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6階

「明日の予定は……二年、三年は相変わらず。朝練も自由参加。一年はラケットカタログ届くから、今週中に戦型決めて来週には発注掛けられるようにしとけな。以上、解散!」

 結局、三十分置きに部活動へ顔を出した坂本は最終的にジャージへ着替え、終了作業を取り仕切ってから漸く生徒会室へと戻った。廊下まで響く副会長の怒声を耳に、走り抜けた昇降口の先では一番星が人工的な明るさを放つ。明滅する外灯に苛立ちさえ感じながら私生活へと切り替える移行時間は僅か一時間にも満たない。左腕で余裕を削る秒針を横目に夕食を流し込む羽目になったのは、汗ばむ肌へ風呂を優先したからだ。

「悠。半から授業でしょ? もう、七時過ぎたわ。早く塾へ行きなさい」

 急かす母親の声に口答えする間も無く小坂部は食事を終え、身支度を整えた。自転車を飛ばせば間に合う時間とは言え、失速直後に訪れる纏わり付く暑さを疎みながらサドルへ跨り塾を目指す。

 混み合う商店街車道を器用に裏道へ抜け、勝手に使用している大型スーパーの駐輪場へ付く頃には登塾する生徒の数も疎らに、普段は出迎えをしている講師さえも校舎へ身を潜めていた。間に合えば良いと思いつつ、悠長に歩いて行ける根性は持ち合わせていない。心持ち急ぎ足で歩道を進み大きな硝子扉を開けると、一瞬の思考を奪う冷風が露出した肌を一撫で宥めた。

「こんばんは、小坂部。川瀬、待ち人が来たぞ。これで全員揃ったな。さあ、授業を始めよう」

 凛と張る声が小坂部の視線をカウンターへ引き寄せる。小柄な国語科講師は柔らかな笑みを見せ、手前に居る川瀬を促した。前屈みに何事か取り組んでいた彼は即座に作業を中断し、出入り口で立ち尽くす小坂部へ勢い良く上体を捻り向ける。

「遅いよ、小坂部! あんまりにも来ないから、オレ、スズ先生に聞いちゃったじゃん!」

 川瀬の語気に合わせ、黒い跳ね髪が左右へ広がる。彼の肩越し、カウンター上に広げられた学習教材を見て、漸く小坂部は部活中に交わした約束を思い出した。

「ああ……ごめん」

 ついぞ漏れた言葉に川瀬は眼を瞬かせ、膨らませた頬を萎ませる。

「べっ、別に良いけどさ。モンダイはカイケツしたし……つか、お前が素直に謝ると、変」

 俯きがちに川瀬は答え、傍らのデイパックへ無造作に教材を押し入れた。歪に膨らむ鞄を眺めながら、ファスナーを閉め終える頃合いで国語科講師が昇降機の釦を押す。呼ばれた昇降機は上階から階数表示の明滅を繰り返し地上へ到達すると、気分良く電子音の合図を飛ばし存在を誇張した。先に足を入れる自分達へ続き、迎え来た箱に気付いた講師数名が慌てて乗り込めば室内の密度は瞬く間に上がる。隙間を埋める人込みに小坂部は自ら隅へ身を寄せると、次いで押し流されて来た川瀬の小さな身体を抱き留めた。

「ごめん」

 大きな眸子が自分を仰ぎ見る。小坂部は小さく首を振り、半袖から伸び出た腕を温かな身体へ巻き付けた。初夏とは言え、普段は長袖を纏う肌に冷房は薄ら寒く、それは人熱れの中でも変わらない。各階停まりで上昇する機内は階を増すにつれ人を減らし、幾ら自由な空間が広がろうとも小坂部は背を壁へ預けたまま川瀬を手離しはしなかった。

