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4階

 ちりちりと響く金属音。誰かの持ち物に付いた鈴の音だ。本来ならば雑踏に紛れるべき響きを意識した途端、耳が選んで離さない。何処から聞こえるのだろうかと眼を閉じ、耳を澄ませ、在り処を探る。教室の四角い世界で、揺れる、離れる、近付く、話す。

「じゃあねぇ、妄想王子。きちんと部活、出るんだよぉ? 川瀬君も、また明日ねぇ」

 流れ込む甘い声に鈴の音が高低を彩る。型押しの薔薇が施された黒革鞄に真紅のリボン。彼女の徹底した美意識が選ぶ豪奢な所持品の端で、銀の鈴は余りにも小さく質素に音を囁き続けていた。

「あ、うん! じゃあね! 安達さん、有馬さん」

 薄らと上がる目蓋ほど唇を開く余裕は無く、眼前の川瀬に合わせ小坂部も手を振り返す。安達の柄で撥ねる鈴は惚けた眸を覚ますには丁度良く、続く有馬の長い黒髪が視線を掬い上げた。愛らしい仕草を作り出す安達とは対照的に、有馬が相好を崩すことは少なく、殊更、自分の前では無表情に感じる。端麗な容姿が語る彼女は既に美少女の範疇を超え、寧ろ芸術の域に近い。相対する趣ながらも魅力的な美貌は両者共通で、惹き付けられた男子が数人、追従して教室を出て行った。類友か、思い戻す視線の先で川瀬が見事に不服を浮かべる。

「小坂部も手を振るだけじゃなくて、きちんと挨拶しろよ」

「んー……チヅよりも後ろの貴子さんが気になって」

 素直に理由を述べる小坂部に対し、川瀬は一度、胡乱気に目を細め机上のペンケースを鞄へ押し込んだ。毎日、律儀に教科書を持ち帰る彼の鞄は歪に膨れ、隙間に差し入れられたペンケースから鉛筆の軽い摩擦音が聞こえる。

「おれ、おまえが事あるごとに『趣味は妄想』って連呼するのが原因だと思う。女子ってそうゆうの、嫌うんじゃねえの?」

 視線をファスナーにくべながら口篭り気味に川瀬が述べた。小坂部自身、忘れていた科白を思い出す。毎年、四月になると勃発する強制自己紹介に嫌気が差し、社交辞令として挙げ始めた趣味に今更、文句が付くとは予想だにしていなかった。

「そうかぁ? 女子だって妄想の一つや二つするだろ? つか、チヅなんか喜んで口にしてんぞ?」

 流せば済む冗談を、笑えなくさせるのは環境と年齢の所為だろう。前者に属する安達と違い、後者の川瀬は口を閉じ、視線を机上へ馳せたまま唇を尖らせた。言葉に表せないもどかしさが表情へ滲み出る。終業から数十分の間に教室は無人へ近付き、級友が次々と短い挨拶を交し部活動へ急ぐ中、隣席の女子に至っては鞄を残したまま忽然と姿を消していた。

「でもさ、でも……おまえ、変なことばっか口にしてる癖に、女子の知り合い多いよな。この間も合唱部の先輩と話してたし……」

 云い淀む語尾を掠れ気味に川瀬は呟き、鞄のファスナーを閉める。問おうとした言葉の続きを下がる前髪で躱され、尚も沈む彼の表情に小坂部は軽く舌打ちをした。廻る光彩よりも激しい感情の変化には、弁解よりも転換が効く。

「何だよ、羨ましいのか? 一緒に妄想してやんよ。今なら、適当なAVも貸し出しすんぜ?」

 川瀬の机上へ肘を突き俯く彼の表情を覗き込むと、頬から広がる赤が見る間に耳の端まで染め上げ沸き上がらせた。

「うっ、羨ましいわけないだろ! つか、妄想なんてしないし、変なビデオだって見ねえよ! おれ、先に部活行くからな! も、知らねえ!」

 AVすらも口に出来ない純情さを湛え、川瀬は鞄を鷲掴み一散に後方出入り口から廊下へと駆け抜けて行く。遠ざかる軽い足音に代わり現れた人物は業とらしく彼の消えた方向へ目を遣り、小坂部へ向け薄い笑みを浮かべた。

