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2階

 誰が持ち出したのか、体育倉庫の鍵は所定の位置から消えていた。持余し気味の暇をキーボードへ叩きつける教務主任以外、職員室に教諭は居らず、隣接する衝立奥の給湯室からは栄養士だろう女性の談笑が聞こえる。空き時間と言えども職員室に戻る教員は少なく、学級を担任する者の多くは放課後以外を各学年階に設けられた学年職員室で過ごした。確かに広い構内、最南端に位置する職員室へ担当教室から教材を運ぶだけでも一苦労だ。雑事軽減を理由に学年職員室を利用する教員が多いが、内心、管理職員と顔を会わせずに済む事が最大の要因だろうと小坂部は推察する。

「どうしたぁ、一年。もう、授業は始まってるぞぉ」

 一瞥の視線が小坂部の学年を瞬時に判別し、教務主任は再び厚い眼鏡にモニター画面を映し出した。入学して一月にも満たない新入生を個別認識できる教員は少ない。小坂部は屈み壁面に掛かる特別教室の鍵を覗き込むと、業とらしく声を上げた。

「あれー? センセ、体育倉庫の鍵はー? 俺、次の授業体育だから借りて行こうと思ったんですけどー」

 指で並ぶ鍵を撫でる。付けられたプラスチックの色札が弾く爪先に合わせ乾いた音を立てた。金釘上部に札と同じ色のビニールテープが貼られ、油性ペンで対応する教室の名前が書き記されている。委員会や授業で使用される特別教室の他は体育館や教材準備室、生徒会室の鍵までもが無防備に提げられていた。

「体育倉庫? あー……他の一年が借りに来てたなぁ。あれ、それとも大河原さんが持って行ったっけな。まあ、どちらにせよ先生は、もう校庭に向かわれたぞ。お前も早く行ったらどうだぁ」

「はーい、分かりましたぁ」

 耄碌してんぜ、教務主任。

 戸口脇に掛かる鍵を横目に見ながら小坂部は軽く礼をし、職員室を出る。中学校と云えども小学校同様、鍵を借りる際に特別な許可は必要ない様子だ。最寄の教員に一声掛ければ良い。戸口付近となると教務主任か教頭が管理者となるはずだが、当の本人が先程の応対を見せている以上、責任も浮薄だ。

 チョロいね、学校ってヤツは。

 脆い信用の上へ成り立つ杜撰の集大成に小坂部は含み笑い、漏れた声を押さえもせず廊下へ響かせる。流石に重要箇所の鍵は入手困難だが、欲しい鍵は大概揃う。後は機会を窺い合鍵を作れば当座、行き詰ることは無い。過去の行為を知る者からは、無駄な労力と侮蔑されもしたが、それでも小坂部は特別な存在を示す証を欲した。特に形へ拘る必要も無かったが、常に家人の在宅する環境で育った小坂部に取って鍵は一種の憧れにも等しい物であり、尚更、開閉自在が興味をそそる。

 誰かがポケットへナイフを忍ばせる様に、自分は鍵を手中へ収めたい。

 けれども今、鍵は自分の掌へ存在せず、昇降口から見詰めた先の校庭では既に体育の授業が行われていた。遠目にも鮮やかな桃と水色の鉢巻が植え込みから垣間見える。四組との合同体育を前に、三組を表す鉢巻を忘れたことに今頃気付いた。遅刻にしろ、鉢巻忘れにしろ、咎められる事に違いは無い。ならば、遅刻した方が幾分、気怠い授業を受けずに済むと考え、小坂部は再び四階へ続く階段を無言で上り始めた。

 辿り着く頃には軽く息の上がる身体に苦笑する。入学式当日、昇段中も絶え間なく話し続けた彼の息は乱れることなく、健康な頬が色付いた。次いで、続く廊下で驚嘆の声を上げ失笑を買う。小坂部は左右へ伸びる廊下を眺め、彼の気持ちに思いを馳せた。廊下を真剣に見詰めた事など一度も無い。況して、感情が揺り動かされることなどあっただろうか。窓から落ちる光の四角は彼方まで続き、雲の動きに消え失せては現れる。中央階段を中点に東には女子の、西には男子のトイレが並び、隣には水飲み場が窪みに沿って設けられていた。唯一、対称を乱す存在は屋上へ続く階段。踊り場への進入を閉ざす綱。

「あ〜らら、王子も気になっちゃったぁ?」

 辺りの静寂にそぐわぬ間延びした声が背後から聞こえる。独特の口調に、振り返るまでも無く声の主が断定できた。

「チヅ。好きだね、そのアダ名。何年前の話だよ」

 同じく渾名を口に乗せ答えると安達ちづるは控え目に笑みを見せ、腕の中、レースに彩られた少女趣味な手提げ袋を抱き締めた。

「三年前でしょお、幸福な王子。白いタイツ、似合ってたのにぃ。も、穿かないのぉ?」

「穿かねえよ」

 話題を断ち切る小坂部の短い返答に、安達の零す笑いは声まで丸い。鼻に掛かる響きには存分な甘えを含ませ、レースの霞へ瞳を映す。薄く色付く唇は無音で王子、とからかい告げた。

 正直、封印に近い形で忘却の彼方へ追い遣った記憶を呼び起こされ、小坂部は不愉快極まりない。小学生の学芸会にて演じた『幸福な王子』にて見事、王子役に抜擢された小坂部は女子の趣味で飾り立てられ、石像王子だと云うのに白タイツのみならず南瓜パンツまで穿かされた。金箔代わりに頬へは金色の折り紙が宛がわれ、跳び箱で作られた即席台座の上で直立を保つべく震える姿は幸福どころか滑稽な王子だ。以来、良かれ悪かれ付けられた王子の渾名は今でも一部女子の間で口にされている。

