3階
「おっ帰りー。悠、遅いじゃーん」
扉の開閉音に反応したのか、快い声だけが小坂部を迎え入れる。
「ブカツですよー」
音のする方向へ気怠く応え、脱ぎ散らかされた細身のエナメルパンプスを片足で除けた。隣へ履き慣れたスニーカーを並べ、何時の間にか開いた差異に目を開く。唯一、昔と変わらないのは色の好み、派手な原色。遺伝だろうかと思いつつ、仄かな光の漏れる居間の扉を開けた。
「あー……もう、そんな時期だっけぇ? で、ナニ部?」
入室者の存在にも顔を向けず、ソファの中央を陣取る彼女は両手に包んだ携帯電話へ熱心な眼差しを寄せている。毛先へ渡るほど色素を薄くする長い髪を束ねもせず、けれども時折、邪魔そうに肩へ払い除けては微かな芳香を漂わせた。
「たっきゅー」
答え、小坂部は通学用のデイパックを足元へ下ろし、次いでフローリングの床へ膝を着く。近付けた鼻腔へ慣れた香水の匂いが流れ、思わず目を細めた。後ろから背凭れへ腕を乗せ覗き込もうとした携帯画面よりも先に、見開いた彼女の眼に視線を絡め取られる。
「は? 何ソレ! バスケとかテニスとか、適当に女ウケする部へ入るんじゃなかったの?」
マスカラが豪快に縁取る双眸を更に大きく瞬かせ、高らかな声へ驚きの言葉を乗せる彼女は不服に唇を尖らせた。形良く膨らんだ唇は潤いを弾き、開いた携帯画面の色を乗せる。充分予想できた反応に順当な理由を付け、小坂部は口を開いた。
「当初はそのつもりが気付いたらクソだせぇ部に入部させられてましたの、オネェサマ。ま、いんじゃね? 下手な団体競技に比べりゃ連帯責任とか共同作業とか、そーゆーメンドーなのなくて楽っしょ」
「まぁ、そうだけどねー」
単純な割りに執拗な性格の姉は、尚も残る不満を声に乗せ追求する言葉を探している。小坂部は打ち切りの溜息を大袈裟に付き、彼女の手の中で蹲る携帯電話を指差すと即座に話題変換を図った。言葉の世界で女に敵うはずも無い。
「つか、未だそのケータイかよ。機種替えるとか云ってなかったか?」
小坂部の記憶が正しければ、彼女が今持つ携帯電話を使い始めて既に一年以上経過している。新機種が出れば早々に変更する移り気な姉にしては珍しい長さだ。小坂部の問いに、彼女はビーズで象られた愛らしい兎の付いたストラップを指で弄びフラップを開閉する。先月まで携帯重量を上回る程に付けられていたストラップやマスコットは男との別れを機に一掃され、新たに付けられた白い兎は捨てられた彼女の姿と相俟って余計に小さく見えた。
元々、惚れやすい気質の姉が大学入学と同時、一目惚れした相手と付き合いだしたのが丁度一年前。そして、学生食堂で振られ、衆目の中、派手な修羅場を演じ帰宅の事実を姉の友人から聞いたのは僅か三週間前。約三百日の付き合いの中で彼と彼女の間に何が起きたのか小坂部には知る由も術も無かったが、帰宅時の泥酔具合で姉の失意は窺えた。全てを忘れてしまうほど、彼女は悲しみの海へ沈んでいたのだ。
「替えるつもりだったの。なのに文字入力、ベル打ち出来る機種少ないのよね。今更打ち方、変えらんなくてぇ……」
小坂部自身、携帯電話を手にしたことは無いが、確かに入力方式が異なるというのは扱いにくいものなのだろう。けれども、ポケットベル自体が姿を消した昨今、ポケットベルコードでの入力方式を好む人間も減少の一途を辿るはずだ。
古いものは捨て、新しいものへ移行した方が生き易い世の中なのに。
「いい加減、順応しようぜ? で、静……あのさ」
自分と良く似た形の爪が、ビーズ細工を軽く抓む。
「んー?」
未練と名残が容量の幾許かを埋める携帯電話を片手、姉が虚ろな返事を向けた。小坂部は心根から漏れる本音を一度飲み込み、咄嗟、言葉を適当に挿げ替える。
「あー……んと、泥酔する癖、止めろよ」
「何よぉ! あんたに云われなくても、解ってるわよ! もう、悠の分際で!」
解ってねぇから云ってんだよ、静。
伸びる彼女の手を躱し、捕まる前にデイパックを掴み室外へ逃げた。扉奥から悠と連呼する姉の声が聞こえるが、視界から姿を消せばいずれ執着も薄れるだろう。自分よりも余程、自由な時間の多そうな大学生身分を羨ましく思いつつ、乾いた廊下の空気を吸い込むと隣脇の台所から陶器の擦れる物音が聞こえた。
「只今、峰子さん。何してんの?」
