5階
脱皮期間に相応しい黄金週間を終えると、いよいよ部活動は新入部員を迎え本格的に始動する。同時、担任教師には新学期任務の集大成となる家庭訪問も開始され、顧問不在の中、行われる部活動も珍しくは無かった。
「今日は商店街組訪問日なの。商店街さんって水曜定休日のお店が多いんですってね。西川くんのおうちの寝具屋さんも今日が定休日なのかしら?」
「そうっス! だから、もう、朝から馬鹿みてぇに気合入れて準備してんスよ、ウチ! つか、兄弟多いんで、すげぇバタバタしてると思うんスけど、気にしないでやって下さい」
「あら、それは賑やかで楽しそうね」
弾む談笑と共に担任兼卓球部男子顧問の武市が、西川と連れ立ち去って行く。彼女の響くピンヒールの音を背中で聞きながら、小坂部は窓辺の手摺へ両肘を掛けた。べランダの無い茅中学校校舎には全教室の窓内側に太い鉄パイプの手摺が設けられており、転落防止の役目を果たしている。未だ少々の輝きを放つ手摺は明らかに後付されたもので、室内にある他の古びた備品は既に何度も塗り重ねられたペンキが白い層を成していた。
身を乗り出して見る眼下の中庭では早々に到着したテニス部員が自主的に活動準備を始め、特別教室棟へと続く一階、二階、双方の連絡通路には卓球部が練習台を並べている。放課後の慌しさは各教室から校庭へ伝播し、やがて活気付く構内で膨らむ歓声は自然と広がり空へ昇った。
「小坂部……お前、いい加減、自分の席に戻れよ。さっきから川瀬がこっち、チラ見してんぞ」
名を覚える為の配慮か、単なる担任の横着か、入学以降一度も席替えの無い学級では、今も四月当初の名簿順のまま座席が並べられている。先程、隣席の女子が席を立ち、一人出遅れた自分しか窓辺立つ彼に声を掛けられる者は居なかった。
「知ってる。だから、何か話し続けろよ。友永」
振り返りもせずに応える小坂部の言葉に友永は大袈裟に肩を竦ませ、机の中身を適当に手持ちの鞄へ詰め込んだ。けれども、こちらへ向ける視線の存在が気に掛かり、身振りで小坂部の反応を伝えるが川瀬は首を振り頑なに動こうともしない。
「駄目だ。川瀬、意地でもお前と一緒に部活へ行くつもりでいるぞ。俺も部活いかなきゃなんねえし、小坂部も偶には基礎練くらい出ろよ」
「大丈夫。後、数分で武尊は行くよ。集合時間になるから」
飽く迄も前を見据え、小坂部は小声で語る。微風が彼の髪を揺らせ初夏を盛り上げようとも、間遠な眸の関心は室内よりも窓外へ向けられていた。友永も同じく彼の見る方向へ視線を馳せるが、塗り込めた青空が続くばかりで眼が痛くなる。カーテンだけが揺らめく中、やがて、光の届かぬ暗い席に着いていた川瀬は鞄を掴み、音を立てて机を離れた。
「オレ、先に部活行くからな! 待ってるから、絶対来いよ!」
戸口で一声叫び去る級友に友永は一瞬、唖然とし、傍らの友人を顧みれば腕に顔を埋め小さく肩を震わせている。微かに漏れる声から、彼が笑いを堪えているのだと分かった。
「……俺の勝ち。な? 武尊、行ったろ?」
顔を上げても尚、笑みの残る面を翳す前髪を掻き上げ、小坂部は満足そうに語る。指間から覗き見せた視線は鮮やかに悪童の色を孕んでいた。
「ハ? 何だよ、ソレ。ワケ、わかんねぇ」
友永の返答に小坂部は身を翻し、更に高らかな哄笑を一頻り天へ向け体を反らせる。芝居めいた笑いに友永は呆れ、気付けば二人きりとなる教室で急ぎ鞄とスポーツバッグを肩へ掛けた。仰ぎ見る時計は四時を回り、野球部開始時刻を疾うに過ぎている。
