1階
様々な恋愛パターンが登場します。
同性愛表現が苦手な方は予めご遠慮下さいませ。
十字路を右へ曲がると桜が見える。路肩の崩れた舗装道路は所々罅が入り、割れ目から雑草が逞しく緑を鈍色へ馳せた。菜の花、車前草、紋白蝶。春の色彩は睡魔を揺り起こす。加えて、春風柔らかな晴天だ。痒い目蓋を擦り、自然と漏れる欠伸を覆いもせず流すと、前方を行く黒い学ランへ眼を向けた。
「小坂部!早く!もう、始業式始まってるぞ!」
橙色のデイパックが振り返る背の上、勢い良く跳ねる。上履きと筆記用具のみの鞄は歪な膨らみを見せ、騒ぐ身軽さに落ち着きが無い。
「どーせ遅刻に変わりねえんだからさー、もっとゆっくり行こうぜ、武尊」
歩調よりも更に緩慢な口調で応え、小坂部はワンショルダーのデイパックを肩へ掛け直した。一応、学校指定の鞄はあるものの、殆どの私物において自由が認められている校則では寧ろ指定鞄を使用する生徒の方が珍しい。十数年、意匠の変わらぬ指定鞄は通学鞄、スポーツバッグ共に大きく校章が前面に印刷され、形、色、機能、全ての面において他の既製品より著しく劣っていた。勿論、小坂部も例外なく通学には私物の鞄を選び、取分け授業の無い日には普段使用できない気に入りの意匠を肩へ掛ける。対して校門前で佇む少年は拘り無く、常に同じ鞄を両肩に背負っていた。初めは鮮やかに見えた蜜柑色も、今はくすんだ橙色に変化している。
「なに云ってんだよ!急げよ!ああ、もう!普通、始業日に遅刻するかなあ!」
「だったら俺なんか待ってねえで、先行きゃ良かったんだ」
「一緒に行くって約束したろ?約束は守るもんだ」
否。約束は破るもんだぜ、武尊。
小坂部は内心で即答するが、声には出さず口角を上げた。気分へ任せた取り決めに効力など無い。信頼と許容の限界が鬩ぎあう葛藤の末、自分の存在価値が量られると云うだけの事だ。確実に間に合う時間に起床していながら、彼が敢えて自分と行動を共にする事で遅刻を選んだと云うことは校則遵守以上の好感を得ていることになる。
愛されてんね、俺。
小坂部は独りごつ呟くと、両手をポケットに入れたまま小走りに校門へ急いだ。二人同時に足を踏み入れ、傍らの体育館から流れる校長の語りに笑いあう。有難い説教を聴く位なら、遅刻の方が良い。少なくとも去年までの担任なら説教短く、「仕方ないわね」の一言で全てを済ませただろう。結果、小坂部の様な生徒が増長したとて、微々たるものに過ぎない。だが、今年の担任は誰だろうか。教師如何によっては校長以上の説教が下される場合もあるだろう。できれば適度に冷めた教師が良い。自らを「先生」と呼称する人間だけは却下だ。小坂部は願い、クラス分け掲示板へ目を向けた。
臨時に設けられたクラス分け掲示板は北にある裏門から南の正門へかけて構内を横断する通路に置かれ、正門を使用する生徒が圧倒的に多い所為か、南から一組、二組の順に掲示されている。裏門から登校した小坂部たちは必然的に学年最後の二年七組から遡る形で掲示を眺める事となった。
ここ、茅市立茅中学校では卒業までに二度、クラス替えが行われる。一度目は入学直後、二度目は二年の四月だ。受験に集中できるよう、また、更なる団結を!と云うのが以降クラス替えを行わない理由らしいが、果たして本当に功を奏しているのか甚だ疑問である。
『まあね、二年間も一緒ってのが予め分かってれば、大抵は仲良くしようと努めるものよ。卒業まで苛めがありました、なんて最悪じゃない』
とは、既に卒業した姉の言だが、それが所謂ところの「団結」なのだろう。余程の事情が無い限り二年から三年へ移行する際、クラスは担任も含め持ち上がりが茅中の基本体制であり、よって二年始業の本日、卒業までの最終審判が下されることになっていた。無人の掲示板前では少年が一人、先行して得た情報を声に出し述べている。
「七組なし!六組なし!五組も……名前なし!」