「……小坂部って、何かイイ匂いがする」

 絡む腕を解きもせず、川瀬が小さく零した。声に自分の肩口へ鼻を寄せるが別段、芳香は嗅ぎ取れない。

「出掛けに風呂入ってきたからかな」

 香水を嗜む講師が居たならば残り香だろうと応えるが、乗り合わせた講師の大半が男性な上、女性である国語科講師に至っては化粧すら薄い有様だ。黒い短髪、黒縁眼鏡。一見すると小柄な男性にも見える国語科講師、日高涼は名前の印象からも性別を断定するのは難しく、自己紹介を受けるまで小坂部は涼をリョウと疑いもせず読んでいた。

「名は重要だからな。間違えては意味が無い」

 日高は予め一言告げると、春期講習初回の授業にて黒板へ自身の姓名を漢字で大きく記し仮名を振り、更には声にまで出して生徒へ知らせた。教壇に立つ者には一癖ある者が多いが日高も例に漏れず、口調すら一介の女性講師とは一線を画している。業務規定とは言え白衣を痩身へ纏い、音吐朗々と読み上げられる古典は実に流暢だ。日常会話においても国語科らしく文語めいた言葉を好み、程よく薀蓄と雑談の織り交ぜられた授業は生徒の集中を途切れさせること無く終了時刻へと導いた。

 本日も三時間に及ぶ授業を勤め上げ、最後の生徒が板書を写し終えるまで彼女の退室は赦されない。

「小坂部、すまないが俺は先に下へ行く。部活のことで代々木に話があるんだ」

 最前列に腰を下ろしていた少年は未だ筆記具を走らせる友人を一瞥すると、傍らに立つ小坂部へ先行する旨を説いた。四人のみの室内に彼の声が莢かに渡る。

「オッケー、久米。ついで代々木に、あと十分以上遅れるっつっといて」

 小坂部の返答に久米は微笑み、黒板前へ立つ日高に一礼して教室を後にする。小走りに消え行く彼の足音を聞きながら、日高が右側の板書を一行、黒板消しで静かに剃り落とした。力を込め上から下へと移動した手の後には、舐めた様に艶やかな深い緑の線が残る。

「川瀬、写し終わるか?」

 次の一行に黒板消しを携えた両手を合わせ、一瞬の躊躇を見せると日高は振り向き独り着席する生徒に尋ねた。

「今、最後の行を写してるから、もう少し」

 顔を上げもせず応えた川瀬の返答を合図に、日高が一気に文字を消し始める。一行、一行、継ぎ目も残さず鮮やかに。けれども小柄な身長の届かぬ上部には、薄らと他講師の残した線の後が見えた。

「俺、消しますよ」

 小坂部は言葉と同時に日高の手から黒板消しを奪い、彼女の遥か上部へ手を掛ける。覗く頭頂の位置は川瀬と同じだろうか。考え眺める小坂部へ日高は笑みを残し、自分は教壇を降りて今だに鉛筆を握る少年の元へと向かう。ローヒールの平たい足音が直線を進み、壁側最後列手前で正しく停止した。

「川瀬、そろそろ本入部の時期だろう。部活は決めたのか?」

「うん、卓球部! もう、入部したよ。小坂部と一緒なんだ」

 ああ、話せば遅れるだけなのに。

 二つ以上の動作を同時にこなすことの出来ない不器用な川瀬は案の定、声へ耳を傾ける度に手を止め、小坂部の名を口にする際には満面の笑みを乗せ彼へ視線を回した。思いがけず出会う瞳に小坂部は慌てて黒板へ向き直し、自分こそ止めていた作業へ着手する。

「卓球部は楽しいか?」

「楽しいよ、凄く!」

 振り返るまでもない喜色が空気を伝い背を覆う。指先に力を込めども意識は見えぬ裏側へ集中し、下ろした両手は醜い蛇行を描いた。続く会話の笑声は余計に自分の失態を際立たせ、小坂部は黒板消しを強く握ると全力で文字を無に帰す。