「あーあ、怒らせた」

 直ぐには教室へ入らず、戸口で佇み高い位置から自分を見下ろす視線には興すら感じ取れる。腕組み、出入り口を封鎖する木村の態度に小坂部は苦笑し、彼女よりも長い髪を掻き上げた。

「ま、お陰で初っ端の基礎練サボれて、俺的にはオッケーだけどさ。外周とかマジ、やってらんねえ」

「それなら、適当に文化部入れば良かったのに」

 間髪入れずに返す木村の声が雑音の消えた空間へ響き渡る。彼女の短く刈り揃えた髪や凹凸の無い痩身は酷く男性的であるのに対し、声のみは女性特有の凛とした高音を発した。

「初めはそのつもりだったんだけどねー。口説かれちゃったの、俺」

 小坂部の軽口にも木村は眼だけを細め、大股に自席へ歩み寄る。長居をする気が無いのか彼女は腰を下ろさず、学校指定の古びた革鞄とスポーツバッグを机上に乗せ再び小坂部へ視線を戻した。

「確実に必要とされたかったんでしょ? 駆け引き、上手いね」

 予想外の返答に取り損ねた間が、一時、本性を晒す。今ならば、宇波が彼女を敬遠した理由が良く解る。小坂部は含み笑い、脚を組み替え話題を逸らせた。

「そー見えちゃう? つか、お前はドコよ。何部?」

「文芸」

「は? 何だソレ。そんな部、ねーだろ?」

 聞き覚えの無い単語を問い返す小坂部に、木村は平然とした表情のまま淡々と言葉を続けた。

「そ、無いから作った。本当は演劇部を作りたかったんだけど、許可下りなくてさ。でも、妥協で他の部に入るのも嫌だし、入られた方も迷惑だろうし。で、仕方なし第二希望の文芸にしたの。国語の谷先生が顧問で、部員は私一人。だから、未だ同好会なんだ。五人集めて部にすんの。小坂部も卓球、飽きたらおいでよ。図書室で待ってるからさ」

 無いから、作った。

 何て、我が儘で面白い女なのだろう。

 小坂部は木村の申し出を快く受け入れ、ついで図書室へと向かう彼女を愛想良く廊下まで送り出すと自席に着き、伸ばした脚を隣席の椅子へ力任せに投げ置いた。薄い板を叩く音が、独りきりの教室で虚しく轟く。

「俺も、放課後デートクラブとか作りゃ良かった」

 零した独り言に中庭のテニス部が賑やかな掛け声を返した。人真似を嫌う自意識が二の足を踏み止まらせる。しかし、一介の一年生が新たに部を設立しようなどと考えるだろうか。それも、演劇部だ。確かに彼女の明澄な声ならば舞台栄えもしよう。ならば尚更、何故、第二希望が文芸だったのか問うことは出来なかった。

 四角く膨らんだズボンポケットへ手を伸ばし、見上げた天井に自分の居る場所を思い知る。流石に何時、誰が来るか分からない教室で喫煙は不味いだろう。小坂部は一度、窓辺から相向かう特別教室棟へ続く連絡通路を覗き見、活動する卓球部男子を眺めてから鞄も持たずに廊下へと歩み出た。全てに自主性を重んじる生徒会長が部長の部活動だ。今更、新入部員が無断欠席しようと、誰も咎めぬばかりか、顧問すら無関心を決め込むはずだ。実に気分が良い、直ぐにでも煙で胸を塞ぎたくなるほどに。

 真面目な一年生が使用する四階は案の定、閑散としていて、無音の世界を叫び毀したい衝動に駆られる。定番の便所、または禁忌の踊り場で喫煙に隠れ耽ようと顔を向けた先、視界中央を割って進む少女の姿に眼が釘付けられた。