走る度に揺れる髪が垂れた犬耳に似て、小坂部は一人、飼い主の心境に陥る。残るクラスは四クラス。確率も四分の一だ。同じクラスになれるだろうか。もし、離れたとしたなら……小坂部は思考を中断し、髪を掻き揚げた。掲示板には目もくれず、ただ、少年だけを見詰め一歩踏み出し、近付く影を隣り寄せる。
「……あった!小坂部悠、川瀬武尊!」
一際大きく髪を揺らせ川瀬は小坂部を手招くと、一点を指差し微笑んだ。
「何組よ」
「一組。これで三年間一緒だな。改めて、宜しく!」
光を受ける制服に薄紅の花弁が舞う。日溜りの中、小坂部は差し出された手を引き寄せると、小柄な身体を抱き締めた。日向の匂いがする制服は太陽が沁みて温かい。川瀬の肩越しに見える桜は一年前と変わらず、満開の芳香を漂わせている。校舎非常階段脇に一本だけある桜は古木とは云え見事なもので、春の役目を十分過ぎる程に担っていた。
四月の彩りと云えば真っ先に花が上げられる日本において、小坂部の中学入学を祝したのは古びた一本の桜だけだった。小学校入学時には色取り取りの花が春を謳歌していたのに対し、中学へと成長した暁が古木一本では何とも味気ない。けれども黒尽くめの群れにささやかな紅を散らす桜は華やかさにこそ欠けども、存在だけは根強い印象を醸し出していた。自分のクラスが気になるものの、人込みに溢れる掲示板前を倦厭した小坂部は独り、外れた桜の脇に佇む。付き添いの母親は既に友人の母と立ち話を始めており、体よく放置された自分は他にすべきこともない。群れの中、見知った顔を見つけるが、小学校卒業以来、一度も言葉を交わさぬ春季休業中に増した疎外感は小坂部の口を重くさせ、いっそ話し掛けられる迄は無視を決め込もうと下げた視程に影が差した。
「悠、こんなところにいたのか」
「やあ、ソメち……ん?」
慣れた声に友人を想定するものの、視界に映る人物は脳裏に描いた友人と外装が異なり、一瞬の躊躇いが語尾上がりの口調に表れた。見上げた視線の先、眩く光る銀のフレームが目に痛い。
「染谷さん、あなた眼鏡属性でしたっけ?」
「今月から掛け始めた。コンタクトは性に合わない」
染谷は短く答えると、一度眼鏡を取り外した。見慣れた素顔に小坂部は嘆息する。
「そっちのが俺好み。で、ソメちん何組?」
問い掛けに染谷は眼鏡を戻し、一度掲示板へ振り返ると、再び小坂部に向き直った。
「……見てないのか?」
「あんな人込み、俺、痴漢に遭っちゃう!」
「……要するに、見てないんだな」
休止符を挟む会話に調子を崩され、小坂部は仕方なし素直に頷いた。日差しを背に負う染谷は逆光のなか薄く笑み、眼鏡を中指で押し上げ一言、四組と告げた。
「俺は四組。お前は三組だよ、悠。」
「えー!ソメちんと一緒じゃないの?残念……で、他、三組って誰がいた?」
「さあな。気になるなら自分で見てきたらどうだ。三組前は人も少ない」
云われ首を伸ばすと、確かに前半クラスは人が少ない。それどころか知らない顔ばかりが掲示板に群がっていた。市内中央に位置する茅中学校には近接する茅小学校以外にも二校、市内西に位置する茅西小学校と北に構える大豊小学校の計三校からなる生徒が通学する。とは言え、生徒の半数以上を占めるのは茅小学校出身生徒で、他二校の出身者は非常に少ない。中でも大豊小学校は学年全員が茅中学校へ進学するにも関わらず、在住学区で二校の中学校へ振り分けられた茅西小学校の生徒よりも少ない有様だった。
小坂部は軽く舌打ちをすると、染谷に促されるまま掲示板へと足を向ける。元茅小出身者で盛り上がる五組掲示板前を過ぎ、人影まばらな三組掲示板前では一人の少年が熱心に掲示板を眺めていた。小坂部よりも頭一つ分小さい少年は背伸びがちに前のめり、指先を覆うほど大きな制服に身を包んでいる。後ろでは彼の付き添いか、珍しい和服の老婦人が日傘を片手に舞う花弁を眺めていた。風に乗る花弁は離れた掲示板前へも流れ、辿り着いた灰色の地面に身を沈め散る。新たに舞う一片は小坂部の眼前を過ぎ、小柄な少年の肩を叩くと儚く短い旅を終えた。