「残念、ちづるはお姫様の格好するのになぁ。てゆぅか、なんで王子、こんなトコにいるの? 体育でしょお?」

「忘れ物、取りに来た。つか、お前もなんで未だ、こんなトコに居るんだ」

「ちづるはねぇ、学年会議が長引いて今からお着替えなのぉ」

 片足立ち安達はプリーツスカートを誇らしげに翻した。回転と同時、広がるスカートの裾にはレース、中には黒のパニエが幾重にも層を厚くしている。お姫様の格好と自称する安達の私服はロリータ一色だ。彼女の持つ人形めいた愛くるしさを最大限に惹き出すレースとフリルは私服のみならず制服にもふんだんに盛り込まれ、今もブレザーの袖口からは黒いレースが覗いている。制服の改造を違反とする校則が無いのを良いことに、リボンタイの中央へ王冠意匠の輝石をあしらい、白い丸襟ブラウスにはフリルライン、丈の短いスカートへはリボンの絡みついたハイソックスを合わせ自分好みに着こなしていた。大胆な服の好みは小学校当時から変わらず、文句を唱える女子が立つ頃には、彼女を擁護する男子が現れる。場を中学へ写そうとも、安達を取り巻く環境は何一つ変わらないのだろう。

「で、何が気になるって?」

 立ち去る気配の無い彼女へ、沈黙を埋めるべく問い掛ける。すると安達は嬉しそうに目を細め、喜びを抑えた声で短く述べた。

「青姫伝説」

「何だそりゃ」

「え〜! 知らないのぉ? 校内説明の時にぃ、皆で話してたでしょお! もぉ、ウナミィとばかり喋ってちゃダメだよぉ。可哀相な王子。青姫伝説は……えっとぉ、前にぃ茅中校舎の屋上から飛び降りて死んじゃった女の子の話だよぉ。何で自殺したのか分かんないんだけどぉ、それ以来、屋上立ち入り禁止になっちゃったんだってぇ。しかも! 出るらしいよぉ!」

 大袈裟な動作の割りに緩慢な口調で語り、終いには両手を胸元で力なく下げ幽霊の真似事をする。安達のおどけた動作に話の結末は予想できたが、覗き込む瞳の期待に勝てず、小坂部は溜息交じりに口を開いた。

「……出るって、何が」

「青姫よぉ! すごぉく長い黒髪でねぇ、茅中の制服着てるんだってぇ。でね、見た人は呪われて一週間以内に死んじゃうんだってぇ。も、ゾクゾクしちゃうよねぇ! ちづる、そうゆう話、大好きぃ」

 有り触れた七不思議系話を、うっとりと語る彼女の双眸は既に違う世界を映し眺めている。甘美と頽廃を愛する少女の面持ちで安達は一度、踊り場へ続く階段を仰ぎ見、惚けた吐息を漏らした。彼女が不思議ちゃんと称されるのは奇抜な服装以上に迷信や超常現象を妄信する傾向にある。今期は指名により学級委員に甘んじている安達だが、過去は血と包帯を好み自ら保健委員に立候補していた程の人物だ。彼女の世界では死すらも耽溺するに相応しい真意を孕む。

「俺は興味ナイけどな。で、黒髪なのに何で青姫なんだ? 他の色でもいいじゃねえか」

「知らなぁい。青ジャージの学年だったとかぁ、青が好きだったとかぁ、名前に青が付いたとかぁ、色々噂はあるけどぉ、どれがホントか分からないのぉ」

 盲点の多さが噂話を盛り上げる。胡乱気な小坂部の口調にも関せず、安達は好奇心旺盛に震える指先で綱へ触れ、昂奮気味に後退した。

「ま、美人だっつーんなら、会ってみたいもんだけどな」

「ウフフ。そんなコト云うと、王子様はお姫様に連れて行かれちゃうかもよぉ。気をつけてね、小坂部王子」

 誰よりも姫の装いで安達は嫣然と微笑み、シフォン程の軽い足取りで階段を跳ね降りた。無人の教室で鉢巻を手に、小坂部は先程の話を反芻する。

 自殺、呪い、死。

 禁忌の羅列する場所へ自分は足を踏み入れた。安達の話を信じる訳では無いが、曰く付きである事は確かだ。ならば四月の現時点、興味を抱く生徒よりも、倦厭する生徒の方が多いだろう。小坂部は浮かぶ着想に唇を歪め、一段飛ばしで階段を進み降りた。

 昇降口を抜け向かった校庭では既にハードル競技が行われている。掛け声に合わせ駆け出す二者の内、極端に遅い少年は小坂部に気付くと一散に駆け寄った。

「小坂部!」

「……川瀬」

 あわよくば無言で集団へ紛れ込もうと考えていた小坂部に取って、川瀬の出迎えは予定外の結果を齎した。響く子供の声に顔を上げた大河原は笑みを浮かべ、腕組み姿勢のまま檄を飛ばす。

「随分な遅刻だな、小坂部! さっさと準備体操済ませて、記録計るぞ! 川瀬、手伝ってやれ!」

「はーい!」

 ハーイ、じゃねえよ。

 小坂部の顎にも届かぬ身長差で一体どんな準備体操が出来ると云うのだろう。無言で落とす小坂部の視線に、川瀬が大きな瞳で応じた。

「オレ、お前に早く伝えたくてずっと待ってたんだ! 鍵はね、友永が持ってきてくれてね、それから、」

 満面に笑みを浮かべ、堰を切り語られる言葉の勢力に脱力する。外気へ晒された頬は昂奮に増して紅潮し、白い湿布には薄い埃が一線を掃いた。逸らしても追い続ける視線に小坂部は溜息を飲み込み、川瀬の唇へ人差し指を押し当て片目を閉じる。