 古い制服、背を覆う長い黒髪。

 白昼の校舎内において、明らかに異質の存在は進入を禁止されている屋上へと続く階段を上り踊り場へと向かっている。小坂部は咄嗟に駆け出し、立ち入りを阻むロープを飛び越え、只管、彼女の影を追い求めた。

「おい!待てよ!」

 呼び止める声を振り払い、踊り場で舞う黒髪。

 嘲笑う揺れ具合に勢いを増す脚は数段抜かしで上階を目指し、滑る床を蹴り上げ、けれども進んだ先には無人の空間が広がった。

「……マジ、で」

 急激に下がる気温が、吐く息のみを熱くさせる。小坂部は一段一段踏み締め、近付く真実を確信した。階段、鉄扉、袋小路のコンクリート。

 出口、なし。

 当然、屋上へ続く扉は開かない。小坂部は鉄扉に背を預け床へ頽れると、襲い来る震えを込み上げる笑いで打ち消した。呼吸が整うほどに、以前聞いた安達の科白が鮮明に蘇る。

 ……青姫よぉ!すごぉく長い黒髪でねぇ、茅中の制服着てるんだってぇ。でね、見た人は呪われて一週間以内に死んじゃうんだってぇ……

「冗談、だろ」

 何の根拠も事実も無い迷信だ。だから余計に性質が悪い。

 確かに、長い黒髪だった。けれども、着ていた制服はどうだ。安達が好むリボンタイにプリーツスカートの制服では無い、上下共に喪服のような黒のブレザー、黒のスカート……茅中、旧女子制服。姉が毎年、衣替えの度に非難していた為、今も尚、小坂部の記憶に残っている。現在では誰も纏いはしない旧制服が青姫の信憑性に拍車を掛けた。一つ彼女のことが知れる度、新たな思考を展開する脳を停止すべく、ポケットから煙草を取り出し透明な意識を曇らせる。

 全てを包む、甘い香り。

 証拠隠滅に予め用意していた携帯灰皿を続いて手にし、僅かに生まれた灰を即座に叩き落した。点滅する赤を鼻先で眺めながら、単純な吸飲を繰り返す。本当に、自分が見た人影は誰の者だったのだろう。市販煙草に幻覚副作用があるとも思えず、小坂部は中空を眺めたまま紫煙を燻らせた。

 見舞われる死に一週間の執行猶予などいらない。どうせ殺されるのなら、息も吐けぬほどの刹那が良い。痛みすら、酔い痴れるほどの。

「でも、そしたら……武尊との約束、破っちまうな」

 感情を思いのままにぶつける、素直な会話が思い出される。考えてみれば、彼との関係が大きく変化したのも、この場所での一件が起因していた。脅える彼を壁に押し付けたあの日から、今では名を呼び合う間になっている。

 白い壁、泣き腫らす赤い双眸。

 彼が居た場所へ目を向けると、そこには以前とは違う黒い染みが見えた。不思議に思い、立ち上がろうと付いた手元に鉛筆が転がる。短い煙草を灰皿で潰し、代わり掴んだ同じ長さの鉛筆は川瀬が愛用する緑の六角形と同様で、シャープペンシルに馴染んだ指先には軽さが酷く繊弱な印象を抱かせた。

 染みかと思われた黒い跡を見ると誰かの手による数字の羅列が記されており、適度に長い文字数が小坂部の旺盛な好奇心を惹き付ける。

 2272555161?