「ヤッベ! 俺が遅刻じゃねえか! もう、行くからな!」
乱雑に並ぶ机間を抜け、戸口へ向かう友永の背後で続いていた笑いは突然消え、不思議に思う好奇心が小坂部へと視線を振り返らせた。逆光を背に、表情を薄く曇らせたまま小坂部は友永の眼を捕らえ、瞬きもせず一言、尋ねる。
「今日も球拾いか? 天才投手」
沸き起こる中庭の歓声、隔絶する教室の静寂。
友永は向きを替え、改めて小坂部と対峙すると伸びる影から彼を辿り見た。
「夏にはマウンド独占する。あそこは俺の場所だ」
意思よりも強い眸が光を捉える。友永は一言告げると踵を返し、白い背を向け走り去った。熱に浮かされた様に語る野球部員の言が本当だとしたならば、友永は必ずマウンドへ上るだろう。誰よりも野球が彼を選ぶ。執着を露にした友永の目を思うにつれ、背番号の無い投手が日々、内に溜める熱を想像するだけで小坂部は眩暈がした。
唯一を求める恐ろしさ。
「……才能は、埋もれねえよ」
眼下へ視線を注ぎ、間延びした掛け声に耳を澄ます。今は同じ素振りをこなす部員から、時間は残酷に勝者を選別し、やがて個を認識させるだろう。
自分は違うのだ、と。
友永がマウンドへ立てば、誰かがマウンドから降りる。絶望を知るには未だ、早い。希望を持つにはもう、遅い。十年以上も生きれば見えてくる自分と云う存在に、小坂部は勝手な未来を想像した。中学を卒業して、高校へ進学し、大学で学ぶ余裕があるならば社会への決断猶予が四年は増える。
「……長ぇな、人生」
吐いた煙が視界を霞めた。段々と現実味を帯びる壁色も同じく濁り、曖昧さが今の心情と共存する。効力を無くした結界を易々と潜り抜け、空へ続く扉を背に胸を満たす至福。本日も、踊り場では埃だけが舞っている。
小坂部は鉄扉に凭れ、立膝に煙草を挟む手を乗せた。再び昇る紫煙が薄い膜となり自分を取り巻く。指先へ躙り寄る火の行く末を思い、開いた唇にフィルタを挿し込んだ。途端、埋め尽くされる口腔。舌が渇き声を失えるのならば、一瞬の失意も悪くは無い。床に置かれた煙草同寸の鉛筆を拾い上げ、小坂部は以前、書き記した箇所へ目を馳せた。
2272555161?
キミノナハ?
見慣れた筆跡の下、新たな数字が書き加えられている。自分とは違う、明らかに他人の筆跡。小坂部は即座に立ち上がり、並ぶ文字へ指を這わせた。一文字、一文字、追うごとに心地よい緊張と興奮が足元より沸き起こる。
11156284。
アオヒメ。
「……青姫」
声にした瞬間、全身がどくりと脈を打った。起点の心臓が肥大し、毛穴が収縮する。掌が冷たい。
「ハ……マジかよ」
振り上げた右腕から灰が流れ、叩き付けた拳に赤が揺れた。
冗談だ、解っている、気味が悪い、噂だろう、何時の間に、誰か居る、青の扉、光の踊り場、先に待つ天国、今の地獄、漂う青姫……面白い。
記憶の隅で、長い黒髪の少女が哂う。
小坂部は壁に向かい微笑み、数字の羅列を何度も指で擦り付けた。指腹に刻まれる青姫。黒ずむ先で存在を認識する。そして、ゆっくり離す手の下、更に続く数字は長く文末には決まりの疑問符が付いていた。
513404252564?
ナゼココヘ?
「……そんなん、決まってるじゃねえか」
小坂部は煙草を鉛筆に持ち替え、慣れた脳が変換する数字を壁へ書き記した。
227252111252。227261?
「暇潰しだよ、全部」
キミニアイニ。キミハ?
