴り、曾祖母のお気に入りだったと聞く帯に住まう蝶に似た幾多の〈何か〉が惜し気もなく黄金の鱗粉を振り撒き周りを舞っていた。
それを目にしたとたん、十夜はそれを追いかけ山に飛び込んだ。
この季節、手入れに入る人もいない山道は雪も踏み固められていない。一歩ごとに膝まで埋まり、焦る気持ちに手まで雪を掻くように動かし歩みを進めた。
自分の荒く乱れた白い息の音だけが静寂の中響き渡り、気が付けば雑木林の奥深く、葉が落ちきった枝の隙間から月が冷たく見下ろしている。
深雪に足を取られサンダルはとうに、どこかに置いてきたようだった。
冷たくなった足に脱げ掛けながら、かろうじて張り付いていた靴下も急激な冷え込みで徐々に凍り固まりつつある。
十夜は先ほど自分が目にしたものを知っていた。いや、実際に目にしたの初めてなのだが、曾祖父の話そのままのそれを十夜はとてもよく知っていて、ずっと長い間、恋焦がれていた。
十夜が思っていた通り、いやそれ以上の人外の美しさを放つ異彩な存在。
そう、一瞬、遠くに垣間見えたあの姿は間違う事なく山神様のお姿だった。
興奮で沸騰しそうな心に相反し、薄着の体に雪山の寒さは身に堪えはじめていた。気が付けばガクガクと震えだす自身の体をぎゅっと抱きしめ、上手く動かなくなりつつある足を前に前にと進めれば、山を守る木々の姿が消え、突然目の前の視界が広がった。
今まで何度も来た事のある裏山に、こんな場所があることを十夜は知らなかったし気が付かなかった。山の頂上と思われる視界を遮る物がない拓けた場所からは周囲の山々が見渡せる。
曾祖父の裏山はそんなに高い山ではない。ひょっとしたらここは十夜が思っている以上に山深く、感じている以上に時間が経過している場所なのかもしれない。
その場所に、山神様はいた。
冷たく射るような月光に照らされた、細やかな刺繍のような模様の施された白銀を思わせる繊細な着物が、艶やかで燃えるように美しい生命の、歓喜の色合いの着物へと変化していく。それは冬山に新緑の春が訪れる様にとてもよく似ている。……いや、彼女のこの姿に山が似ているのだろう。
山々に響き渡る歌声は今まで聞いたこともない音色と言葉で構成されていて、包み込まれていると錯覚するほど厚みのある低音が魂の鼓動を思わせるリズムを力強く響かせ、空を舞う花びらほど軽やかな高音が生の喜びを踊る。
一歩、一歩、歩みを進めるその白い足の周りは、一瞬にして残雪がとけ緑が芽吹き花が咲く。
優雅で厳かな舞の中、延ばされた指先が触れた木の枝には満開の桜が咲き乱れ、吐息の温もりに蝶が舞う。
両腕に巻かれた薄く長い布が羽のように揺らめき、木漏れ日にも似た優しい光が淡く彼女の周囲を照らす。
それは一度見たら忘れられないものだった。
魅了、というのだろうか。
衝撃的過ぎて、けれど本来は呼吸をするより当たり前のことなのだと心のどこかは理解していて、静かに見守ることしか出来ない。
気がつけば唄と舞が終わり再び静寂が横たわっていた。耳の中が痛くなるほどに静かで何もない。
<見えるのか?>
背後から掛けられた声はとても厳かで美しくて恐ろしい。
人の言葉と違うそれは理解は出来なくても、頭の中で直接意味を成す。誰が声をかけてきたかなんてことは、その気配で全てが感じ取れた。
「曾祖父からあなたの話を聞いていました。僕もあなたに連れて行ってもらいたい」
かろうじて唇に乗せることができた言葉は酷く掠れていて、今まで散々彼女に会ったときにと用意していた言葉と程遠い。
<人の子に興味はない>
取り付く間も与えぬ拒絶に、けれど絶望を覚えている暇は十夜になかった。振り向くこともままならない圧倒的な存在感に眩暈を覚えながらも、震える両手を握り締め想いを告げる。
「あなたのお傍に居させて欲しいのです」
<我が触れれば人の子は消える>
「消えてもいい。あなたのお傍に。」
身動き一つ出来なかった身体に叱咤し、全力で振り向いたそこに居たのは雪のように白い肌、濡羽色の長い艶やかな髪、そして夕焼け空のような赤い瞳をもつ、美しい顔立ちの生命の美の化身。
十夜は意を決し、そのまま冷たくなってしまった両手を伸ばした。雪のように白い頬に触れた瞬間、春の日差しのような温かさを感じること驚きつつも、とても美味しそうな春色の唇に自分のそれをそっと重ねた。
曽祖父は言っていた。
山神様が人に触れれば人は消えてしまう。けれど人から山神様に触れることが出来たなら…。
<其は呪。我はおぬしに捕らえられた。何を願う、人の子の主よ>
長く長く続いた接吻の終わり、鼻先に感じる離れた唇からの吐息には吸い取られてしまった十夜の生命力が混じっている。
「何も。ただ……ただあなたのお傍に」
その言葉と、彼女が自分にだけに見せてくれたであろう笑顔は人間に対する慈愛に満ち儚く美しく、そして物憂げで、一目で心は捥ぎ取られ、もう死んでもいいと十夜は思った。
*****
気が付けば、寝心地のいい曾祖父の部屋の布団の中、天井を背景に伯母が両目に涙を浮かべ見つめていた。
節分の夜、裏山での遭難と言う少々不名誉な神隠しにあった十夜はあの後、意識を失った状態で発見され、時折目を覚まし訳のわからぬことを口ずさみながら十日間熱にうなされていたという。
永遠にも、一瞬にも感じられたあの時間から目覚めたとき、十夜はなぜか自分の魂の重さが少し軽くなったのを感じた。今まで魂の重さなんて知らなかったし、意識した事もなかった。けれどそれは、確実に軽くなったと認識できるものだった。
幼い頃から求め続けていた彼女にやっと出会い、十夜は無意識のうちに彼女の傍に、別れの名残惜しさゆえにその一部を置いてきてしまったのだろう。
神隠しの後、曾祖父の家に十夜が養子縁組する話はトントン拍子で進んだ。
格式の高い本家に居座る子供と散々威張り散らかし嫌味を言っていた親族の誰もが反対などしなかった。それどころか親族から十夜に頭を下げ願ってきた。
けれど、そんな些細なことに、当の十夜には全く興味などない。
道路の端、除雪車が残した雪の塊が溶け出し出来た薄い氷の上を滑らないように気をつけながら、いつもどおり高校へと通学する。
「寒い」
形式的に手袋をしていはいるがこの指先が冷たさや温もりを感じることはもうない。冬の口癖だった思わず口にした言葉は、まだ冷たいはずの外気に溶け込む。
高校へと続く道の桜並木、まだ蕾は固そうだがその枝先は蕾を染める為、濃い桃色にも似た色合いを淡く発していた。
山神様が一足早く迎えた春が徐々に人々の元に訪れを告げる。
今日も十夜はあの夜の彼女だけを想い、彼女と再び会えるその日の訪れを願い、人の生を生きる。