「なに?」
単なる偶然か、それとも囁かれたのか。少年は花に応える様に振り返り、佇む小坂部に気付くと無邪気な笑顔を見せた。動きに合わせて黒髪が揺れる。
「オレ、ほたか。川瀬武尊。お前は?」
「小坂部……悠」
自分を捕らえる大きな瞳に小坂部は小さく息を呑んだ。思わず掠れた自分の声に驚く。川瀬は再び掲示板に向き直り、オサカベ、と覚えたばかりの名を口に乗せ、並ぶ氏名の中から小坂部の文字を見つけだした。
「小坂部悠、オレの前だ。今日から宜しく」
日溜りから真っ直ぐに差し出された手は温かく、小坂部は初めて自分の手の冷たさを知った。桜舞い散る、四月入学式。全てはそこから始まった。
教室へ着くまでの間、川瀬は休む間も無く話していた。
入学式開式時刻まで体育館待機の父兄に対し、生徒は各自教室での待機が命じられ、掲示板前で知り合いの顔を見つけた者は共に歩んで行く。差し出された手に思わず握手を交わしたものの、教室へは一人で行こうと決めていた小坂部に、川瀬の同行は全くの予定外だった。特に断る理由は無いが、一足ごとに進む会話にうんざりする。一クラス三十六名だって、多いよな、階段の隅にホコリ溜まってるよ、壁にも落書きがある、校舎古いんだね、六年生でも四階だったのに中学でも四階なんだ、最上階ってドキドキするよな……云々。階を上がるごとに息も上がる自分とは逆に、川瀬の会話は益々勢いを増した。始めは適当に相槌を打っていた小坂部だが、独り言めいた口調に返答すら不要に思える。時折、擦違う友人と軽く言葉を交わし、一年使用階である四階に到達する頃には体力以上に精神力を浪費していた。
「見ろよ!一組の教室あんなに向こうだぜ!うっわ、こんなに長い廊下、初めてだ!」
はしゃぐ子供の声が廊下を突き抜ける。聞いた近くの女子が笑みを零し、口元を両手で覆った。途端に羞恥が背を這い上がり、脳天に到達する。笑われた。馬鹿にされた。同類だと思われたに違いない、この隣に居る少年と。
「うるせえ、黙れ」
小坂部は静かに呟き、舌打ちする。降り落ちる言葉に川瀬は顔を上げると大きな目を瞬かせ、笑い俯き小声でゴメンと謝った。
「オレ、凄く中学楽しみにしてたから……嬉しくて……はしゃぎすぎだよな。ごめん……ホント、ごめん」
中学など小学校の延長線にしか過ぎないと思う、自分と真逆の感想が胸を突く。川瀬は単に素直な気持ちを言葉に乗せただけだ。だのに咄嗟、保身に急ぐ自分の子供染みた行動に虫唾が走る。三組の教室は中央階段から近い距離にあり、四組前を過ぎる間、川瀬は項垂れたまま一言も口を開かず小坂部の後に続いた。
半端に開いた引き戸の奥、一年三組では見慣れた茅小学校出身者が小規模な群れを成す以外、他の者は予め黒板に示された席順に腰を下ろし静かに待機している。肌に染み込む緊張が小坂部に初めて中学を意識させ、知らぬ顔が胸を騒がせた。
「遅ぇじゃん、小坂部。また、寝坊?」
前席の少年が振り返る。
「まあ、そんなトコ。宇波は?一番ノリとかしちゃったクチ?」
引くと僅かに軋む椅子は余程、歪んでいるのか、腰を下ろすと右前足が数センチ浮いた。廊下側、五列目。授業中、内職を楽しむには申し分無い席だ。狭い机間に身を埋め、壁に背を預ける姿勢を取り、小坂部は改めて室内を一望する。
半分以上が茅小学校出身者だが、十名ほど初めて見る名前の者がいた。比率は不明だが恐らく、茅西小または大豊小出身者だろう。
「俺も大概、早く来すぎたかなぁとか思ったけど、久米には敵わねぇよ。誰も居ない教室に一人、ボーッと座る久米見た時、ちょっと寺の坊主がデジャヴったもん」
指し示す宇波の爪先に、六年間馴染んだ久米の坊主頭が見えた。幼少時より剣道を嗜む久米は、蒸れないと云う理由だけで小学在学期間の全てを坊主で過ごした男である。端正な顔立ちにも関わらず女子からの人気が低いのは、醸し出す威圧以上に髪型が大きな原因であることは本人以外、周知の事実であった。現に今も近隣の同校出身者と会話もせず、姿勢を正したまま前を見据えている。
