7階
ふと、耳元で弾けた羽ばたきに上体を起こす。窓外では、折りしも一羽の小鳥が特別教室棟から上空へと飛び立つ姿が見えた。結構な音に感じたのは自分のみか、見渡す午後の教室では静かに理科の授業が展開されている。数人が深く頭を垂れ、中には完全に俯せる者も居る低い上澄みを、筆記具の囁きが掠めていた。
「……頬白か」
板書の手を一端休め、教壇に立つ若い理科教師が南の窓へ向かい呟く。彼の目線へ自分の視線を重ね、跳ねる様に飛ぶ小鳥が、やがて彼方で点になるまで見続けた。自由な空から最も遠い廊下側に位置する自分の耳が何故、微かな羽根音を拾えたのか定かではないが、無意識がいつしか意識を伴い唯一つの音を吸い込むことはしばしばある。
今も、そうだ。気付けば耳は背後の筆記音にのみ、集中している。鉛筆の柔らかな芯は紙を傷つけることなく滑り、文字を記した。小坂部の眼前では、授業開始直後に投げ出されたシャープペンシルが鈍色を放ち所在無く転がっている。来月早々に中間考査を控える行事予定にも板書を書き写す気力は無く、ノートを誰かに借りさえすれば良いと安直な代替策を講じる自分に些か呆れた。恐らく、寝ている者も同じ魂胆なのだろう。事実、終業直後にはノートの貸し出し交渉が始まっていた。
「藤倉の授業、超好き! 寝てても文句いわねえし」
「な! すげぇ、楽! 怒らない、指さない、課題ない。もう、全授業理科で良いよ。藤倉、バンザイ!」
無事にノートを確保できた一群が、俄かに教室隅で盛り上がる。煩さに眉を顰める小坂部の隣で、黙々と帰宅準備を進めていた木村が不意に口を開いた。
「幸せね……見放されてると云うのに」
誰にとも無く洩らした独り言を鞄へ詰め込み、蓋を閉じる。彼女の持つ、黒い旧式の指定鞄は小坂部の姉が使用していたものと同じ形の物で、余程、丁寧に使われていたのか綻び一つ見当たらない。過度の詰め込みにも素直に噛み合う金具は音を立て、艶やかな革が丸みを帯びた。
「誰に、見放されてんだよ」
小坂部の問い掛けに木村は一瞬、動きを止め、業とらしく開いた瞳で見詰め返す。
「聞いてたの?」
「聞こえたんだよ。お前の声、デカイから」
瞬間の単語誤変換に気付き唇を閉ざすが、言葉は彼女へ到達する。音量ではなく質の良さだと訂正した処で、前言撤回できる事態は少ない。けれども、木村ははにかみ笑い、デカイよね、と復唱し更に笑みを深くした。
「良く言われる。でも、さっきくらいの大きさでも聞こえちゃうんだね。少し、驚いた」
自覚はあれども、不確定な自分の身体を制御するのは困難だ。複雑な沈黙を見せる木村の横顔を眺めながら、小坂部は次の言葉が見付からず邪魔な足を組み換えた。出したままの教科書は、結局、開かれることも無く授業を終える。
「……藤倉先生って、怒らないよね。寧ろ無表情で、私だったら怒鳴るだろうなって時も、決して何も云わないの。何でだろうって思って、考えて……そうしたら、見放されてるんだって気付いた。私だけかも知れないけど……怒る時って、大概が自分の期待に対する相手の裏切りが原因でしょ? ならば、期待しなければ怒りすら生まれない。結果、先生にとって私たちはどうでも良い存在なのかなって思ったの。それだけ」
最後の四文字に全てを集結し、木村は再び笑顔を浮かべた。始業式から変わらぬ彼女の深い洞察に、小坂部は口角を僅かに上げ、一言キモイと付け加える。
「お前、俺の隣でそんなこと考えてたのか。キモイ。っつーか、コワイ」
配慮を欠いた言葉選びに曇るかと思われた表情は一片とて変わらず、木村は薄い笑みを乗せた表情のまま唇を尖らせた。
「ソレも良く言われる。主観と客観の違いなんて、私にはどうでもいいけどね。そんなことより、川瀬が今日も一人で部活へ赴いた事の方が重要だ」