「川瀬、シー。大河原に睨まれんぞ」

 窘める小坂部の一言に川瀬は両手で自分の口を塞ぎ、厳つい体育教師へ視線を馳せた。搗ち合う目線に身を竦ませ、ぎこちない動作で小坂部の傍らへと移動する。

「ホントだ、見てた」

 見開く瞳に驚きの度合いが窺え、小坂部はつい笑みを浮かべる。彼の低い視界は動作の対象しか映し得ない。見つけた瞬間、即座に走り寄る素直。待ち受ける最中、彼の瞳が自分のみを探していた事実に遅れて気付き、小坂部は一人気分を良くした。御座なりな準備運動に合わせ関節が鳴る。

「体、鈍ってるぞ! やっぱり、小坂部は文化部より運動部に入った方がいいと思う」

「そうねー、努力とか根性とか団結とか、そーゆーのと無縁な運動部だったら入ってやっても良いかもねー。つか、川瀬、手、貸せ。背中、乗せんぞ」

 膝を折り曲げ前屈する背に川瀬を乗せ、小坂部は形式通りの運動を淡淡とこなした。軽い彼を背にしても無意味な柔軟体操だが、毛頭、授業に参加する気など無い自分にとっては丁度良い時間潰しとなる。

「……校庭に出たらさ、もう、皆がハードル準備してくれてたんだ。友永や久米や西川が手伝ってくれたんだよ」

 唐突に始まる途切れた会話の続きが背中越し、小坂部の胸へ響いた。正義感の強い久米や友永なら自発的な行動にも納得が行くが、西川までもが彼の為に動くとは思えず、目付きの悪い級友の姿を脳裏へ浮かべる。気の短い西川の事だ。凡そ、川瀬云々以前に運動へ対する自らの欲求が勝り、待ち設けへ荷担したのだろう。事実、小坂部が校庭に姿を現した時も長い髪を棚引かせ、西川は矢の勢いで障害を飛び越えていた。

「だから、凄く……嬉しかった」

「そりゃ、良かったな」

 自分に関係の無い事柄を語られども感情豊かに相槌が打てる訳も無く、小坂部は極めて他人事に云い捨てた。勢いついで上体を起こし、着地と同時に離そうと思った手を川瀬に強く握られる。

「有難う、小坂部。ずっと、云いたかったんだ」

 汚れた綿布に土埃。付着する塵を払いもせず、川瀬は強い瞳で微笑んだ。

「俺は何もしてねえぞ」

 振り解いた手で髪を掻き上げ、視線を逸らす。余裕を持たせた咄嗟の動作が、渦巻く感情を胸へ抑え付けた。熱の変化、脈打つ鼓動。音を地に擦りつけ広げた歩幅へ川瀬が忙しなく歩み寄る。グラウンドを渡る一陣の風が、徒に髪を舞い上げた。

「タイム、小坂部のタイム、オレが計ってもいい?」

「へいへい、ご勝手に。心行くまで、ドーゾ」

「じゃあオレ、ストップウォッチ借りて来んね!」

 付いては離れる川瀬の行動を眺め、小坂部は緩く息を吐いた。小さくなる背中、消失点の存在。見渡す視界の片側では対照の気合に満ちた女子の姿が見える。波打つ髪へ風を乗せ走る安達に、彼女が持つ特有の甘さは何処にも無かった。

 数回の測定を済ませ、僅かに滲む汗を隠れて拭う。上気した頬の理由に成るほど高い気温は授業終了時にも冷め遣らず、小坂部は吸い寄せられた木陰の水道で乾いた両手を水へ晒した。

 五時限目終了と同時、先ずハードルを手に抱えたのは西川だった。

「さっさと片付けて、直ぐに教室戻んぞ! 次は武市先生と一緒の道徳だからな!」

 誰にとも無く口走り、髪の乱れを直すよりも先、撤収を優先する。四組男子も加わり、物の十分と掛からずハードルは全て体育倉庫に運び込まれた。手の空いた数名の男子は同じく女子の撤収へと回る。

「手伝うタイプだと思った。違うんだな」

 流れ落ちる水音に混ざり降る声は、凛とした響きを伴い耳へと沁みた。彼の気質に相応しく、末尾まで明瞭だ。自分を覆う影に小坂部は視線を上げ、現れた少年に手先の水滴を浴びせる。

「お前こそ手伝うタイプでしょー? 天才投手、トモナガ君。野球少年にモテモテじゃん? 良く、知らねぇけど」

 蛇口を捻り、言葉を閉じる。小坂部の牽制を友永は苦笑で躱し、一つ離れた蛇口を勢い良く回した。

「天才でも何でもねえよ」

 語尾を飛沫に乗せ、友永は短髪の頭ごと流水に晒す。豪快に頭皮を擦り上げ、濡れる衣服も気にせず顔を洗う姿に小坂部は一歩、彼から遠退いた。照らされた灰の足元が飛び散る水により鈍色へ変化する。乾いた先から潤いを欲する爪先を腕組み潜め、小坂部は体育倉庫へと視線を馳せた。彼方では川瀬が水色の鉢巻を手に、背の高い男子と話し込む姿が見える。今、彼の瞳に映る者は自分では無い。彼と自分を遮断する集団に紛れ、教室へ引き上げようとした小坂部の背後で不意に水音が止んだ。一瞬の静寂に、遠い足音が次第に近く聞こえる。

「仮入部して二週間だぜ? 二週間も経ってんのに、未だ一度もマウンドに立ってねえ。投げてねえんだよ」

 蛇口に向かい友永は口早に呟くと、銀の導管に移る自分を開いた目で見詰めた。濡れた両腕で上体を支え、下がる顔を水口へ傾ける。勝気な眉間に皺を寄せ、濡れ立つ前髪から伝う滴が顎へ到達した瞬間、友永は投球姿勢から見えない球をグラウンドへ向け投げ付けた。翳す新緑の木漏れ日が、網目の様に彼の顔を覆う。野球に疎い小坂部の目にも美しく映る体勢は、確実に彼の天分を見せ付けた。

「毎日、球拾いだ。正直、やってらんねぇよ。俺の立つ場所は外野じゃねえし、何が楽しくてマウンドに立つ他人の背中なんか見なきゃなんねえんだって思う。宇波だって……アイツも凄ぇキーパーなんだろ?」

「みてぇだな。俺には判んねぇけど、武重が云ってた」

 反射神経、ズバ抜けてんだって! 司令塔、マジ惚れるって!