 電話番号で無い事は末尾の記号から判断できた。恐らく、何がしかの疑問文を表している暗号文なのだろう。数字は別文字の代用だ。アルファベットか、五十音か。悩む小坂部の脳裏で先日の科白が不意に閃く。

 ……文字入力、ベル打ちできる機種少ないのよね……

 呟いた姉の指先で数字釦がカナ文字に変換され、携帯画面へ表示される様を何度も見てきた。

「まさか、なあ?」

 容易な変換だと自分でも思うが、試さずには居られない。二桁の数字で一字のカナに対応するポケットベルに多く用いられた入力方式は、行に相当する数字と段に相当する数字の組み合わせで文字が決まる。アカサタナ順にア行なら1、カ行なら2と振り分けられた数字は極めて単純で、対応数を覚えた人間には通常の入力方式よりも早いと好まれていた。勿論、小坂部が組み合わせを諳んじる由は無く、仕方なし指折り慎重に数字と文字を重ね合わせ、解読を進めていく。

「22なら、カ行の二番目だよな……キ、か? 7はマ行、に2は二番目だから……」

 キ、ミ、ノ、ナ、ハ?

 ……君の名は。

「小坂部、悠」

 思わず答え、苦笑する。飛んだ茶番だ、一体誰が。自分以外にも、この場所を使用する者からのささやかな挨拶だろう。または、青姫からの審判開始か。

 小坂部は手にした鉛筆で先に記された羅列の下へ新たな数字を書き入れ、静かに踊り場を抜けた。


 15946115133204。2272555161?


 オ、レ、ハ、オ、ウ、ジ。キ、ミ、ノ、ナ、ハ?


 無意識に鉛筆を持ち帰っていたことに気付いたのは帰宅後、制服をハンガーに掛けた時だった。硬質な音を立てフローリングの床に転がった鉛筆は、堆い塔の形を模したCDラックで止まり印字面を上にする。拾い上げた鉛筆に記された芯の強度は自分の血液型と同じBで、川瀬も同じ芯を好んでいた事を思い出した。自分の手には短い鉛筆は掌に納まり、木の温もりを握り締めてから再び制服ポケットへ戻す。一体、誰がこの鉛筆を用いて壁に文字を記したのだろう。目を閉じれば長い黒髪が脳裏を過ぎる。

 男子詰襟学生服と同じ色をした女子制服が一新されたのは大幅な校則改正が行われた四年前だ。市内全中学校が一斉に風紀を乱した時代、逸早く粛清弾圧に動いた茅中学校生徒会執行部は校則厳格化と引き換えに、当時、忌み嫌われていた女子学生服の改製を公約として打ち出した。結果、過半数以上の同意を得て、校則改正と制服一新が同時に行われる事となったが、三年間、暗色の制服に身を包んだ姉は新規茅中学女子制服を目にする度、不平を唱えた。

「ったく、会長の人選って重要よね! 変えたの、攻一君よ? 遊人君のお兄ちゃんの! 何か、荒れてたのも見事に鎮めたしね。も、染谷サマサマって感じ。でも、校則厳しいのは嫌かなー、とか思ってたら、今度は行き成りユルユルになるし。も、超ズルイ! なのにあんたは、残された僅かな校則すら違反するってワケ? ちょっと、聞いてるの? 悠!」

 居間から怒鳴り喚く声が、聞き流せない強制力を持って問い掛ける。名を呼ばれさえしなければ、大きな独り言として無視を決め込もうと考えていた玄関先で、仕方なし小坂部はぞんざいな応答を返した。

「聞こえてますよー、オネエサマー」

 腰を下ろし、革靴の紐を調整する。爪先にスタッズを鏤めたメダリオンシューズは物に拘る小坂部の中でも一番、気に入りの靴だ。二種の革配分が絶妙で、甲を覆うスウェードに関しては履く都度、心地を食指で一撫で確かめてしまう。

「何よ、気合い入れちゃって! そんなにチャリ通共犯者さんは可愛い子なの?」

 居間から移動して来た姉が、不満を足音で訴えながら背後に立った。返答の素っ気無さが彼女を不快にさせたのだろう。

「可愛いも何も、男だぜ?」

「ハ? じゃ、あんた男相手にお気にアイテム身に付けて行くの? 何? 若しかして彼はオシャレ君? それともジャニ系? ワイルド? キレイ目さん?」

 今度は好奇心を弾む口調に乗せ、姉が興味剥き出しで尋ねてくる。有り体に答えても良いが、相手は川瀬だ。塾で数回目にしただけの私服ですら、服装に無頓着だと判る人間相手に洒落込む事実を伝えれば、以降、自分は姉の物笑いの種になるだろう。