「楽しい事は良い事だ。帰りは自転車か? それとも誰か迎えに来るのか?」

「自転車。代々木や皆と一緒に帰るんだ」

 帰るなら早くしろよ、ドンクサ武尊。

 内心、密かに毒突くが表層には出さず、極めて丁寧に小坂部は黒板を拭い終え、手持ち無沙汰に立ち尽くした。自ら声を掛けるほど野暮な性分ではない。川瀬への断りも無く最後の一行を消したのは、愚図ついた彼への当て付けだ。黒板消しから離れた手には微かに白墨の粉が付き、擦ると伸びた白が薄い肌へ色を成した。

「……ならば、余り代々木たちを待たせてはならんな。小坂部も有難う。気を付けて帰りたまえ」

 呼び掛けに咄嗟、面を上げれば待ち構えた日高の柔和な表情が穏やかに受け止める。胸に沸き立つ、あらゆる感情を中和する空気が彼女最大の特長だ。小坂部は流されつつある自分を繋ぎ止めながら会釈を返し、彼女の隣で頷く川瀬を軽く促した。

「武尊、いいか? 久米たち、待たせてんだろ?」

「あ、うん! ごめんね、小坂部」

 誰よりも待っていたのは自分だ。だが、敢えて口を噤み、相手に気付かせてこそ価値がある。小坂部は先に戸口へ立ち、手掛けた指の小突く速度を徐々に上げた。否応にも耳へ流れる音律へ合わせ川瀬の動作も忙しく、掴み入れる帳面に肘鉄砲を喰らった布製ペンケースが机上から弾き出される。自分の足元へ落ちたペンケースを日高は屈み拾い、埃を払うと川瀬へ手渡した。

「無理に急がなくて良いんだよ、武尊。私も彼らも、待っている」

 両手で受け取る川瀬の低い頭頂へ彼女は白い手を乗せ、見た目よりも固い彼の髪を慈しむように繰り返し撫でる。忽ち上気し、破顔する彼の心情は誰の眼にも明らかで、小坂部は苛立つ指先を一時、手の内へ丸めた。

「うん、有難う。気を付けて帰るね! それじゃ先生、さようなら!」

 鞄を肩に掛けて尚、戸口で手を振る川瀬に半ば呆れつつ、小坂部は昇降機の釦を連打する。何度も押したところで迎え来る時間に変化はないが、どこか身体の一部を動かさずには居られない衝動が胸の中を渦巻いていた。

「この間も喋ってたけど……お前、スズ先生と仲良いよな」

 本日に限らず川瀬は一階に居れば必ず日高と声を交し、授業内容どころか日常の些細な出来事まで報告する有様だ。『あのね作文』を口頭で唱えるようなもので、小学生気分が抜けていないのだろうと小坂部は思うが、付き合う日高も講師の域を超えている。余程のお人好しか、暇人か。

 音を立て開く無人の昇降機へ川瀬は両足を揃えて飛び込むと勢い、頂点で閉じられたデイパックの両開きファスナーが左右へ寄り僅かに口が空いた。背後の事情にも気付かず、ゆとりある空間で一回転した彼は、よろけた足取りで奥の面へ身を寄せる。

「うん! スズ先生、大好きなんだ!」

 爛漫な笑みを咲かせ有りの儘に語る川瀬は、表裏が恐ろしく合致した性分だ。遅れ歩む小坂部の入室を見届けてから閉釦を押す。後ろで重なる扉の気配を味わいながら小坂部は川瀬と対角にある隅へ背を預けた。