 小学校最後の市内球技大会、級友が鼻息荒く絶賛した昂奮を覚えている。体躯では他校の選手に劣る宇波が、他者と全く質の違うゴールキーパーであることを知らしめたのは、ボールを追うことしか知らない小学生へ的確な指示を与えた時だった。クラブチーム所属の選手など二、三名のみの素人で結成された即席チームが準優勝の栄冠に辿り着けたのも、全て宇波の采配と失点一の守備力が成した業だ。

「その宇波だって未だ、ゴールに立ってねえんだ。いい加減、キレるだろ」

 友永は向き合い、腕に残る水滴を乾いた地面へ振り飛ばした。動きに合わせ筋を浮かべる褐色の腕は、均整の取れた肉体を湛える。

「へえ、珍しい。ウナミンの肩、持つの? スポーツ精神に則って俺に説教?」

 何を言い出すのかと耳を傾ければ愚痴だ。小坂部は冷えた頬へ手を当て、葉末の空を仰ぎ見た。彼らは何と云おうとも数時間後にはグラウンドへ立つだろう。他人へ語るほどの情熱を下らない理由で冷ますはずがない。況して、自分の居場所があるなら尚更だ。小坂部に次いで友永も空を見、髪に残る滴を振り払うと両腕を天へ掲げ伸びをした。

「別に擁護する気なんかねえよ。ただ、昼休み……お前が川瀬に云わなければ、俺が宇波に叫んでた。それだけの話だ。済まねえな、こんな事に付き合わせて。でも、どうしても云いたかったんだよ。小坂部……お前、部活どこにすんの?」

 低い声で友永が問う。心情を暴く話者の瞳に小坂部は視線を逸らし、鉢巻を指へ絡め笑顔を見せた。

「さあ? 放課後デートクラブとか」

 小坂部の返答に友永は表情を一変させ、弾けた笑いを轟かせる。浮かぶ健康的な白い歯が更に表情を幼くさせ、彼を一介の中学生男子に仕立て上げた。

「何だよ、ソレ! お前、最高! 作ったら俺も入れろよな。それと……偶には本気出して走れよ? 川瀬みたいにさ」

「そ? 俺はいつでも本気だぜ?」

 突き出す拳に掌を当てる。

 上空では小鳥が一羽、梢から光を散らし飛び去った。

 

 

「で、小坂部、部活どこにするん? 未だ、仮入部も行ってないんだろ?」

 入部届け提出期限を週末に控えた放課後は既に部活を決めた生徒から順に姿が消えて行く。部活動ごとに芽生えた連帯感は交友関係をも変え、先程も陸上部へ入部を決めた安達と有馬が共に教室を後にした。仮入部から剣道一筋の久米に至っては疾うに私物の用具一式を持ち込み、四組の代々木と誘い合い武道館へ向かう。出身小学校の馴れ合いや対抗意識は数週間で払拭され、今は独自の属性が友好範囲を急激に広めていた。

「お、川瀬! お前、未だ部活行かねえの?」

「うん、もう少ししたら行く。だから、先に行ってて、西川」

「そか、分かった。じゃ……おい、伊鈴! 早くしろよ! 武市先生、来ちまうだろ!」

 足踏み体勢で川瀬に話し掛けた西川は、ついで教室へ向かい叫び伊鈴の返答も待たずに廊下を駆け抜けて行く。稀代の俊足に陸上部を始め各運動部長から直々の誘いを受けたにも関わらず、西川は顧問を理由に男子卓球部への入部を決めると、入部届け配布日早々に規定用紙を提出した。

 一年三組担任兼男子卓球部顧問である武市里美は教育現場よりも社交界が相応しい華美な容貌の女性で、誠実を固めるべき無地のスーツに身を包んでも曲線が嬌態を曝け出す、妖艶な雰囲気の教諭である。赴任初日には男子生徒のみならず男性職員からも喝采を浴び、入学式における担任紹介では式典中にも関わらず三組父兄男子一同が歓喜の声を上げた。無論、小坂部も例に漏れず眼鏡美人教師の登場に拳を握り締めた一人であるからして西川の選択には大いに同意できる。けれども同時、茅中男子卓球部は全国を狙う強豪だ。顧問目当てに三年間を捧ぐには条件が厳しすぎる。

「西川、早いよな。川瀬、俺も先に行くから」

 間も無く現れた伊鈴は然して急ぐ風でもなく、西川と対照的な様子で階段へ向かった。髪色以外は遍く平凡な伊鈴が顧問や能力で卓球部を選んだとは到底思えず、つい彼を笑顔で見送る川瀬を凝視する。伊鈴が部活動を決めた理由があるとしたならば、川瀬に誘われた、が一番だろう。川瀬は、現卓球部男子部長である坂本から直接勧誘を受けている。