「で、お前と一緒に来たソイツ、誰?ドコ小?」
宇波が顎を杓り、小坂部の後方へ視線を送った。宇波との会話に忘れていた存在を思い出し、小坂部は川瀬に上体を向ける。
「お前、ドコ小出身?」
問い掛けに川瀬はあからさまな笑顔を見せると、一言、喋っていいの、と尋ねた。小坂部の中では疾うに時効を迎えていた命令だけに、言葉の意味を理解し頷くまで数秒の時間を要す。解除の合図に川瀬は大きく頷き、元気良く答えた。
「大豊!小坂部は?」
問われた小坂部以上に宇波が派手な笑い声を上げる。
「大豊かよ!流石、小坂部。キチョーな人種とオトモダチしてんじゃん」
腹を抱え蹲る宇波へ、冷ややかな視線が向けられた。僅かではあるが、視線の主は大豊小出身者だろう。当の川瀬は驚いた顔付きで、小坂部と宇波を交互に見返していた。
「あれ……オレ、また変なコト、云っちゃった?」
「別に」
収まらない笑いを腹へ埋め込もうとする宇波を横目に、小坂部は長い足を組み替え川瀬の机上に肘を突いた。大豊小出身ならば、全ての行動に合点が行く。一学年五十名が精々の小学校、それが大豊小だ。歴史と伝統は茅小同等、寧ろ以上の物を誇りながら農村と云う立地条件の悪さ故、年々生徒数を減少させている市内一小規模の小学校である。茅市の中心産業が農業と窯業で栄えていた時代には茅小以上の生徒数を擁したと話には聞くが、最早伝説に近い。市内中央、商店街を学区に持つ茅小学校に置いて、隣接学区とは言え広大な学区の八割を田畑で埋める大豊小学校は、田舎と蔑むには格好の標的で、以前より大豊にはコンビニが無い、信号が無い、外灯すら無いなどと揶揄されていた。三組以上の学級に属したことの無い川瀬にとって、延々と続く廊下はさぞ壮観であっただろう。彼の昂奮を思い出し、小坂部は口元に沸く笑みを片手で隠した。
「ところで……オレは大豊だけど、小坂部はドコ小出身なん?茅小?茅西小?」
川瀬が身を乗り出し、好奇心を乗せた瞳で問い掛ける。小坂部は未だ頬に残る笑みを悟られないよう表情を作り、茅小とだけ答えた。
「そっか……じゃ、大丈夫だな」
返答に川瀬は姿勢を正し、両手を大腿の上に乗せる。甲を見詰める傾きに合わせ、跳ねた髪が前に揺れた。
「大丈夫って……何が」
気になる一言を無意識に問い、小坂部は視界の端に見える自分の髪を一房抓む。先月染めた髪は、先まで鮮やかな茶に色付いていた。頭髪に関し全ての自由が認められている茅中学校に於いて、茶髪は珍しい髪色ではない。けれども、入学式の段階にて髪に色を着ける生徒は少なかった。思えば、純情素朴に服を着せた様な少年が、よくも怯まず自分へ声を掛けたものだと小坂部は思う。突いた肘に頬を乗せ川瀬に視線を送ると、気付いた彼から無邪気な笑みと素直な返答が寄せられた。
「オレ、小坂部って友達いないのかと思ってた。だって……お前、掲示板前で泣きそうな顔してたじゃねえか」
小坂部は思わず、絶句した。 川瀬の言葉が理解出来ない。意味は分かれども、何故、自分に向けられ発せられたのか。友達がいない、泣きそうな顔。付き纏われ、恥を掻き、挙句の果てが同情だ。怒りに熱を帯びる項を冷ますよう浅く息を吸う小坂部の隣で、静かな笑いが耳を突いた。見ると隣席の女子生徒が俯く額を双手で支え、小刻みに身体を震わせている。
「ごめん……聞くつもり無かったけど……聞こえて。川瀬だっけ?あんた、凄いこと云うね。小坂部クン、固まってんじゃん」
一重の瞳が自分を捉える。制服が無ければ男女の判別が付かぬほど短く刈り詰めた髪を揺らせ、彼女は徐に姿勢を正し向き合った。
「お前、誰?」
存分に敵意を含んだ低い声で宇波が尋ねる。けれども彼女は臆する事無く口角を上げ、木村、と明瞭な発音で答えた。