「へえ……武尊、年上好みなんだ。何か、意外」

 多分に意味を孕む返答へ珍しく速い反応を示した川瀬は顔を赤らめ、両手に拳を握り反論する。

「何で直ぐ、小坂部はそうゆうコト云うかなあ! いいじゃん、オレが誰を好きだって。そんなコトより明日は部活、始めから出ろよ? 忘れんなよ?」

 忘れるな、とは当初の宿題云々も含んでの事だろう。自分が時間へ正確に現れさえすれば、川瀬は日高に尋ねなかったと云うのだろうか。過ぎた事を悔やむ性質ではないが、どうにも行動全てに腹が立つ。原因を追究するほどに膨らむ苛立ちはペダルの回転にも増して、一晩明けた今日に至っては給食の献立にすら憤りを覚えていた。晴れた日のピーナッツバターほど甘ったるい物はない。

「小坂部、未だ制服なん? 着替えるの待つから、一緒に部活いこ。な?」

 余情を鼻に掛けて川瀬が問い掛ける。日に焼け始めた腕は先程のコッペパンにも似た色合いで、思い出したむかつきが再び小坂部の胃を襲った。どう見ても全く運動などする気の無い服装を何と解釈すれば、毎日、飽きずに誘うことが出来るのか。行かない、と素直に述べたところで頑なな彼が納得するはずもなく、小坂部は今回も頭に浮かぶ適当な理由を口へ乗せた。

「便所、行くから先に行けよ。それとも、ご一緒する?」

 冒頭の単語か、末尾の勧誘か。川瀬は明らかに拒絶の意思を表すと頭を振り、徐に席を立った。

「いい……分かった。先に行くから、早く来いよな。それと、お前、さ……」

 彼にしては妙に歯切れ悪く口篭り、言葉を閉ざす唇に代わり古びた椅子が鈍く軋む。喉下まで声が届いているのか開閉を繰り返す朱唇は熟れた苺よりも赤い。

「何?」

 言葉を促し間を置くが、川瀬は曖昧な表情を繕ったまま気弱に笑い、掌を見せ手を振った。

「ううん、やっぱいいや。じゃ、オレ、待ってるから」

 一度の問い質しで鎮まる程度の興味ならば、内心に秘すれば良いと思う小坂部の傍らを抜け、川瀬は消沈した足取りで教室を歩み出る。丸めた小さな背を横目に、何故こうも執拗に自分を誘うのかと考えた。一人で部活動へ参加するのが嫌ならば同部員に声を掛ければ良い。一散に教室を飛び出す西川は無理だとしても、伊鈴は快く承諾するだろう。

 毎度、最後まで教室に居残ると、級友大半の行動予定が把握できた。一番に教室を出て行くのは大概が西川か久米で、次いで先輩の厳しい運動部員が続く。対して気侭に振舞うのが文化部員で、吹奏楽部員などは比較的早くに活動場所へと向かうが、美術部員や書道部員、文芸同好会の木村に至っては果たして活動状況さえも疑われるほど悠長なものだった。

「じゃあね、小坂部。暇なら図書室、遊びにおいで」

 軽い木村の声に手を振り返し、やがて静まる教室を空虚に思う。何よりも独り残る自分が一番の骸だ。眼を馳せた先に在る黒板には、所々に消し残された文字が残り、清掃当番の手抜きさ加減を漂わせる。縦横無尽な痕跡は、終いに弧を描く有様だ。小坂部は見捨てられた黒板へ未来の日付を記し、煙草をポケットに忍ばせ慣れた階段を天へ向かい上り詰めた。

 思えば、確かに川瀬が誰へ好意を寄せようとも自分には一切、関係の無いことだ。

 日高の実際年齢は定かで無いが、童顔とは言え三十路に近い肌の女へ惑わされるには幼すぎる。憧憬を抱くのならば、せめて手の届く範囲にしてくれと願う自分を自分で嘲笑した。

「……馬鹿みてぇ」

 煙量の多い煙草を味わう余裕も無く口から吐き出す。開封直後の甘酸っぱい香りとは裏腹に辛さが舌を刺すチェリーは、最後の一分に甘みを残した。後を引く、名残が自分を付け上がらせる。

 吸って、吐いて、また、吸って。

 繰り返す単純作業のみが、自身の思考を透明な状態へ仕立て上げる。煙が漂い、空間へ消え行く様を見極める境界の曖昧が好きだ。澄み行く視界。心地よく受け入れる校舎。小坂部は背を凭れさせたまま首を傾げ、ざらつきの襞が覆う壁面を仰ぎ見た。一部、黒い染みの様に広がる数字の羅列。青姫との交信、新たな信号。

 22726145640493?