「だからさ、オレと一緒に卓球部行こうよ! 絶対、面白いって!」

「んー、どうしようかねー。俺としてはさー、もっと楽なねー、」

「楽な部活なんてねえから、さっさと決めた方が特だぜ、小坂部。どうせ、最終日には強制入部が待ってんだ。野球部なら初心者も球拾いから大歓迎するけど、どうよ?」

 会話に割り込まれ、小坂部は露骨に嫌悪な表情を眼前の硝子窓へ映した。

「げー、友永。ぜってー、入らねぇ」

「だろうな。ま、川瀬、頑張って口説けよ。じゃ」

 唐突に現れては次々と去って行く級友に、小坂部は更に項垂れを深くする。こう、矢継ぎ早に話し掛けられては戸口に近い自席から廊下へと移動した意味が無い。とは云えども、会話の大半は川瀬で、何時の間に知り合ったのか級友のみならず他クラスの生徒とも気安く挨拶を交していた。一方、自分に声が掛かるのは馴染みの女子や同校出身者ばかりで、気付けば生じていた歪みに世界が惑う。包括範囲の逆転は小坂部の視野をも狭めた。

「小坂部、川瀬。最後になると、教室の鍵閉めする羽目になるぜ? 早く、行けな」

 不意に降り掛かる声へ、川瀬が小さな手を握り締める。脊髄反射にも近い速度で伸ばされた手は強く小坂部のシャツを掴んだ。細かな皺を寄せ震える手に自分の手を重ね、小坂部は極めて明るい声を乗せる。

「ありがと、ウナミン。そちらも部活、頑張ってねぇ」

 後ろ向き、握る宇波の拳のみが肩越しに返る。遠退く彼の背に、川瀬が静かに緊張を解いた。吐く息が熱く手の甲を撫でる。

「まだ、怖い?」

「ちょっと……ちょっと、だけ」

 体育の授業後も続く宇波の命令は変わらず川瀬を突き動かした。笑顔で俯き応対する川瀬に苛立つ一日。震える指が小坂部のシャツを掴む二日目。級友が先に制する三日間。四日以降は減少する雑用に換わり、川瀬と過す時間が増えた。自分を一番に見つけては、只管に駆け寄って来る。好かれて悪い気はしない。寧ろ良い気分だ。

 小坂部は湿布の取れた頬へ手を添え、俯く顔を自分へ向ける。柔らかな頬は日溜りの温かさで、冷めた指先を吸い寄せた。

「痣は消えるよ。そしたら全て元に戻る。後、もう少し、な?」

「……うん」

 彼の手と頬に挟まれ外された手は陽射しの窓辺へ置き戻される。川瀬は小坂部の手へ自分の手を重ね置いたまま、暫く硝子越しに広がる風景を眺めていた。青い空に連なる緑の稜線は鮮やかに境界を示し、棚引く雲は誂えた様に動かない。

「大豊小が見える」

 窓硝子に指を当て川瀬が示した場所には、乳白色の小さな箱が見えた。遮蔽物の無い校舎北の景色は緑と茶の色彩が大半を占め、集落に並ぶ住宅が玩具の面持ちで彩りを豊かにする。

「この間まで、あの建物から中学校を見てたんだ。今も、誰か、こっちを見てるのかな。そう考えると、なんか不思議だよね」

「そうかもな。へえ……結構、大豊って近いんだ」

 教室から見える茅小よりも寧ろ近く感じるのは、横に長い景観のせいか。けれども川瀬は同意どころか吃驚し、小坂部と小学校を交互に見た。

「え? 小坂部、知らないの? オレたちが今、立ってる場所。茅中教室棟の部分まで大豊区域だよ。それに、直ぐソコの保育園。あの裏にオレの家、あるんだけど」

 初めて知る事実に小坂部は珍しく声を上げた。茅中学校の記載住所は茅小学校学区内にある。よって当然、茅中学校周辺住所は皆、茅小学校生徒と思い込んでいたのだ。川瀬が述べた保育園は北門から僅か数百メートルの距離にあり、四階からでも遊具の全てが識別できる。

「ハ? マジで? 川瀬、学校まで徒歩何分だよ! 俺、三十分とか普通に掛かるんですけど! あー、クソ! 俺、明日からチャリ通するからな。んで、チャリ、お前の家に置いて、お前と一緒に登校してやる」

「でも、小坂部、自転車通学許可区域じゃないんだろ? チャリ通って、校則違反になるじゃんか」

「通学じゃねえもん。学校行く前に、川瀬んちへ何で行こうと校則違反にはならねえよ」

 我ながら屁理屈だとは充分に理解している。だが、愚にも付かぬ理由を挙げ諂う程、自転車通学は魅力的だ。勢いに任せた提案に川瀬は笑い、小さな肩を震わせながら二度頷く。

「いいよ、分かった。榛ちゃんに云っとく。でも、小坂部、絶対に榛ちゃんには手、出すなよ?」

「了解! で、ハルちゃんって誰だ?」

 初めて聞く名に、小坂部は率直な質問を向ける。すると川瀬ははにかみ、連山の一角を指差し答えた。

「オレのお姉ちゃん、川瀬ハルナ。榛名山と同じ漢字で榛名。オレの家、お祖母ちゃん以外、みんな山と同じ名前なんだ」

 ならば、指し示す先に聳える山が彼女と同名の山なのだろう。毎日、目にする山にも名があることを今更ながらに思い出す。ぐるりを山に囲まれども、帰宅すれば高楼が遮蔽する街並みに、自然は絵画の背景でしか無かなった。