「茅小って同校意識、高いんだね。私、茅西だからそう云うの良く分かんないけど、強ち他校も捨てたもんじゃないよ。若しかしたら、三校以外からの転入生だって居るかも知れないしね。で、川瀬、大豊ってコンビニ無いってホント?」
聞く者を無視した早口で木村は主張し終えると、小坂部を視界から外し川瀬へ向け身体を捻る。突然の問い掛けにも関わらず、川瀬は幼い笑顔を見せ、弾む口調に言葉を乗せた。
「あるよ!ファミマが!」
「ファミマがって……一店しかないの?あんな広いのに?ちょっと、久保田サン、それマジで?」
「え!あ、あたし、茅小だから知らない。けど……本当なの?川瀬くん」
何時の間にか川瀬の隣席である久保田まで巻き込み会話は進行している。通る木村の声、興味をそそる話題。自ずと会話が耳へ入る近隣の生徒が、歓談に参加するのも時の流れの内だろう。
「気に喰わねぇ」
宇波が唸る声で一言呟いた。
一隅の閑話が周囲を招き、広がる声に教室が呼応する。好奇心の弾けた室内を統制する教師の声も無いまま許された無法地帯に、生徒は他者以上の自己主張を口々に述べ始めた。気付けば、久米さえも前席の男子と楽しそうに言葉を交わしている。出遅れた。掲示板前と同じ疎外感が自分の周囲に漂い始める。耳へと流れる会話が雑音に変わり、完全に小坂部を孤立させた。暇を持て余す宇波を見ても、唇を開く気にはなれない。席を立つか、俯せるか。二者択一の選択を逡巡している間に追い抜いた時刻が、漸く入館の放送を伴い小坂部を解放した。
名簿順に並び向かった体育館は広く、館内、至る所全てを紅白の装飾が彩っている。学級ごと一列に並べられたパイプ椅子の片側には、既に入館を済ませた保護者が澄まし顔で着席していた。和服が目を惹く老婦人の前、見慣れた母親の黒髪に小坂部は緩く息を吐き、狭い座席へ身を畳むよう腰を下ろす。姿勢を正し向いた前方では、達筆な式次第と来賓が充分に式典の雰囲気を醸し出していた。
開式の言葉、学校長挨拶、来賓祝辞、生徒会長挨拶……厳かに執り行われる式目全てが睡魔を呼び起こす。新入生代表挨拶すらも寝て過ごそうと考えていた小坂部の双眼を瞬時に刮目させたのは、初めて聞く名と、応じる少年の声だった。
「新入生代表、一年一組、田辺栄二」
眼鏡を掛けた線の細い少年が一人、一礼して壇上へ昇る。
「あら、遊人君じゃ無かったのね」
傍らの母親が自分の気持ちを代弁する一言を漏らした。染谷ではない。一様の動揺が茅小出身者間を駆け巡る。入学前テストを参考に選別される新入生代表挨拶は、茅小首位の成績を誇る染谷遊人が任命されると誰もが信じて疑っていなかったのだ。染谷の首位陥落は、同時に茅小の首位陥落にも通ずる。
「あ、やっぱり田辺なんだ」
茫然とする小坂部の背後で、川瀬の声が長閑に響いた。
……強ち他校も捨てたもんじゃないよ。
木村の言葉が実感を伴い身に沁みる。田辺栄二と大豊小の名声は瞬く間に学年中へ広まった。満足な学習塾の一つも無い、農村に住む彼らの学力水準が低いと云うことが単なる蔑視に因る噂に過ぎないことは、田辺の首位が証明したばかりでなく、授業開始後の彼らの実力にて裏付けされた。一学年五十名にも満たない彼らの小学校生活は、返せば少数精鋭と云うもので、全員が一定水準以上の能力知識を身に付けていたのである。
一方、入学早々の運動能力測定で目覚しい記録を打ち立てたのは、専ら茅西小出身の生徒だった。
「友永!友永って、あの茅西ナイツの友永振一郎だろ?うっわ、茅南中に行くかと思ってたのに、茅中かよ!スゲ、嬉しい!なあ、俺!俺、覚えてる?」
「覚えてるよ。茅小ガッツのセンター、江添だろ?相変わらず、強肩だな」
「くお〜!ちょ、聞いたかよ、歩!あの天才投手、友永振一郎様が俺のコトを覚えておいて下すったんだぜ!感激過ぎて涙ちょちょぎれもんだぜ、イヤッハー!」
「お……落ち着けよ、エゾケン。お前、日本語、変だよっつーか、人間的に変だよ!」