「……鈍臭い、仔犬みてぇなヤツだよ」

 強ち間違えては居ない説明に、静は暫し口を噤み、やがて小さく、可愛いと呟いた。

「ヤダ! それって、凄く可愛くない? 仔犬ってだけで可愛いのに、どんくさオプション付きよ? うわ、それは気合い入るわ! 絶対、食べる時にどんくさアクションしちゃうに百円掛けてもいい! って、コトで悠。コレ、峰子さんから絲屋の恵比寿モナカ」

 立ち上がる背に当たる箱を仕方なし受け取る。予想通りの定番手土産だ。次いで老舗店舗名が大きく印刷された紙袋を渡され、更に荷物が増えない内にと一歩進む自分へ姉の手が伸びた。

「着てくれたのね、このシャツ。も、猪鹿蝶なんて馬鹿みたいな柄、見た瞬間、似合うって思って買っちゃったのよ! 良かった、着て貰えて……似合うぞ」

 小坂部の襟元を正しながら、静が視線を伏せて述べた。仄かな女の香りが髪から漂う。

「まぁ……俺じゃなきゃ、こんなシャツ着れねえけどな」

 他の男へ宛てた服、なんて。

 派手な和柄趣味は静が以前、惚れていた男の好みだ。自分を見失う程、彼に心酔していた姉は、男の好むブランドに金を注ぎ込んでは自分の与えた服を纏う恋人を見て独占欲を満たしていた。貢がされただけとも気付かずに別れた結果、恋人の為の衣装は小坂部に流れ込み、未だに彼の面影を買い求める姉の衝動は続いている。馬鹿な女だと思った。そして、何と巫山戯けた男なのだろうと思う。自分も、彼も。

 小坂部の返答に静は顔を上げ、緩く笑うと生意気な弟の額を軽く小突いた。

「可愛い仔犬ちゃんに宜しくね」

「ああ、立派に餌付けしてきてやんよ。あ、それと……静」

「ん?」

「……青姫、って知ってる?」

 青姫が本当に旧制服時代から語り継がれている存在なのだとしたら、姉の在学中にも似た噂話の一つ位、あるはずだ。小坂部の問いに静は一寸、惚けた表情を見せ、上手く思考と記憶が繋がると途端、饒舌に語り出した。

「思い出した、青姫! 立ち入り禁止の噂でしょ? え、未だ伝わってるの? 懐かしいなあ……あたし達の時にもあったよ。屋上から飛び降りて自殺した子が居たとかで、壁に遺書が残されてた、ってヤツ。 以来、独りで淋しい青姫が仲間を探してる、とか、放課後になると現れるとか、それが十三日の金曜日の四時四十四分だとか、見付かると一週間以内に呪い殺されるとか、凄く噂になってたもん。それが、どうしたの?」

「いや……俺も噂話聞いて、ちょっと気になってさ」

 生じる焦りに表情を取り繕うのが精一杯で、理由を考える余裕は無かった。姉の話が本当だとしたならば、概要は恐ろしいほど一致している。何よりも小坂部の心を震わせたものは、壁に残された遺書に関する噂だ。自分が見た、壁に残された暗号は正に青姫からの遺言だとでも云うのだろうか。