「偶然だな。オレの親父も富士山に因んで冨士雄サンだぜ。で、お前の名前の山ってあんの? ブソン山?」

 知らなければ決して読めぬ名に意味を込めて、小坂部は業と彼の相好を崩した。思惑通り膨らむ頬は臨界に唇を開き、甲高い声が廊下を走る。

「違うよ! オレ、云っただろ? 名前も覚えてない奴の自転車なんか、絶対置かせねえ!」

「おわ! ソレは勘弁、マジごめん! 赦して、武尊。ね、ホタちん!」

「知らない! 知らない! 聞こえない!」

 耳を塞ぎ、一人歩きだす川瀬に小坂部は声も立てずに笑った。どれも同じに見える連山に、彼の名を冠する山があるのだとしたら、きっと小さな山だろう。思い、重なる稜線を人指でなぞり出来る、窓硝子を這う一線を掌で擦り消した。地図帳でも開こうか、考え振り向いた先で川瀬が笑う。彼は二、三歩、後ろ向き歩くと踵を返し、現れる中央階段へ吸い込まれる様に姿を消した。

「運動部ねー。暫く、身体、動かしてねえなぁ」

 腕を伸ばせば応える関節が軽い音を立てる。走り去る少年の柔らかな動きなど到底、出来そうも無い身体に小坂部は自然と苦笑した。

「運動部へ行くのか、悠」

 背後を掠める声に一度は進み、二歩目で立ち止まる。現状にそぐわぬ低声が、聴覚に対し反応を鈍らせた。振り返り、四組の戸口に佇む人物へ視線を向ける。

「おや、ソメちん。イツからソコに?」

 放課後には珍しい制服姿の染谷は、眼鏡の橋へ中指を当て傾きを整えた。

「何時からも何も、お前が俺に気付かなかっただけだ。それより、悠。本当に運動部へ入るのか?」

 静謐な響きが余計な行動を竦ませる。銀の縁に光を湛え対峙する染谷の声が、奇妙な懐かしさを伴い浸透した。一枚の壁を隔てた学級の違いが遮断する音は大きく、小学校当時は家族以上に時間を共にした彼とも中学入学以降、会話をする日すら稀な有様だ。染谷のみが唱える悠の発音に、咄嗟、表情を整える自分がいる。

「成り行きで、これから卓球部。ど? ソメちんも御一緒する?」

 人気の乏しい廊下に反響する声は自由に縦横へ伸びた。染谷は問い掛けに一言、卓球部か、と反復し、私室を閉める感覚で教室の戸を静かに引く。扉一枚向こうは四組の領域で、三組に属する小坂部が不用意に踏み込んで良い領域ではない。返答は推して量れと云うことなのだろう。慣れた彼の行動に小坂部も次の一歩を踏み出し、四階を後にした。

 天賦の才が最も現れる競技が短距離だとすれば、染谷は精神力勝負の長距離を得意としている。初めから最後尾を公言し走る自分と違い、顔色一つ変えずに走り行く彼の姿は友であることを疎ましく思わせる程、真摯で冷徹だ。元より人並み以上の運動神経を誇る染谷が卓球部へ入部するとは到底思えず、雰囲気が口を突いたとは云え、安易な誘いを暫し後悔する。遅れ出した歩みを促す速度の打球音は足元から這い寄り、三階先の踊り場を過ぎる頃には耳奥を擦る掠れた囁きが思考の空隙を埋め尽くした。

 眼下に広がるフロア一面を席巻する卓球台は、特別教室棟へと続く廊下までをも占領し、青の波が白球を交差させる。最速を誇る球技、全国を狙う軍団。息を飲む速度に、同じ床へ足を下ろすことも出来ず、小坂部は茫然と永遠に近い連打を眺め続けた。口を挟む余地も無い寡黙な球技に足裏が疼く。一度停止した歩みは曖昧な意思の再開を認めず、打球音を捕らえ続けた耳は背後の足音すら消した。

「ヘイ! どうした、一年! 仮入部なんかい?」

 降り注ぐ上州弁と首に巻かれた腕の攻撃はほぼ同時で、突然の接触に驚く右手は傍らの手摺へ避難する。

「坂本さん……その歓迎方法はちょっと……。また、一年生、驚いて逃げちゃいますよ」

「ム、俺の熱烈歓迎を否定するとは! 贄田、お前……段々、仲岡に似てきてんぞ」

「え、副会長にですか? そ、それはちょっと……嬉しいなあ」

 何だ、この会話。

 緩い話題に小坂部は緊張を解き、首元の腕へ左手を掛けた。外すよりも先に離れた腕の主は一段下がり小坂部の隣へ並び立つと、何度も壇上で見せた人懐こい笑みを全開にする。

「オッケー、美形! 似合ってんね、ピアス! 似合ってるから、校則違反も赦しちゃる。そんかし卓球部、入らんかい? イイコ揃ってんぜ!」

 派手にうねる剛毛を紐で後ろに纏め上げ、口端に尖る八重歯を覗かせる男。

 坂本梅三郎。

 校内一知名度の高い、現茅中学校生徒会会長は自分の行為を悪びれもせず小坂部の顔を下から仰ぎ見、判りやすい仕草で返答を促す。一種の仕様かと思われた口調を壇上以外でも行う辺り、素で他者を意識した見せ方を心得た人物なのだろう。癖のある顔立ちに愛嬌を湛えた表情は、動画よりも感情豊かだ。

「……仮入部しようかと思ったんスけどね、見た限り、ちょっと俺にはレベル高いかなーとか思いまして」

 適当な言い訳を繕い笑顔を向ける。退却姿勢を示す小坂部に、坂本は再び全開笑顔を見せると、弾む口調で語り出した。

「大丈夫! それは杞憂だ、一年生。眼下の世界を見たまえよ。広がる景色に疑問を抱きえないかね? 打球音を奏でる三年、青のジャージ、青の群れ。然し哀しいかな、儚いかな。三年は夏の大会での引退が宿命付けられている。勝ち進んだとしても越冬はできまいて。ともすれば、来る春! 三年引退後を担う次世代! そう、それは赤の時代、赤のジャージ。けれども今、卓球部男子の二年生部員は少ない。涙を誘うほどに少ないのだよ、なあ? 贄田くん!」