非難にもめげず江添は友永の両手を取り、一方的な握手を繰り返している。先程、遠投記録を打ち立てた友永以上に、順番待ちの江添が昂奮を示していると言うのは、ある種、異様な光景だ。個人記録票を携え、個々に種目別能力測定を行う形式の記録会は学年ごとに設けられ、学級順序関係なく空いている種目から各自測定する。
「なあ、何?アレ」
宇波が朝礼台へ腰掛けながら、遠投競技方向へ視線をくべた。
「さあ?高柳とエゾケンが囲ってるってコトは、ウチのクラスに野球の有名人でも居たんじゃねーの?」
小坂部も朝礼台へ身を預け、宇波と同じ方向へ目を向ける。一周三百メートルのトラックを取っても未だ余りある広大な校庭は市内中学でも有数の面積を誇り、周囲を緑の金網柵と御座なりな防風林が取り巻いていた。今でこそ住宅街に構える茅中学校だが、創立当時は周囲に田畑を臨んだ名残が窺える。茅小と大豊小の学区境に校舎を構え、茅小側となる正門前には浅い溝川が東西に流れ、大豊小側となる裏門前にはビニールハウスと田畑が尚も豊かに作物を実らせていた。
全員、指定の体操着を纏う中、学級を判別するものは頭部を彩る鉢巻のみで、茅中では毎体育時、定められた学級色の鉢巻を身に付けることが義務付けられている。一組から順に赤、黄緑、桃、水、青、紫、橙、計七色の学級色はどれも派手な色相を帯び、決して混ざらぬ個々の強さが各学級を象徴していた。鉢巻配布当初、男子にピンクはねえだろう、と息巻いていた宇波だが、彼の額を見るに付け、存外似合うと小坂部は密かに思う。同時、身に付けさえすれば如何なる着用方法も許されると云うのに、律儀にも額へ巻いた彼の実直さを微笑ましくも感じた。半袖にはやや肌寒い風が吹き抜ける度、校庭では七色が一様に棚引く。紙雷管、笛の音、沸き起こる歓声。既に要領良く全種目測定を終らせた宇波と小坂部には、授業終了までの数十分が只管無意味なものに感じられた。
「あー、クソ、眠い。さっさと戻って眠りてぇ」
欠伸混じりの宇波に釣られ、小坂部も開く口へ手を当てる。程良く温められた朝礼台が触れる部分に熱をくべ、体内に蓄積する疲労が表皮へ滲み出た。
「でも、ウナミン体育委員っしょ?個票集めて、大河原センセに提出しなきゃ。俺は、お前に預けさえすりゃ、今直ぐにでも教室で寝れるけどな」
「冷てーなぁ。付き合えよ、小坂部。授業終了まで、ココで一緒に女子品定めしましょーよぉ」
妙な科が笑いを誘う。小坂部は頷き、手に持つ個人記録票を朝礼台へ投げ置いた。二つ折りの票が開き、大して意味の無い数字が視程で踊る。
「そぉねー、女の子ちゃんチェックも素敵よねぇ……って、宇波的にどうよ?結構、ビミョーじゃね?」
「いや、俺的に有馬はアリだと思うね!シャレで無く!」
退屈さに台上、胡坐まで掻いた姿勢で、宇波は校庭を疾走する少女へ食指を向けた。長い黒髪を風に乗せ大地を滑る様に走り行く彼女は、爪先までも涼やかに友人の待つ終着点へと駆け抜ける。膝頭に手を充て、傾ける上体を覆う黒髪が具に光を弾いた。
「タカコさんね……確かに、アレは美人。茅西だっけ?何気にレベル、高ぇよな」
「気ぃ強そーな美人っての?茅には無ぇタイプじゃん。ま、西だの豊だの云ったところで、一番人数多いの茅だけどな。茅なら、俺、安達推すね!不思議ちゃん、可愛いじゃん」
宇波の視線の先で有馬が笑う。有馬に合わせ、安達も笑う。桃色の鉢巻を手首に飾り、揃いの腕輪宛ら遠く歩む彼女らを小坂部は眩しく見詰めた。記録を計り終えたのか、安達はストップウォッチを手に辺りを見回し、やがて近付いて来た桃色鉢巻の少年へ時計を手渡す。
「誰だ、アレ?伊鈴か?」
「じゃね?髪、赤いし」