 71434412935533044345。

 キミハトベル? マツテイルノズット。

「……君は飛べる? まっているの、ずっと?」

 変換に少々の時間を要したのは、小文字の適用に僅かな途惑いを覚えたからだ。青姫が此処へ来る理由。

 ずっと、待っている。ずっと、舞っている。

 抑揚の無い文字が語る彼女の情報は仄かな謎に満ちていた。待つと訳せば意味は通るが、踊り場で舞う姫も興味をそそる。どちらにせよ実体を伴い存在する姫へ宛て、小坂部は先日と同じ場所に横たわる鉛筆を手に短い疑問を寄せた。

「聞きてぇことは山程あるけどな」

 何故、待つ。何故、舞う。何故、居る。何故、誘う。全てを総括する疑問。

 513404?

 ナゼ? 

 床へ投げ捨てた鉛筆が乾いた木の音を立てる。音律を静かに高みからなぞり消え行く頃、重なる気配が階下を俄かに騒がせた。煙草を銜えた唇が乾き、隙間を塞ぐ。冷たい掌を口元へ寄せ、小坂部は足裏を擽る存在へ密かに耳を傾けた。目蓋を下ろし視界へ深遠を齎せば、彩りは耳殻の中へと籠もる。濁る気体を胸の内へ取り込み、無機物と化す心臓が時折どくりと杭を打った。

 駆け巡る足音は東へ西へ。僅かな空気振動が、ささやかに迷いの様子を運び来る。水場から教室を廻り、廊下を進みながらも開かれた窓を閉じた。勢い付いた歩調も次第に頼り無く、小鳥の足取りで階段へ辿り着く。明暗の岐路を空へ飛ぶ囀りは独り秘めやかに、一段二段、散々の迷いを四方へ撒きつつ五感全てに悟らせながら近付いた。

 ……来る。

 小坂部は眼を開き、即座に携帯灰皿の持つ空間へ煙草を葬ると、浅い呼吸を整え青の扉へ身を寄せた。腕組み構え、踊り場を曲がり来る人影に佇み備える。足許から爪先へ、階上から段差を這い忍ばせた視線が初めに捕らえたのは、跳ねる黒髪。

「見つけた、小坂部! やっぱり、ここにいた! もう、探しちゃったよ。何時までも来ねえし、便所にもいねえし。まったく、何やってるんだよ。早く部活、来いよ。あと三日で戦型決めなきゃなんだ。サボってる暇なんか、ねえだろ」

 目を凝らし、眸を逸らす、間際の刹那が堪らない。

 川瀬は前のめりに速度と口調を強めながら、段を踏み締め小坂部へ迫り来た。彼が前へ進めば後退する跳ね髪は無邪気に、怒声にもあどけなさを弁えて上がる息を薄く吐く。距離を埋める一足が、瞳を捕らえて離さない。

 小坂部は上腕に掛けた指へ微かな震えを乗せ、空を味方に彼を待ち受けた。川瀬は小坂部と同じ床へ到達すると、両足を揃え大きく深呼吸をする。眼を閉じ、口を開き、交差する瞬間、歪が彼の眉を訝しく顰めた。

「お前……」

 ぐるりを睨回し、落とした言葉の潰れる爪先へ川瀬は弱い視線を零す。暫く項垂れ、髪の影が豊頬を包む頃、脇へ下げた両腕の先を力なく巻き上げた。萎れた蔓の手が陰間を抜ける様に小坂部の腕へ触れ、布を掴み、寄せ来る皺に嗄れた声が深く沁み入る。