「でも、青姫伝説が残る理由、解るなあ……あたしも飛びたくなる時、あったもん。中学って一番、逃げたくなる時よね。空に向かって、飛べそうになるの」

 四角い箱から青い空へ飛んだ少女の伝説。退屈な学校生活にはお誂え向きの逃避話だ。小坂部は深く長い息を吐くと、きつく密かに言い捨てた。

「……飛ばせねえよ」

「何が?」

「いいや、こっちの話。じゃ、俺、行って来んね。夕飯、ぜってー残して置けよ! デザートもな!」

 笑顔で了解する姉に手を振り、扉を開ける。予め玄関先に留めておいた自転車へ跨り、紙袋へ入れた手土産を片手に提げ地面を蹴った。信号や標識も無視して車道を横断し、川瀬の家へと向かう最短距離を急ぐ。十五分は掛かると思われた道程は十分もあれば余裕の速度で、北へ進むほど横に伸びる風景がペダルの回転を遅らせた。

 夏も近付く八十八夜。田畑を縦横に分断する農道の中央を走り、追い越す風が髪を攫う。何処までも連続的な緑は時の存在を忘れさせ、通り過ぎる焼き饅頭の移動販売車に見渡せば茅中学校を過ぎていた。二人で歩いた小道を滑り抜け、低い川瀬家垣根を覗くと奥に蜜柑色のパーカーを着た少年の背が見える。

「武尊!」

 声を大に叫ぶと、気付いた川瀬が振り返り片手を上げ応じた。

「小坂部! わ、もう三時? こっちまで乗って来ちゃっても大丈夫だよ! 砂利、滑るから気をつけてね!」

 腰を浮かせ速度を下げながら垣根沸きの砂利道へ入ると突然、茶色の物体が前を横切る。咄嗟、ブレーキと脚で地面を擦り小石にふら付く前輪を正し自転車を止めると、小坂部を騒がせた物体は小走りに川瀬の元へと逃げ惑った。

 庭には二羽、鶏がいる。

「うわ! ごめん、小坂部! 云い忘れた。オレんち、鶏放し飼いなの。今、タマとポチ、鶏小屋に入れるから小坂部は先に家入ってて。自転車はそこに留めて大丈夫だから」

 笑いながら庭の中央で川瀬が竹籠を手に指示を出した。

「……俺、もうドコから突っ込めばいいか分かんねえ」

「え? 別に車庫へ自転車突っ込まなくても大丈夫だよ。誰も車出さないし、来ないから邪魔になんないし」

 いや、そうでなく!

 声へ出せば更に会話のずれる返答を飲み込み、小坂部は微妙な表情を保ちながら自転車を止め川瀬の言に従った。直ぐに行くから、と川瀬は言い残し、再び籠を手に鶏の元へ近寄る。余程慣れているのか、彼には警戒もせず小さく喉を鳴らせながら車庫隣の小屋へと自主的に入って行くのが見えた。どちらがポチで、どちらがタマかは分からないが、恐らく番いの矮鶏の名前なのだろう。

「だからって、タマとポチはどうよ?」

 小坂部が独りごつ玄関の引き戸を開けると、牡丹を腕に抱えた老婦人と目が合った。入学式と同じ和装に、婦人が川瀬の祖母であることは即座に判断が付いたが、肝心の名が思い出せない。回転する脳が叩き出すのは聞き慣れた女子の名と母の一言。最初が肝心と云われても、和装の婦人に対する礼儀作法など皆無に等しい。仕方なし小坂部は片手に提げた紙袋から菓子折を取り出すと、婦人へ両手で差し出し笑顔を付け添えた。

「初めまして、レディ。明日から自転車を置かせて頂きます、小坂部悠です」

 無言の返答に、やはりレディは余計だったかと受け狙いに転じた行動を省みる。けれども思いの外、老婦人は淑やかに笑い膝を折り、牡丹を床へ置いてから菓子折を丁寧に受けた。

「還暦も過ぎて久しいって云うのに、レディなんて……貴方、本当に王子様みたいな子なのねえ。ご丁寧にお菓子まで、有難く頂戴致しますよ。然し、レディだなんて……ふふ、嬉しいねぇ。さぁさ、お上がり。武尊が戻るまで、縁側で寛いでお待ちなさいな」