文字とは裏腹な言葉を口に乗せ、饒舌な唇を煙草で塞ぐ。付け加えた一文に余分を感じたが、一度記した文字を消すほど無粋ではない。何よりも、疑問には解答が期待できる。交流の意思を持って相手が疑問を投げ掛けてきたのだとすれば、こちらも相応の対応が常套だ。好意と興味は比例する。確実に青姫の術中にいるのだとしても、沸き起こる好奇心を消すつもりは更々無かった。
並ぶ数字を確認し、鉛筆を再び床へ転がす。壁に当たり止る緑の棒を眺め、小坂部は大分短くなった煙草を携帯灰皿へ捩じ込んだ。二本目の煙草へ指を伸ばすが、窓から差し込む光に弱さを覚え欲求を封じ込める。酷く口が渇いた。水でも飲むか、思い細心の注意を払いつつ戻った四階では、微かに卓球の打球音が聞こえてくる。小坂部は勢い良く蛇口を捻り、溢れ出す水に顔ごと浸しながら喉を潤した。
濡れる髪が鬱陶しい。続く部活が面倒だ。水を止めれば急かす打球音が再び下から這い上がる。無人の廊下を眺め両端にある非常階段からの下校を考えるが、水曜日の予定を考え項垂れた。塾がある。川瀬を避けては通れない。
「……ワケ、わかんねえ」
耳鳴りの様な打球音に苛立つ精神は足元のバケツを蹴り飛ばし、強い衝撃が身を鎮めた。教室から鞄を掴み出し、下る中央階段の一歩が自分へ問い掛ける。
知るつもりは無かった、知りたくも無かった。秘密が増えた。
川瀬をどうする。
「随分、ゆっくりだな。悠」
「おや、ソメチン。何? 今、休憩?」
小坂部の問い掛けに染谷は周囲を見回し、静かに一度頷いた。新入部員が遅れて来ようとも誰一人咎める者はいない。一瞥するものさえ珍しく、殆どの三年生が打球に集中し高速空間に身を浸していた。休憩時間は部内一斉に行われる。けれども三年が予定通りの休息を取る事は少なく、大概が集中力の限界まで練習を続けた。呼吸すら躊躇われるほどの緊張の中で、無機質な音が織り成す世界は無限の高見だ。正レギュラーが出るまでも無く全勝優勝した市内予選会に続く県大会でも、恐らく一位通過は確実だろう。だが、この壮観も夏で最後だ。
「武尊は?」
荷物置き場となっている配膳用エレベーターの前で、足元に置かれた蜜柑色のデイパックを見る。遠慮もせず自分の鞄を上から重ね置き染谷を見ると、眼鏡の縁に光を湛えながら廊下の奥を見遣った。
「今、坂本会長が来ているんだ。生徒総会前の忙しい時だと云うのにな」
「忙しいからこそ、サボってんじゃねえの? ぜってぇ、仲岡副会長が探しに来ると思う」
小坂部の返答に、染谷が眼だけを細めて笑う。自分が言えた台詞では無いこと位、承知していた。けれども、自分から遠く離れた位置で制服姿の坂本相手に笑顔を振り撒く川瀬を見ていると、次第に滲む苛立ちが悪態となって現れる。
「川瀬と何かあったのか?」
不意に染谷が振り返り尋ねた。少しだけ上がる視線に、また彼の背が伸びたのだと実感する。
「別に、何も」
「あったんだな。分かり易いよ、悠は。川瀬が頻りにお前のことを気にしていたぞ。地雷でも踏まれたか?」
相変わらず全てを見透かす眸の前で、硝子のレンズのみが彼の本心を防御した。不公平だと訴えたところで何かが変わる付き合いではない。幼馴染と云う特殊な関係の中、共に過ごした時間の長さが互いの明度を上げて行く。
集中の妨げにならぬよう努めているのか休憩終了の合図や指示も無く、部員は自発的に次の行動を考えさせられた。下級生が長い休憩を取ろうとも、檄を飛ばす上級生の一人もいない。部活動と云う団体でありながら、一貫した個人主義が小坂部には心地よかった。自分の足元へ転がる白球を無言で返し、受け取る相手も無言で戻る。
「逆。踏んだの、俺が。不発弾だったけどねー。家族とかそーゆーの、メンドいから避けようとか思ってたのにさ。踏んづけたの、思っきし」