扉を開けて直ぐ目に飛び込んできた状況は、食器棚上部へ手を伸ばす母親の姿で、小坂部を確認しながらも尚、動く彼女の指先は手探りに重なる食器を振るわせる。
「ああ、悠。 丁度良かった! 今、来客用のお砂糖が切れちゃって……、この辺にあったと思うんだけどね、高くてよく見えないのよ。踏み台、出すのも面倒でしょ?」
と、同意を求める彼女の指先に触れ落とされた茶筒が、見事な音を立てて床へ転がり落ちた。耳を塞ぐ余裕があるなら受け止めて欲しいと内心思ながら、小坂部は筒を拾い棚へ戻す序で隣の扉を開く。
「砂糖なら、こっち」
「あら、ホント! 良く知ってたわね」
手を叩き喜ぶ母親へ束になったスティックシュガーを差し出し、空いた片手で素早く扉を閉めた。
「まぁ……この間、偶々見かけてさ。つか、明日からチャリ通すっから八時に出んよ。朝飯は適当に食ってくから」
「自転車? 何云ってるの。ここ、徒歩通学区域でしょ?」
低い視点から攣り気味の大きな眼に精一杯の威厳を付け、母親が睨みつける。上から眺めるほどに自分の母親だと思い知らせる顔は、刹那も視線を逸らさず小坂部を見詰め続けた。
「通学じゃねぇよ。朝、オトモダチの家までチャリで行って、そこから歩いて学校へ行くだけの話ですよ?」
「ふうん……そう。そう云う考えなのね」
先に眼を外す小坂部を嘲笑う様に口角を上げ独特の笑みを作り上げると、峰子は解れた髪を耳へ掛け直す。覗く豪奢なイヤリングが婚前、彼女が就いていた夜の世界を輝かせた。美貌を武器に生き抜いてきた彼女の自信に満ちた表情は、時として無言の気魄を生み出す。風俗営業店で働いていた母の過去を知る男は街にも多く、中には小坂部の前でさえ口汚く罵る人間も居た。
……豪い玉の輿に乗ったな、水商売上がりの女が。どれだけ酒を飲ませたもんだか……。
幼少とは言え、言葉の意味は判らずとも相手が母を侮辱していることは蔑んだ表情から理解できた。瞬間、腹の底から沸き上がる怒りに拳を握り締め、挑んだ自分の頬を容赦無く叩いたのは他の誰でも無く母である。お蔭様で、とだけ微笑み返し、叩いた掌で自分の小さい手を包む母の毅然とした横顔を仰ぎ見た際、謎多き安寧の一辺が垣間見えた気がした。
「他には?」
物言いたげな母の唇に催促を嗾ける。けれども峰子は振り払うように頭を振り、小坂部を見上げ微笑んだ。
「それが良い事か、悪い事かくらい、貴方だって判って云ってるんでしょ? だったら、私が何か云うわけ無いじゃない。で、誰の御宅にお世話になるの」
「川瀬。同じクラスの奴。中学の直ぐ裏に家あんの」
新しく述べた名前にも母は然して興味を持たず、二三度頷くだけの簡素な反応を見せる。話す以上のことを言及しない彼女の態度は実母ながら好感が持てた。
「そ。じゃ、週末にでもきちんとご挨拶してから、自転車置かせてもらうのよ」
「は? 何で! 俺、明日行くって、」
「じゃ、電話しておく。クラスの子なら連絡網で番号判るでしょ? こういうのはね、最初が肝心なのよ」
付き合いの長さを予見したのか、単に商売柄の常識か。人脈が広がる事に行われる定番の儀式に、小坂部は暫し項垂れた。恐らく、週末には社名入りの熨斗紙に包まれた菓子を持って川瀬宅を訪れる羽目になるのだろう。客商売のしがない性だと理解しつつも、商魂の逞しさに呆れる自分がいる。恥じると同時、いつか辿る未来の可能性を否定できない人生が哀しい。
砂糖を手に会社へ戻る峰子の後姿を片目で見送り、先程の食器棚と相向かう。伸ばす手は砂糖が潜んでいた扉の奥を目指し、指先に触れる四角い箱を掌へ収めた。常時カートン単位で購入する祖父とは云え、隔週一箱減少する嗜好品を不審に思い始めているだろう。勘の良い母なら今し方の会話で気付いたかも知れない。
軽い煙草の誘惑に。
食器棚上段の左扉に煙草が仕舞われている事は、背の届かない幼少時から知っていた。祖父が扉を開けるたびに手にしていた四角の小箱を菓子だと信じていた頃だ。紅と白の二色で構成された包紙に金の桜が描かれたそれが煙草だと理解できたのは就学間もない頃で、扉へ到達する身長に伸びた歳には中に並ぶ一本を口へ運んでいた。恍惚とした表情で吸う祖父の姿から、さぞかし美味いものなのだろうと期待で胸一杯に取り込んだ瞬間、天地が回る混乱と動悸に涙が無意識に溢れ出たのを覚えている。次いで、滲む冷や汗が徐々に熱を下げ、想像の死を近くへ招いた。匂いが放つ甘さとは掛け離れた苦味が舌根から滑り落ち、灰が自然に零れるまで隔絶した彼方へ意識を追い遣る。煙に巻かれた空虚な時間。
