回春の女神(2)
回春の女神(2)
ヘラがカナートスに出立してまもなくの事。
大神殿の入り口でその姿を見送ったイーリスは、その時背後から呼びかけられた。
「あの虹は何を伝えに行ったの、イーリス?」
イーリスがその声に振り向くと、そこには黄金杖片手に秀麗な青年神がにこやかに立っていた。
それはイーリスにとっては顔見知りの同業者にして友、自分と同じ伝令の神。
それに訊ねられた問いは隠す必要もない事なので、イーリスはニコリと気軽に答えた。
「ヘラ様がカナートスに向かわれた事を伝える虹よ、ヘルメス」
「ヘラ様がカナートスに?」
ヘルメスは目を瞬いて訊き返すと、イーリスはクスクスと笑った。
「そうよ、だって“春”だもの」
彼女の言葉にヘルメスはやっと感得した。
―――春、冥界で暮らしていた大地の女神の娘が、母の元に帰る事で生まれた季節。
この時期は同時に神々の女王もまた『生まれ変わる』季節だったという事を。
自体を把握すれば一つ仕事が出来た。
この事を主神に伝えずして何とする。
ヘルメスは直ぐにそう考えた。
イーリスがヘラの伝令女神ならば、彼は大神ゼウスの伝令神なのだ。
そう思い立つやヘルメスは踵を返すと、瞬時に黄金の翼あるサンダルが煌めいて彼を空へと駆け上がらせる。
軽く空に浮いたヘルメスは、そこで頭上から虹の女神に別れを告げた。
「じゃあね、イーリス。良い事を教えてくれてありがとう!」
「ええ、ゼウス様によろしく伝えてね」
手を振るイーリスに見送られて、神々一の俊足を誇る伝令神は己が主神の元へと飛翔していった。
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オリンポスの神殿から離れたとある春の丘。
雲一つ無い天空に、一際見事な虹が架かっている事に気づいた男は「ほぉ……」と感歎の声を漏らした。
「こんな蒼穹に虹が架かるとは……」
この時、男の側では数人の乙女達が、彼を取り囲み笑いながら詩と楽を披露していた。
丘に咲く花々を舞台として、心地よく澄んだ歌い手の乙女の声に笛や琴の伴奏に合わせて春風を友にして軽やかに舞い踊る。
それは美しいニンフ達の享宴だった。
男は今までずっと心行くまで彼女達の見事な歓待を受けていたのだが、この頭上に架かった虹に気づくやその事すらも忘れた。
今なお歌われる美しい詩声も、ニンフ達の美しい姿も目に入らずに臆断し始めた。
男は虹を眺めながら顎に手を当て独りごちる。
「ふむ、これはイリスの仕業だな。あの女神が故意に架けた虹ならば、あの虹の行く先が気になるな……」
虹の女神イーリスは、ヘルメスと共に『伝令神』の異名がある。
かの女神は虹に言霊を乗せて、伝えたい用件を相手に届ける事が出来るのだ。
「あの虹の降りた先……あそこは確か……」
その時。
男の気にしていた答えを携えて、彼の忠実なる息子が天空から舞い降りた。
「カナートスですよ、ゼウス様」
「ヘスメスか……、良く此処が分かったな」
その姿に、男―――大神ゼウスは顔を綻ばせた。