 品のある柔らかな口調で小坂部を促し、婦人は牡丹と菓子を腕に廊下奥へと足音を忍ばせる。玄関から続く南に面した縁側には穏やかな日差しが板敷きを照らし、並べられた紫の座布団が気持ちよく膨らんでいた。磨き上げられた沓脱ぎ石の脇へ置かれた庭下駄が赴き深い。手入れの行き届いた前栽、段違いの物干し台。畑の上では紋白蝶が舞う。見える景色全てが川瀬の気質に似て、小坂部は思わず笑みを零した。長閑な自然、優しい家族、素直な川瀬。何一つ、隠せる場所が無い。

「何、笑ってるんだよ」

 声に振り返ると、川瀬が怪訝な面持ちで佇んでいた。

「ちょっと、妄想劇場が開幕してね」

「お前ってホント、いっつも変なことばっか考えてんのな。喋ってても黙っててもさ」

 川瀬は手にした盆を間に置き、載せた湯飲みを双方へくべる。湯気に混じり漂う梅の匂いが香ばしい。盆には山積みの焼き饅頭が竹串に刺されたまま置かれ、一応の取り皿が用意されているが自分は勿論、川瀬も使わずに食べるだろうと思う。

「お菓子有難う。絲屋の最中、オレ大好きなんだ。でも、まさかお土産があるなんて思わなくて、ついさっき焼き饅頭買っちゃった。オレの好みで用意したけど……焼き饅頭と梅昆布茶、小坂部は大丈夫?」

「オッケー。両方、大好物」

「良かった! じゃ、いっぱい食べてね。まだまだあるから!」

 今ですら二人でも充分な量に、一体、どれほど買ったのだろうと想像して笑う。大方、先程の移動販売車で購入したのだろう。焼き芋屋と同じ様に、音楽や宣伝文句を謳いながら軽トラックで移動販売される焼き饅頭が郷土料理だと知ったのは中学年になって間も無くだ。出掛けた祭りの屋台で、上州名物を書かれた幕を見て初めて広く一般的な食べ物では無いことを悟った。饅頭と云えども大概は餡無しの薄平たい素饅頭を竹串に刺し濃厚な味噌垂れを裏表に塗り、焦げ目をつけて焼き上げた物が焼き饅頭であるが、直径五センチほどの饅頭が一串に四個もあるため充分な軽食にもなる。けれども、慣れない者には串のまま食すのは難しく、慣れた地元民でも気を付けなければ垂れが口周りや衣服を汚す厄介な食べ物だ。

 隣の川瀬を見れば案の定、口周りどころか頬にまで垂れを付けて食べている。

付き合い一ヶ月でも分かる程に川瀬は不器用で、給食中も必ず頬に御飯粒や黄な粉を付けて頬張っていた。余程、過保護に育てられたのだろう。何をするにも手が掛かる。

「美味しいよねえ」

 周囲に花が咲く満開の笑顔を浮かべ、川瀬が二本目の焼き饅頭へ手を伸ばした。取り皿よりも用意すべきは濡れ布巾だ。小坂部は食べる手を休め、川瀬を横目で見ながら付いてるぞ、とだけ述べた。

「え、どこ?」

 丸めた手が頬の飴色を横一線に引き延ばす。不器用の次元ではない。全く以て鈍臭い仔犬だ。自分の表現は正しかったと思う意識の傍らで、無自覚に伸びた手が川瀬の後頭を捕らえる。大きく開く瞳を覗き、引き寄せ、小坂部は紅く色付く唇脇から頬に掛け舌を這わせると、残る甘さを全て自分の口腔へ封じた。