前屈み尋ねる宇波に、小坂部はぞんざいな返答を述べた。教室にて宇波の前へ座る伊鈴の顔は正直、余り記憶に無い。授業中、彼の後頭部ばかりが視程に映る小坂部にとって、伊鈴の印象と言えば極端に色素の薄い髪色だった。陽に透けると茶よりも寧ろ赤に近い。同校の誼か、川瀬とは休み時間ごとに言葉を交わすが、小坂部とは入学以来、唯の一度も会話をしてはいなかった。
伊鈴はストップウォッチを片手に構え、空いた腕を大きく掲げると何事か叫び指示を送る。彼の立ち位置直線上、五十メートル走開始地点では合図と同時、紙雷管の音が空を裂いた。
「遅っ!すげぇ鈍足!」
思わず上がる宇波の驚嘆が小坂部の意識を引き寄せる。見ると、掠れた白線間を懸命に走る一人の姿が見えた。
「川瀬……」
傍目にも遅鈍に映る川瀬は頬を紅潮させ、一散に終着地点を目指している。気を緩めた表情なら未だしも、必死を描いた形相が一層の憐れみを誘った。
「オイオイ、十秒とか行くんじゃね?」
弾む声で述べ、宇波は手近に並ぶ二枚の個人記録票を手に取ると、川瀬に当て付ける速度で伊鈴の許へと駆け寄った。仕方なし、小坂部も小走りに宇波の後へ続く。辿り着いた先では、走り終えた川瀬が荒い息を整えもせず、鉛筆を片手持ち、一心に記録票へ記入していた。取り付けられた銀のキャップが光を反射し、鮮やかな頬を照らす。
「九秒八!マジ、遅え!」
「おい、宇波!返せよ!」
ストップウォッチを奪い、はしゃぐ宇波に伊鈴が珍しく声を荒げる。小坂部は川瀬の傍らへ立つと、率直な感想を一言告げた。
「九秒ってマジ、ありえねえ」
「そ?オレ、今まで十秒台だったから、すげぇ嬉しいんだけど!」
両手で閉じられた記録票が風を起こし、川瀬の前髪を持ち上げる。汗の滲む鉢巻を額に乗せ、向けられた満開の笑顔に小坂部は例え様の無い苛立ちを覚えた。
「恥だろ、そのタイム」
「遅いけど、これがオレのタイムだし」
川瀬は先の潰れた鉛筆にキャップを被せ、古びた布製ペンケースへ丁寧に仕舞い込む。ペンケースの中には同じく緑の鉛筆が数本、銀のキャップを先端に飾り収められていた。中学入学と共に筆箱の中身をシャープペンへ改める者が圧倒的多数を占める中、鉛筆を愛用する者は極めて少ない。
「へぇ……やっぱウザイわ、お前」
唐突に会話を終了し、小坂部は顔を背け離れた位置に居る宇波を呼んだ。逆らう風が髪を舞い上げ、声を奪い去る。気付いた宇波は、未だ取り返せずに居る伊鈴へストップウォッチを投げ渡し、小坂部の許へ走り寄ると手にした記録票を川瀬へ向け差し出した。
「どうしたの?」
「悪い、川瀬。俺、ちょーっと用事できてさ、代わりに記録票集めて大河原に提出してくんね?」
更に突き出された記録票は川瀬の胸に当たり、反射的に受け取る彼へ宇波は懇願の合掌を示す。
「いいよ、分かった。オレが集めておくね」
二つ返事で了承する川瀬に宇波は最上の笑みと簡素な礼を述べ、小坂部の腕を引くと即座に校庭を後にした。追随する伊鈴の声を掻き消し、宇波が叫ぶ。
「チョロいね!だから俺、大豊のヤツって大好き!田舎者万歳!」
以降、宇波は事あるごとに川瀬を呼び、依頼と云う名の雑用を押し付けた。借り物返却、給食食器の後片付け、職員室への代理提出等、些細だが手間の掛かる所用は全て川瀬に回し、彼もまた一つとして断る事なく笑顔で承る。罪悪感を受けるどころか日毎に増長する宇波を傍らで眺めつつ、小坂部は一切を黙して見送った。時折、見兼ねた伊鈴が手伝うこともあれど、川瀬が文句を云うことは決して無い。
「小坂部も作れよ、雑用係。便利だぜ?」
得意気に語り、宇波は薄暗い廊下を奇妙な足取りで踊り進んだ。蛇行に回転を織り交ぜ、気侭に後ろ向き歩く。
「あー……俺はパス。一々頼むの、面倒じゃね?」
「そっかあ?自分が動く方がメンドーだと思うけどな。あー、臭っ!注射の臭い、俺、嫌い!」