「小坂部……お前……煙草、吸ってただろ」

 否定の言葉を待つ指先は赤く色付き、小指から順に高鳴る心臓へ近付いた。迫り出されるシャツの峰が大小見事に間隔を狭めて行く。小坂部は鉄扉から僅かに身を剥がし、膝裏へ気合を込めた。

「さあ?」

 瞬間、もう一方の手が鋭く胸倉を掴み上げる。

「とぼけるな! 昨日も、同じ匂いがした! 同じ匂いなんだよ! ずっと……甘いけど、苦い、匂い」

 蔓延する証拠に川瀬は苦しげに呻き、顔を伏せ、張り詰めた腕を撓ませた。身長差に何の効力も無い拳を小坂部は柔らかに包むと指を外し、開かれた掌は彼の元へ。残る自らの手は、胸元の乱れを整える。

「だから、何だよ」

 努めて、冷静に。動揺の破片でも窺わせたならば、彼を巻き込んでしまうだろう。小坂部は川瀬の揺れる肩へ伸ばし掛けた手を抑え、自分の懐へ引き戻した。

「……やめろよ」

 余りの予想を違わぬ展開に、不思議な笑みが漏れる。小刻みに震える体同様、川瀬の怯えた声は拒絶の意思を持って儚く願いを申し出た。次第に内へ向く彼の爪先が消極の方向を示し、伝う息苦しさが閉じた胸元を解放させる。

「何で」

 外す釦の穴から抜ける強制が喉を開かせた。自分と他人は違うのだと、未だ気付かない川瀬に焦りは苛立ちへと変わり、小坂部の神経を逆撫でる。立ち入り禁止の札を越える覚悟を持ちながら、今更、喫煙が何だと云うのだろう。小坂部は乾く唇を濡れた舌で舐め、惚けた顔で自分を見詰める川瀬の熟れた口許を眺めた。

「なんで、って……ほ、法律で禁止されてるだろ! それに、癌とかにもなっちゃうんだよ?」

 子供の熱弁に小坂部は込み上げる興奮を堪えきれず一笑し、ポケットから煙草を抜き出す。今こそ煙草だ。火を着けなければ芝居の幕が下りてしまう。

「随分、極端な思想だな」

 小坂部は拉げた紙箱からライターを取り出し、残り少ない煙草を一本、指間へ挟んだ。着火に邪魔な紙箱を胸ポケットへ仕舞う一瞬、川瀬の手が細い煙草を奪い取る。普段は鉛筆を握る小さな手に白い棒は恐ろしく不似合いで、逆さ持たれたフィルターの桜が川瀬のしたり顔へ花を添えた。

 舌を打ち仕方なし、小坂部は再び新しい一本を取り出すと今度は彼の手が届かない頂での着火に成功する。拡散していた甘さを一堂に引き連れる、生きた香りが瞬時に二人の間を流れた。

「煙草吸うと背が伸びなくなるって、嘘かな……」

 取り上げた一本を両手で包み持ち、さも憎らしそうに寄り眼で見詰めた川瀬が不意にぼやく。

「さぁな。体質にもよるんじゃねーの?」

 壁に背を預け、仰ぎ見た天井へ向けて小坂部は煙を吐き付けた。広がる蟠りは自分を残し上空で消散する。清浄な空気は果たして何処まで不浄を赦し飲み込み、癒すのだろう。再びの煙で体内を燻し、余分な感情を放出する。

 川瀬は無言で煙の行方を追い、彼方へ見送る視線を小坂部に戻すと、彼の薄い胸へ温かな掌を当てた。両肺に翳された双手は鼓動の中心へと寄り集い、ポケットから捩れた紅い紙箱を鮮やかに引き出す。