 本当に、手が掛かる。

「とれたぞ」

 顔を離すと全面に朱を刷いた川瀬が固めた表情のまま、こちらを見ていた。

「おっ……お前、なっ、なっ、何をっ!」

「何って、タレ取っただけだろ」

 序で自分の唇も舐め、仕上げに梅昆布茶を啜る。川瀬は宛ら酸素が欠乏した魚の様に口を開閉し、暫くすると極度に上気した面を伏せ沈黙した。自分が何をしたと云うのだろう。小坂部は不思議に思い染まる川瀬の頬へ手を添え、髪が隠す表情を覗き見る。冷えた指先に、スウェードよりも心地良い肌が僅かな熱を分けた。

「痣、きれいに無くなったな」

「……うん」

 撥ね癖のある髪が傾きに合わせ前後に揺れる。ゆっくり形を作り重ねられた川瀬の手は暖かく、小坂部の手を頬から外し腿へ乗せると一度強く握り、直ぐに離した。

「オレ……お前が女子に人気あるの、何か分かった気がする……タレ、とってもらっただけなのに、何でだろう……凄く、ドキドキしたんだ。変だよな。何でだろう……誰かとあんなに顔、近づけたこと初めてだったからかな……どうしよう、まだ、ドキドキしてるんだ。止まらなくて、困る」

 川瀬は俯いたまま延べ、云い終えると同時、視線だけを伏せながら徐に顔を上げた。遅れた双眸をはにかみ開き、上目遣いに小坂部を見て破顔する。白い歯が唇の隙間に覗き、潤む黒目が艶を放った。

 ドキドキしてるんだ。止まらなくて、困る。

 連鎖する動悸に小坂部は手近な湯飲みを手にすると、中身を一気に口へ注ぎ込み勢い良く盆へ戻した。

「あ! それ、オレの昆布茶じゃん!」

「知らねえよ! お替り持って来い!」

 従順な気質は理不尽な命令にも関わらず、素直に飲み込み実行する。川瀬が席を外して居る間中、小坂部は饅頭を頬張り無理に胸を締め付けた。口端の垂れを親指で拭い、何故、舐め取ってしまったのだろうと意味の無い行動を顧みる。後を引く、絡む甘さが手に負えない。

「どうせなら全部持ってけって、楸さんからポットまで渡されちゃったよ。今度は緑茶。まだ、ちょっと薄いけど、苦いのよりは良いよな」

 音を立て注がれた茶が手渡される。当たる湯気に目を細め、熱を冷ましつつ啜る舌先が微かに痛んだ。

「そー云や、さっき、そのヒサギさんの名前忘れて、マジ焦った。鶏がポチとタマで、榛名が姉貴の名前だっけ?」

「うん、そう。お祖父ちゃんが岳って名前でね、山好きだったから、お父さんの名前が赤城なんだ」

 両手でしっかりと湯飲みを掴みながら、川瀬が答える。北に聳える上毛三山の登場に、尾瀬に似た川瀬の名字にも苦笑した。

「榛名に赤城じゃ、母親の名は妙義か浅間だろ?」

 小坂部の軽口に川瀬は首を振り俯き、更に項垂れを深くする。流石に名前を揶揄うのは不味かったかと、調子が先行する自分の唇を戒め薄く噛んだ。

「ま、そこまで出来すぎなワケねえよな」

「ううん……そうじゃなくて……お母さん、いないんだ」

 静かに流れた告白に耳を疑う。

「は?」

「だから、オレんち、お母さんがいないんだ」

 今度は眼前を確かに見据えて川瀬が答えた。差し掛かる西日が横顔の稜線を明確に陰影付ける。先程の甘さなど微塵も残さぬ表情に、小坂部は躊躇い深く息を吐いた。

「……そっか」

 以上の同情も、以下の感情も持ち合わせはしない。他界か離婚か、どちらにせよ、今、彼の家に母親が存在しないことは確かだ。云われるまで気付こうともしなかった自分本位の判断基準に嫌気が差す。苛むべきは過保護な自分の思考だ。

 再び川瀬に視線を戻すと光の中、眩しそうに目を細め柔らかに微笑んでいる。何故か幸せに見える彼の笑顔を眺めながら、小坂部は明日も晴れれば良いと夕陽に願った。

 

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