「ハイ、三名です」

「嗚呼、三名! 聞いたかね、この現実を! 三名で何が出来ると云うのか!囲碁か、将棋か、否! 卓球! そう、我らは男子卓球部なのだ。個人戦に出られても、団体戦に出られなくては部として存続の意味が無い。一年が入らなければ来年には廃部と同時、栄光の伝統も潰えると云うものじゃないか。汗と、涙と、努力の結晶が人員不足で消えたとあっては諸先輩方に何と申し訳をすれば良いか! 君は、この現状を見過ごせると云うのか? 否! 見過ごすことは出来まいて。 情に棹させ、流されろ! 今なら即座にレギュラーだ! 球拾いも無ければ、素振りも無い。自由で快適な男子卓球部! 顧問に巨乳眼鏡の武市先生も付けて、今が旬だよ卓球部! 君も入ろう卓球部! 明日の栄冠は君に輝け、卓球部! さあ、どうだ! 入部したまえ、小坂部くん!」

「やだ」

「くお! 俺の演説をたった一言で否定するとは良い根性だ、小坂部くん!」

 滔々と語りながら移動した坂本は地団駄を踏みつつ、小坂部の退路を自身で塞いでいる。小坂部が頷くまで徹底抗戦を見せるつもりなのだろう。厄介な男だ。だが同時、川瀬が何故、強豪と呼ばれる卓球部へ勧誘されたのかも納得できた。要するに人員を補える生徒であれば誰でも良いのだ、この男子卓球部の現状は。

「つか、さっきから何で俺の名前、連呼するんスか。まだ、名乗ってませんよね?」

 勿論、氏名を表すものなど何も付けていない。さしもの生徒会長と雖も、新入生の顔と名前を覚えるには日が浅すぎる。不意の問いに対し言い澱むかと思われた坂本は即座に口を開き、言葉訛りの強い発音で明確に答えた。

「ホタに聞いたんさ、っつーより、ホタの話を聞けば直ぐにお前が小坂部って判んぜ。それより、入部どうよ? つか、贄田も誘え!」

 坂本に小突かれ、赤いジャージの二年が弱い笑みを浮かべる。強烈なカリスマの前では彼の凡庸さが浮き彫りにされ、傍目にも役者の違いを感じた。入部云々よりも小坂部が気になるのは、川瀬が語った自分に関して、だ。内容に依っては入部を即断しても良い、そう思い開いた彼の口よりも早く音を紡いだのは、遅れて来た第三者だった。

「誘えば誘われるほど、悠は入部しなくなりますよ? 坂本会長」

 会話を抜ける、一際澄んだ声が三人の視線を集めた。

「うわ……ソメちん」

 緑のジャージに身を包んだ染谷は足早に坂本の下へ歩み寄り、手にしていた半切の用紙を小坂部へ見せ付けるよう弧を描いて渡す。坂本は胸へ突きつけられた藁半紙を反射的に受け取り、しげしげと記載事項へ目を向けた。

「染谷って……ああ、紫ちゃんの弟か!」

「ええ、いつも姉がお世話になっております。階上まで会長の声が聞こえてきましたので、急いで参りました。一年四組染谷遊人、並びに一年三組小坂部悠、卓球部に入部します」

「え! ソメちん!」

「用紙が一人分しか無かったので連名記載しましたが、坂本さんなら、その程度の融通は聞くかと思いまして」

 肯定の笑顔。坂本は用紙を手にみるみる表情を綻ばせ、一気に床へと飛び降り用紙を掲げ叫び上げた。

「喜べ! 目標人数突破したぞ! 外周の一年が戻り次第、歓迎自己紹介だ! 俺は武市先生に報告して来る!」 

 坂本が走り抜けた先から拍手と快哉が沸き起こり、廊下奥からは残り二名の二年生が贄田の下へと走り寄る。応じる贄田の背中を見詰めながら、小坂部は壁へ背を預けた。

「何だ、コレ。馬鹿じゃねえの? たかが部員、二名獲得したくらいで、こんな……」

「悪くはないだろう、悠。結論を決めてから動くお前だ。入部は確定していた、そうだろう?」

 染谷がレンズの奥、切れ長の瞳を細めて微笑う。小坂部は左耳のピアスを指で擦り顔を伏せ、歓声に向けて歩き出した。

 全国大会を目指す余り、苛烈化する練習に耐え切れない新入部員が一斉退部したのは半年前。当時の三年引退と同時だったと、贄田は若白髪の目立つ頭を掻きながら言葉少なに語った。

「新部長に命じられた坂本さんは、当時、生徒会長に就任したばかりでね……公約だ、校則緩和だって凄く忙しかったのに、辞めて行く部員を引き止められなかったのは自分の責任だって、酷く落ち込んで……だから、今年の新入部員獲得に人一倍、気合を入れていたんだ。本当なら部員を引き止めるべきだったのは、同学年の僕たちなのにね……なのに、坂本さんは他の部員には一言も文句を云わず、それどころか顧問の先生に掛け合って練習メニューまで随分、考慮してくれたんだよ。全く、どこまで出来た人なんだろうね。もう、お人好しの域にまで到達してるよね」

 笑うほど深くなる目尻の皺は贄田までも充分なお人好しに仕立て上げ、感動した川瀬と西川が揃って洟を啜り上げた。今も傍らを歩く川瀬は差しぐむ眦を赤くして小坂部の後に付いている。

「武尊さー、『かわいそうなぞう』で泣いたクチだろ」

 分岐のT字路に差し掛かり、小坂部は仕方なし案内役の川瀬を待った。初めて歩く道は罅割れた舗装道路で、狭い道幅にはセンターラインさえも無い。崩れ掛けた路肩を流れる用水路は水も澄み、正門沿いの溝川がどれ程、汚れているのか視覚的に認識させた。