如何にも文芸同好会らしい断定口調で話題をすり替え、彼女が指差す席の主はもういない。机上に僅かの消しゴム滓を残し、川瀬が何時の間に退室していたのか。気付きもしない切なさが、彼の生活から切り離された己の断片を認識させる。
「今週でもう、三日目だ。喧嘩でもした?」
幼い響きを漂わせ、嗾ける彼女の誘いが空々しい。小坂部は教科書を机の引き出し棚へ入れ、元より軽い鞄へ筆記具を掴み入れた。アルミのペンケースが些細な動きにも硬い音を立てる。
「そ。見放されたの、俺」
途端、弾ける木村の笑い声へ室内に残る生徒が視線を寄せた。所詮、他人には笑い事なのだ。いっそ、清々しく笑い飛ばされ安堵する自分に気付く。ロッカーからジャージを取り出し、騒がしいペンケースの上へ押し込めると膨らむ鞄を背に廊下へ歩み出る。案の定、人気の無い廊下は暗く、未だ続く木村の笑声を耳へ宿しながら小坂部は本日も禁じられた踊り場へ段を進んだ。
ささやかな期待を胸に青い扉を仰ぎ見れども誰の姿があるはずもなく、静寂に包まれた異空間が存在する。同じ建物の内部に居たとて見える景色が異なるならば、違う次元で棲息するに等しい。小坂部は階段を昇りながら鞄を開き、衣類に潰された紙箱から堪らず煙草を一本抜き出した。ポケットからライターを取り出し、片手で着火する。揺らめく炎を鼻先で見詰めながら邪魔な鞄を放り捨て、臨んだ扉へ凭れ掛かると深い一服を胸中へ宿した。広がる煙が自分を満たす。
もう、何日目だ。
川瀬が一人で部活へ行き、一人で登校を始め、独り静かに自分を避け出したのは。
明らかな原因が自分にあるとしても、感傷に浸る余裕は無い。苛立ちに理由を付けるならば、未知に対する不安だ。彼が傍らにいない状況など既知の感情だと云うのに、先月と同じ行き場を喪失した憤りが込み上げてくる。
……怒る時って、大概が自分の期待に対する相手の裏切りが原因でしょ?
「気持ち悪ぃくれえ、当たってんよ。クソ!」
小坂部は情動の侭、壁へ拳を打ち付け熱い額を押し当てた。
登校時間をずらした癖に、教室で会えば挨拶を交す。話し掛けることはなくとも、問い掛けには応じる。笑顔を見せるが、語調を荒げることは無い。彼の生温い倦厭が、自分の行動を鈍く拘束する。止めが、今日の有り様だ。挨拶時とて顔を向ける事も無く、終始、虚空を眺めているかと思えば、突然、慌しく動き出す。挙動不審に怯えの色を綯い交ぜて、自分を窺う彼の眸は悲しくも拒絶を孕んでいた。
川瀬の自分へ対する期待が禁煙だとしたならば、裏切りは今、手の内にある。伸びる灰を携帯灰皿へと落とし、煙に巻かれ眼を閉じた。ならば、自分は彼に何を期待していると言うのだろう。
再び目蓋を上げれば、眼前の壁へ記された数字の羅列が眼に飛び込む。
31723211。
サミシイ。
「……誰が」
煙草を擦り付け、文字を汚す。灰に混ざり行く鉛の曖昧が、白い壁にくすんだ一点を浮き上がらせた。彼女が舞う理由。彼を待つ理由。
淋しい。
「一生、ソコでまってろよ」
所詮、誰かと触れ合おうとしても、他者を知るほどに孤独の溝は深まりを増す。初めから一人ならば、幸福だ。期待も希望も僥倖も不要な世界で唯独り、己を謳歌すれば良い。絶対の孤高へ身を置く姫が、何を今更、他者の温もりを求めると云うのだろう。結局は、誰もが幻想の中で自分のみへの興味を偽り、邁進しているだけなのに。
小坂部は拉げた吸殻を指で挟み持ち、見詰め、携帯灰皿へと隠滅する。残る微かな匂いに級友ですら気付いたというのならば、家族には疾うに喫煙の事実を知られているだろう。けれども、誰に言及されるでもなく今日に至るまでの日々、潰した煙草は幾本か。煙に巻かれ、煙に巻き、全てを誤魔化し続けた時間は。
「……見放されてるな」