私室のベッドへ腰掛け、脱ぎ捨てた制服のポケットから煙草だけを抜き取る。金のテープを剥がす一周を至福に感じた。漂うチェリー、口を塞ぐプレーンフィルター。桜を口に銜えたまま扉を叩く猫を部屋へ迎え入れ、反対側の窓を少し開ける。黄昏時の隙間風は煙を巻き上げ、手近な銀の灰皿へ伸び始めた灰を叩き落とした。足元へ擦り寄る猫を適当にあしらい子機を片手、連絡網に記された初めての番号へ電話を掛ける。呼び出し音の最中、コードの無い機体を耳へ添えながら、コードが空間を結ぶと真剣に信じていた就学当時を思い出した。受話器にはどれも螺旋のコードが伸縮し、声は管を通り相手の元へと届く。電話線を追えば交換局へ辿り着き、局内では夥しいほどの電話線を『でんわがかりのひと』が一本一本、指定の番号を持つコード同士を繋ぎ合わせているのだと勝手に仕組みを理解していた。子供世界の不思議は魔法が万事解決し、機械は大人のみが操作出来る完璧な道具で、全て自分の考えた理屈が当然と罷り通ると疑わずにいた頃の話だ。結果、空想科学も飛び越える理論は音声だけでなく、匂いも届ける電話コードを脳内で開発し、暫くの間、電話を掛ける前には必ず歯を磨く習慣が身に付いた。
今ではもう、秘密すら曝け出す螺旋と化したのだけれども。
『はい、川瀬です』
普段より少し低い彼の声が耳奥に聞こえる。
「もしもーし、茅中学校一年三組出席番号五番、小坂部悠でーす」
『え……? え、ええええっ? オサカベ? ちょっ、え、何で電話?』
動揺が見て取れるような口調に思わず笑みを零した。通る子供の高音は聞き手の事など一切無視し、感情ままの音量を当ててくる。
「明日さ、お前んちに朝、チャリ置いてから学校に行くって云ったじゃん? あれ、やっぱパスして普通に行くわ」
『え! 何で?』
同じ言葉の繰り返しが更なる彼の周章を伝え、漏れる笑が伝わらない様、小坂部は煙草を挟む手で受話口を塞いだ。何でも何も、普通に考えれば校則違反を改めようとしている友人を肯定こそすれ、疑問には思わないだろう。
「別に、俺がどう通学しようと関係ねぇだろうが。それとも、あれか? 俺と一緒に登校できるの楽しみにしてたとか?」
『うん。凄く、楽しみにしてた』
川瀬の率直な返答に吐き出すはずの紫煙を取り込み、膨らんだ胸の苦しさに耐え切れず噎せ込んだ。驚いた猫が異変を感じ、二三歩足元から遠ざかる。
『だ、大丈夫?』
「……平気。多分、きっと、そのうち」
喘ぐ胸を宥め、涙の滲む眦を指で拭う。浅い息では酸素が上手く回らない。二度の深呼吸で状況を整え、三度目は煙を共に注ぎ込んだ。今の失態を川瀬が見たら何と云うだろう。小坂部の疑問に応える様、受話器向こうで溜息が聞こえた。
『……学校の直ぐ裏って行っても、うちから四階の教室まで歩けば十分以上かかるから、お前が一緒に登校するって云ってくれて凄く嬉しかったんだ。だから、明日もどんな自転車で来るのかな、とか、何時くらいに来るのかな、とか考えてワクワクしてた。何か……ごめん、凄くゴメン。でも、本当に残念』
電話での会話に慣れていないのか、段々と性急になる口調は次第に消滅し、帰結する。勢い、受話器を置きそうな雰囲気だ。小坂部は灰を銀の皿で弾き落とし、乾いた唇を子機へ寄せ、業と囁き声で素早く述べる。
「……一緒に登校してやんよ」
『え! ホント?』
一変して嬉々とする声に、受話器を握る手が汗ばんだ。電話の利点を一つも活かそうとしない、彼の反応が煙草すら後ろめたい気分にさせる。
「っつーか話、最後まで聞けよ。取り敢えず明日はパスして、後日、キチンとゴアイサツに伺いますのでオハナシはソレからってヤツだ。ま、自転車置かして貰う訳だしな。ってコトで、いつ行けばいい?」
『んと……じゃ、日曜日! 日曜日がいい』
「了解。日曜の午後にでも行くから、ゴカゾクのミナサマにヨロシク頼む」
じゃあ、と述べて切断ボタンを押した。子機を充電器へ戻せども、川瀬の声が頭に残る。消し去る様に煙を、埋め尽くす様に灰を、封じる様に口へ煙草を運び入れ、外灯の点る窓外へ視線を馳せた。夜よりも明るさの目立つ室内で、足元の猫は鼾を掻いて安眠している。爪先で腹を探ると、喉よりも首輪の鈴が小さく鳴った。