 ……同じ、校門徒歩五分圏内なのにね。

 花の色さえ違って見える野草の名を思い出せず、爪先で擽っては無駄に花弁を散らす。小坂部の行動を川瀬は無言で嗜め、右手で進むべき方向を促した。

「泣くよ、って云うか、泣いたよ。何で教科書にあんな話載せるんだろって思った。なのにさ、毎年毎年、二学期くらいになると戦争の話読まされて、そうゆう決まりなんだって気付いたの、五年の時だもん」

「気付けよ、つか、泣くか? フツー……お前、涙腺故障してんじゃねえの? で? 今度はどっちよ、右? 左?」

「……右。保育園の脇の道、真っ直ぐ」

 何度、川瀬を先に歩かせようとしても、速度の違いが数分後に現れる。歩みを揃えるよりも先で待つ方が楽だと気付いてからは、暇の持て余し方に遊山を選んだ。暮れなずむ園内では一人の少女が保育士の手を握ったまま、じっと園門を見詰めている。いっそ、川瀬の手を引き誘導させようか。思う小坂部の傍らで、追い着いた川瀬が園児を見詰め、呟いた。

「あの子……迎え、まだ来てないんだ」

「知り合いか?」

「ううん。全然、知らない子。でも、オレもここに通ってたから判るんだ。迎えの時間になっても親が来ない子は、皆、お遊戯室に集められんの。オレの家、直ぐソコだから、一人で歩いても帰れるんだけどさ、親が迎えに来るまで絶対に園外には出さない規則になってて……お母さんが来ないまま夜になって行くの、凄く嫌だったな」

 言葉が遅いのは回想しているからなのだろう。再び、歩みが止まる。小坂部は堪らず川瀬の片腕を取ると、力任せに園門から引き剥がした。大人しく曳かれながらも、二、三度川瀬は振り返り、園壁が切れると今度は前だけを向き歩く。自分の手に収まる彼の手は小さく、けれども広い掌が女子とは違うことを小坂部に知らせた。脇を埋める垣根はどれも緑生い茂り、車一台が精々の小道を抜けた先に社が見える。

「あ、あれが雷光神社! その直ぐ右が、オレんち!」

 背後からの解説に応じる石塔には大きく雷光神社と掘り込まれ、脇には公衆電話、低木、畑と見事な田舎風景が続いた。

「なんだ? お前んち、畑か?」

「違うよ! 庭に畑があんの! 楸さんがうちで食べる分の野菜を作ってるんだよ。大根とか、茄子とか。小坂部んちは作らないの?」

 川瀬が手を離し、畑へ向かい駆けて行く。空いた片手を開閉し、小坂部は影を伸ばす彼に問い掛けた。

「作らねえよ。つーか、普通、庭に畑なんて、ねぇって。あと、ヒサギさんって誰? 美人?」

「小坂部って、そうゆうコトばっか!」

 振り返り、笑い、舌を見せる。川瀬の子供染みた仕草一つ一つが夕陽に融けて、小坂部は眩しく目を細めた。追い着いた畑の隣に砂利道が伸び、終点に古い家屋が見える。瓦屋根の二階建て家屋は縁側付きの和風建築で、遠い昔、家は人を育てると云った父の科白を反芻させる良い証拠となった。庭を囲む垣根は良く手入れされた椿で、塀や柵と云う人工物は何処にも無い。

「楸さんは、お祖母ちゃんの名前。昔はお祖母ちゃんって呼んでたんだけど、お祖父ちゃんが死んじゃってから、誰からも名前で呼ばれないのは哀しいってことで楸さんって呼ぶようになったんだ」

「へえ。小坂部家は家族全員、名前で呼び合うぜ」

「それも凄いね。あ、でも畑無いんだよね? じゃ、野菜出来たら、あげるね。楸さんの野菜は美味しいんだよ……って、美人も何も、小坂部。楸さんに会ってるじゃん! 入学式の時! オレと一緒に居た着物の人が楸さんだよ」

 云われて記憶を辿るが和装の印象が強く、顔まで明確には思い出すことが出来ない。だが、畑仕事をするお婆ちゃんと云う容姿からは掛け離れていた。農作業で云うならば、余程、自分の祖母が似合いそうだと思い苦笑する。川瀬は彼の笑う意味が理解できず首を傾げ、胸元まで伸びた垣根へ腕を乗せた。

「……正直、お前が本当に入部してくれるって思っても無かった。入部届け出した時、凄い盛り上がり方だったんだろ? 贄田さんが云ってた。小坂部って、いつも勝手に決めるね。それで、理由を云わないんだ」

 垣根に敷いた腕が重みで僅かに沈む。小坂部の腹までしかない椿は腕を置くには低く、代わり川瀬の頭へ手を乗せた。丸い天頂は夕陽を一同に集め、一日の温もりを小坂部の掌へも伝える。

「だから、なんだよ」

 勝手すぎると誹謗されるのだろうか。

 不安に浸る手を眺め、川瀬は視線を上下させると小坂部の視線を掬い取り、小さな声で一言告げた。

「恰好良いって思っちゃうんだ」

 橙が彩る頬に産毛が見える。小坂部は思い切り川瀬の髪を掻き乱し、指に黒を絡ませた。

「惚れるなよ?」

「惚れないよ! なんで、だから、小坂部はいつもそうゆうコトばっかりなんだよ。もう、調子狂うなあ! 今度から、あんま、そうゆうコトは云わない! んで、ココがオレんち。自転車置き場は、明日、教えるから。いい? 解った?」

 丸で母親の口調だ。思えども口にはしない。

「オッケー。じゃ、また明日、な」

「うん。また、明日、ね」

 手を振り別れる。背を向け進み、やがて社前で振り返ると、川瀬は未だ小さな手を振り続けていた。



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