新しく開封したばかりの紙箱内には十数本の細筒が並び、匂い立つ芳香で小坂部を誘う。二本目を取り出そうと指を伸ばし、ふと先日、残した吸殻を思い出した。床に飛び散る粉の灰、押し潰された吸殻、奪われた煙草。即座に足元を確認するが、喫煙の痕跡は全て消されている。川瀬が持ち帰ったのだろうか。
それとも、誰が。
床へ膝を着き屈み込む小坂部の背後で、急に迫る足音が聞こえた。四階へ立ち寄ることも無く階段を昇る人物は勢いを増し、ひたすらに高みを目指している。新たに湧き出た音へ反応の遅れた小坂部は咄嗟、煙草をポケットへ押し込み鞄を手繰り寄せ、来るべき相手に供えた。
振り返り、向き合う瞬間。
「……武尊」
「良かった。今日も、ここに居て」
川瀬は笑顔を浮かべながら、蜜柑色のデイパックを胸に抱え階段を駆け上がる。本来ならば部活中の彼が何故、通学用デイパックを手に踊り場へ来たのだろう。しかも、普段と変わらぬ表情で。
疑問に立ち尽くす小坂部の隣へ川瀬は並ぶと、嵩張んだデイパックを丁寧に足元へ置いた。衣服でも詰められているのか奇妙に膨らんだ鞄は座りが悪く、横倒れる寸前、彼が壁へ立て掛ける。
「何だよ。また、部活の呼び出しか?」
小坂部は壁に身を預けポケットから再び煙草を取り出し、新しい一本へ指を伸ばした。すると透かさず川瀬の手が伸び、小坂部の右手を制した彼の左手が柔らかく紙箱ごと包み込む。
「吸うの……悪いことだと解ってるから、バレないようにしてんだろ?」
彼の腕に余る長い袖から覗く手が、煙草を持つ小坂部の指を一本ずつ離していく。五指全てを外し、小坂部の手を放れた紙箱を川瀬は一端両手で包み込み、破れた内側の銀紙を器用に元の形へ折り返した。前回同様、煙草を奪うかと思えば、今日は小坂部のポケットへ紙箱を仕舞い入れる。封でもする様に川瀬はポケットの口へ両手を当てたまま小坂部を見上げ、一度双眸を閉じ、再びの瞳で静かに尋ねた。
「なのに、何で吸うの?」
白眼が青く潤んでいる。瞬きもせず、時を止める術を赦された表情は容赦なく真意を吐露させた。
「……塞いで、いたいから」
流出しそうな己自身を、開いた傷口を、塞いで、痛いから。
小坂部の零した一言に川瀬は素直に頷き、黒い跳ね髪を揺らせる。やがて綻び開く緩やかな笑みを浮かべ、小さな両手を胸元で組み合わせた。
「口を塞げばいいんだろ? だったら、オレが塞いでやるよ」
簡単だ、と付け加え川瀬は朱に色付く人差し指を小坂部の唇へ優しく当てた。次いで伸ばした手を双眸に翳す。
「だから、目、瞑ってて」
云われた通り小坂部が目蓋を下ろすと直に手が離れ、足元でファスナーを開く音が続いた。余程、眼を開けてしまおうかと思う。しかし、瞑るほどに増幅する期待は棄て難く、小坂部は腕を組み壁へ全身を委ねた。聞き慣れない些細な音が腰下で蠢き、ついには溢れる焦燥がせめて耳を欹てようと跼る。
「未だ、目、開けるなよ?」
小坂部の動きに不安を感じたのか、川瀬が近くで牽制した。軽く頷き返すと、了解の合図か単なる試行か今度は肩口へ手が置かれる。彼が自分に何を行おうとしているのか皆目見当も付かず、逸る気持ちが漫ろにさせた。温かな手は静止を促し、自由な腕が熱を求める。
「未だだよ。未だ、だめ」
近付く気配を漂わせながら川瀬は繰り返し呪文めいた復唱をし、小坂部の閉じた目に緩く息を吹き掛けると唇へ冷やりとした硬い異物を挿し入れた。瞬間、鼻腔を突く甘い香り。小坂部は直ぐ様目を開き、唇の間にある物を抜き取った。指間に収まる細く長い、薄茶の棒菓子。
「ココアシガレット。口つけたから、食べたってことでいいよな。お前も共犯」
微笑みながら川瀬が白い歯を覗かせ、同じ棒菓子を噛み砕く。小気味良い音を響かせながら縮んでいく菓子はシガレットの名前以上に甘い。薄荷の香りと砂糖の風味。口に含めば弄ぶ舌の上、ざらつきを伴い形を変えた。