瞬間、誰かがスマッシュを決めた。刹那の振動と破裂音が同時に響く。卓球は地味な競技だと誰が最初に宣ったのだろう。激しさは音ではなく、気魄だ。無言の奮わせる一瞬が、堪らなく恐ろしい。
「珍しいな。だから、今は距離を計りかねているのか。相手は川瀬だ。それなりの覚悟があって近付いたんだろう?」
染谷の視線が僅かに動く。腕を組み、打球の行方を追うと、また、遠く廊下の果てにある台へ目を向けた。フロアに並ぶ練習台とは丸で異次元の雰囲気で、ゆっくり浮かぶピンポン球が見える。当の川瀬はジャージの袖を捲り上げ、肘から手まで均一な細さの腕を振り回していた。自分の視線にも気付かぬ無邪気さが、いっそ腹立たしい。
「予想、外したことに地雷踏んで気付いたの。ワケ、わかんねえんだよ。クソ」
振り返る、笑顔の意味が掴めない。
壁に拳を突き立てる小坂部を染谷は珍しく声に出して笑い、眼鏡の山を中指で押し上げた。
「まあ、頑張れ。悩むお前も結構ソソる」
「……サド眼鏡」
先立つ染谷へ続き、フロアを遠慮がちに廊下へと移動する。影を抜ける瞬間はいつも少しだけ眼が痛い。数回、瞬き余計な光を取り除く。出来るだけ静かに、極力目立たず、日溜りの中へ溶け込もうとした小坂部の思考を見越した染谷が業とらしく声を掛けた。一番に振り向く川瀬が寝癖のついた髪を撥ねさせ、全開笑顔で駆け寄って来る。
「あ! 小坂部! 良かった、来た!」
止まる気配の無い勢いは当然、全てを小坂部に預け抱き付き停止した。川瀬越し、見える染谷の笑みは明らかな揶揄を示し、何事か唱え視線を外す。舌を打てども、染谷には届かない。反対に、しがみ付く川瀬が怪訝な表情を見せた。
「なあ、お前さ……」
「なに」
話し掛けて再度、小坂部の胸に顔を埋めたまま川瀬は動かずにいる。腰に手を回し抱きついている級友の動作が予測できず、小坂部は持余し気味の両腕を川瀬の肩へ掛けた。引き剥がそうと力を込めれば、察知したのか、彼が訝しい表情のまま顔を上げる。
「ん……やっぱいいや。なあ、塾の宿題やった? 出来た?」
「一応」
眉の険しさは塾の宿題へ掛かるのか、川瀬は勝手に離れ今度は視線も合わせず窓辺へ歩み寄った。蝶のように定まらない足取りで軽く、小坂部の数歩先を進んでは興味の侭に立ち尽くす。
一台の練習台へ群がる一年生を相手にサーバーの二年生は二人。残る一人と坂本が傍らで姿勢指導に当たっていた。数球で交替だとしても、立ち並ぶ新入部員を前に自分達の出番は当分来そうに無い。
「じゃ、授業前に見してね。自分でも解いたけど、イマイチ自信ないんだよな」
出される塾の話題に一日の長さを実感した。部活終了してから帰宅して、果たして夕食のみならずシャワーを浴びる時間があるのかと考える。塾も塾で、終る頃には今日も終了だ。一週間など結局、同じことの繰り返しだと思う。目新しい変化の一つも無く、塾へ場所を変えようとも前に居る少年は今と同じく振り返り話すのだろう。
「それに国語のときはオレ、絶対に指されるし」
落ちる窓枠の影を器用に渡り、重なる小坂部の影へ身を浸す。自分に背を向け、川瀬が見詰める先では坂本が豪快な笑い声を振り撒いていた。
「へえ……そうだっけ? 国語、苦手?」
聞いては居ないと思いつつも問い掛ける小坂部に、川瀬は少しだけ躊躇い、はにかんだ笑顔を作ると白い歯を覗かせた。
「ううん、大好き!」
坂本の笑い声が響く。小坂部は込み上げる生温さを飲み込み、後ろから川瀬を抱き締めた。沁み込む日向の熱。埃と汗と川瀬の匂い。突然の抱擁に川瀬は差して驚く風でもなく、僅かに身を捩り顔を傾ける。
「……小坂部って、ワケわかんねえ」
胸に回した腕へ添えられた子供の手を感じながら、小坂部は一人喉を鳴らした。