「絶対、やめさせるからな」

 黒い眸へ小坂部を映し、川瀬は先に取り出した一本も纏めて収めた箱を丁寧にジャージポケットへと仕舞い入れた。身体の側面を走るジャージの白いラインが異質を孕んだ部分だけ醜く歪む。自分を見上げる艶やかな眸子が、小坂部の口先を焦がし唇を張り詰めさせた。

「ウゼェな……お前には関係ねえだろうが!」

 川瀬の余るジャージの胸元を掴み、引き寄せ、壁へ打ち付ける。火の着いた精神が加減を覚えるはずも無い。衝撃は小坂部の手にも伝わり、砕けた灰が甲で弾けた。加速する動悸が指先を戦慄かせる。壁に張り付く小さな身体は跼り、危うい足場は氷上を思わせた。一度、石に触れた細い腕はしなやかに、それでも小坂部の腕へと絡みつく。

「関係あるよ。あるに、決まってる」

 俯けば忽ち解放するものを、前へ前へと躙り寄る強い眼差し、透明な自信。小坂部は自分の唇から抜き出した煙草を煩い彼の口深く、根差す場所へ目掛けて挿し入れた。挟み持つ手の余分な指で川瀬の口許を覆い、鼻を塞ぎ、吸飲一つへ集中させる。

「なら、お前も吸えよ。嫌なら関わるな……俺が違反しようが、癌になろうが、お前には一切関係の無い、俺の勝手だ」

 途端、噎せる体から一歩退き、小坂部は小さく蠢く丸い背を見た。擦る手も差し伸べず、川瀬の唇から外したばかりの煙草を開いた口へ戻す。

 苦しめば良いと思った。

 惨めに蔑まれ、跪いて脆く、逃げ出す切なさを伴い、独りの世界が恋しいと。

「それ……本気で云ってるの? 小坂部は良いかも知れねえけど、オレは嫌だよ……凄く、悲しいよ」

 川瀬は壁伝いに立ち上がり、未だ咳に揺れながら焦点の定まらぬ眸で小坂部を見詰めた。喘ぐ腕に、手を与えれば縋りつく。熱を生む、爪先へ指を絡ませれば安堵する。笑みには笑みを、近付く者には抱擁を。

 小坂部は川瀬を片手抱き、湿る髪間へ指を這わせると産毛の見える頬へ溜めた煙を当て付けた。息に舞い上がる前髪が額へ戻ると同時、川瀬の目に膨れ上がる涙は球体を象り、震える頬の上を早急に滑り落ちる。白濁した煙が、純真な双眸を刺した。

「クソ……悔しいな……ちくしょう……絶対、止めさせる。止めさせてやる」

 瞬きもせずに射抜く瞳の明晰。絡む髪のしつこさに、一房を指に巻き弄ぶ。壊れた涙腺が生み出す硝子は幾つもの小坂部を映し、川瀬を封じ、頤から床へ落ちては灰を包み込んで割れた。引力が彼を悩ませる。指を外し髪が逃げ、腕を離し熱が去り、身体を奪い心を置き去れば柵の無い自由。脆く頽れる川瀬は斑を散らす床へ手を突き、膝を落とした。身を走る白いラインが肩口から汚れた一面へ流れていく。

「……小坂部」

 小さく名を呼ぶ遠い声。小坂部は短い煙草を壁に押し当て、捻り潰した。灰皿を使う気にもなれず、吸殻を川瀬の足元へ投げ捨て独り階段を降りる。前へ進むほどに繋ぐ声が細く棚引いた。

「……おさかべ」

 踊り場で立ち止まり、降り注ぐ光の槽から真上の窓を覗き見る。浅瀬に住む深海魚、沈む気持ちの水底。四角く切り取られた空は何処までも、青い。小坂部は振り返り、自分を見詰める黒い瞳へ一度視線を合わせると、声にならない言葉を唇へ乗せ階段を滑り降りた。

 きみは、とべる? まっているの、ずっと。

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