「煙草、止めさせようって思っても、どうすればいいのか解らなくて……禁煙って煙草の代わりを吸って我慢するって聞いたけど、何が代わりになるのかも知らなくて……毎日、毎日考えたんだよ。でも、煙草に似てるのって、これしか思いつかなかったんだ」
川瀬が群青色の小箱から追加の一本を口へ運び、美味しそうに前歯で食む。一点に思考を集中させた余り、不器用な性格は日常の慣習にすら異変を来たしたのだろう。語られる稚拙な理由に茫然とする小坂部を然して気にする風でもなく、川瀬は菓子の残りを箱ごと彼へ手渡し、腰を下ろした姿勢のまま蜜柑色のデイパックを手繰り寄せた。
歪に膨らむファスナーを勢い良く滑らせ、逆立てる。見事に開いた口から溢れ出す物は全て鮮やかな彩りの駄菓子で、瞬く間に原色の一山が築かれた。転がる飴玉、垂直の箱菓子、球体を帯びるスナック袋。澱んだ構内に花畑以上の誘惑が秘めやかに華やぐ。
「初めての校則違反だよ。お菓子、学校に持ち込んだことなんて無いから、凄い緊張した。バレたらどうしようって、怖かった。何より、小坂部に隠し事をするのが一番難しかったんだよ」
口調に反し少しも悪びれた様子を見せず、川瀬は手元の一口チョコレートを掌へ拾い上げた。商品名の記された茶色のセロファンを嬉しそうに剥がし、現れたチョコレートを自分の口へ投げ入れ、同じ品を同じ手順で小坂部の口へも運び入れる。
「お前、いつもこんなドキドキすることしてたの?」
覗き込む彼の瞳を捉えようとし、小坂部は伸ばされた川瀬の手を反射的に掴んだ。指先に残る、熱に融けたチョコレート。小坂部は甘い指先へ舌を這わせ、力任せに彼の片腕を引き寄せた。日溜りの体温が内部へと流れ込む。
「してたよ……今も、してる」
上体を崩した川瀬の腕の下で、小さな袋菓子が音を立てて弾けた。固まる二人の合間へ、溢れ出る鮮やかなゼリービーンズ。小坂部は指先へ転がる赤を抓み、同じに色付く彼の唇へ挿し込んだ。受け入れた口は素直に嚥下し、替わり川瀬が緑の一つを小坂部へと差し出す。
けれども、受け取ろうと伸ばした小坂部の掌へ乗せられたのは彼の温かな右手で、川瀬は菓子を自分の口へ放ると無言のまま腕を引き、傾れ込む小坂部を抱え込んだ。膝を着き腰を上げても、漸く座る彼を胸に抱ける身長差で、川瀬は小坂部の両肩へ腕を乗せる。
「オレも……オレも、ドキドキしてる。立ち入り禁止場所で菓子食べてるのなんてバレたら、凄く怒られちゃうよね。でも……どうしてだろう。オレ、お前と居ると、何でも出来ちゃう気がするんだ」
彼が語る以上の心音が振動を伴い、自分の耳へと伝い来る。耳を澄ませば、いつしか自分の鼓動と重なり、睡魔を誘発する心地よさの中で川瀬が小さく尋ねた。
「ねえ、聞こえてる?」
胸から響く彼の声。髪間を這う細い指は小坂部の地肌に触れ、徒に耳裏を探る。背筋を昇る愉悦を押し込んだ感情は、次第に笑声へ変化し咽頭を震わせた。珍しく迷う上膊で空を掻き、触れた彼の細い腰へ両腕を巡らせる。
抱き締めて、しまおうか。
「聞こえてるよ……すげえ、殺し文句」
返答に慌てて川瀬は身を剥がし、小坂部の表情を正面から見据えた。
「だっ、誰にも云うなよ! これはオレたちだけの秘密なんだからな!」
急速に赤らんで行く肌の変化を眺めながら、小坂部は笑い手近に転がる飴玉を掌へ乗せる。両端で結ばれたセロファンを解き、現れる明度の高い塊が歪な球形で光を弾いた。
「云わねえよ。云いそうになったら、口を塞ぐさ。コレで」
青い果実の匂いを撒き散らせ、逃げ惑う飴を騒がしい唇で啄ばむ。見上げた切り窓に、飛行する鳥影。硝子の遮る羽ばたきが今も尚、耳元で蘇る。新たに増えた甘い秘密は、小坂部の舌根を満足に蕩けさせた。