数歩先を行く宇波が大袈裟に鼻を押さえ、片手で辺りの薬品臭を散らす。先日の運動能力測定を始め、校舎見学、身体測定、部活動紹介、生徒会オリエンテーションと続いた数々の新入生行事最後を締め括るものが、本日五時限目を自習に変え行われた予防接種だった。狭い保健室に学年全員が入れるはずも無く、前学級終了の連絡を受けてから学級単位で移動する。通常教室等から一番離れた場所にある保健室は特別教室棟一階最西端に位置し、陽光が一切差し込まぬ廊下は日中と云えども冷えた空気を漂わせた。隣接する理科室も暗く、無人である事を示している。
「ではぁ、男子から順にぃ、出席番号順で並んで下さぁい!」
間延びした安達の声が続く廊下へ響き渡る。些か緊張感に欠けるものの、単に名簿順一番と云う理由で学級委員に選定された割に、彼女は恙無く任務をこなしていた。重い足取りで指示に従い、各々所定の位置へ付く。
「なあ……川瀬、大丈夫か?無理なら最後にするとか、別の日に変えることだって出来るぞ?」
二人遅れて来た伊鈴は川瀬の傍を離れず、頻りと気遣い様子を窺った。
「ん……多分、大丈夫だと思う」
囁き程度の声で答えた川瀬が伊鈴から離れ、小坂部の後ろへ並ぶ。壁に身を預け、大きく息を吐き、ジャージの裾を握る手を固く沈黙した。横へ撥ねる髪が彼の表情を隠し、俯きが背を丸くする。通常とは違う反応が俄かに小坂部の気を惹いた。
「小坂部、ちょっといいか?」
視線に気付いた伊鈴が神妙な面持ちで小坂部へ顔を寄せる。
「何?」
「川瀬を頼む。あいつ、注射が苦手で……なるべく、容器が見えないようにして欲しいんだ」
就学前児童なら解る話だが、川瀬は中学一年生だ。笑えない状況を前に思い切り罵倒しようと小坂部は思うが、伊鈴の余談を憚る低声に軽口を控え無言で頷いた。頼む、と再び念を押し前列に加わる伊鈴の後ろで、宇波が一言憮然と述べる。
「ダセぇー」
川瀬の耳にも届く音量で在りながら、彼は俯いたまま裾を握る指先を赤くした。二組最後の女子が退室し、列が前へと動く。宇波に続き一歩を踏み出した処で、後ろから久米に呼び止められた。
「小坂部」
振り向くと、自分の背後に続くはずの川瀬が壁に身体を貼り付け硬直している。眉を寄せる久米の手前、小坂部は軽く舌打ち後退した。頼むと二度述べた伊鈴の言葉を反芻し、仕方なく川瀬の腕を掴み前へ引き寄せる。
「後が支えるだろ。迷惑掛けんなよ」
よろけ前のめりになる川瀬は小坂部の胸に顔を埋め、震える手を小坂部の胸元へ当てた。補助の一歩を踏み出す久米を片手で制し、川瀬を胸に支え抱く。
「怖くて……ごめん。ホント、小坂部、ごめん」
細切れの言葉を小さく繰り返し、身を寄せる川瀬の額には僅かに汗が滲んでいた。注射を恐怖に思う記憶なら、遥か幼少期、既に風化仕掛けた思い出の中に潜む。回想し当時を辿れども、胸で震える川瀬に重なる部位は一欠片も無かった。順番が迫るに釣れ川瀬は足を竦ませ、小坂部は抱える腕に力を込める。去り行く級友の奇異な眼差しが、消毒液以上の印象を小坂部に与えた。
「そんなで注射、受けられんのか?」
「受けることは出来る……と、思う。ただ、ちょっと怖くて……」
浅く息を吐き、くぐもる声で答える。一歩進むごとに上衣の皺を増やす川瀬の拳は頑なに小坂部を掴み、注射時のみ無表情な看護士の手により片腕を外された。離れた隙間へ新たな空気が流れ、緊張を共にした小坂部の精神を解きほぐす。予め知らせを受けていたのか二人一緒の状態に保健医は然程、驚いた風でも無く、至極事務的に促し、医師は川瀬の腕へ針を入れた。
粟粒する肌、強張る身体。
苦痛に眉を歪め、きつく閉じた眦には涙が浮かぶ。見ている此方にまで伝播する感情を晒し、川瀬は息を詰めた。針が抜かれると同時、力を失う身体は小坂部に全権を委ね、回転椅子から立ち上がることで全ての気力を放出する。頽れた川瀬の身体を片腕で支え、休むか、と耳元で尋ねると、薄く開いた瞳が静かに拒絶の色を見せた。
「保健室は駄目……注射が……」
吐息に言葉を混ぜ、川瀬は呟き小坂部の胸へ再び顔を埋める。差し出された保健医の手を苦笑で交わし、小坂部は半ば引き摺る様に川瀬を室外へ出すと、直ぐ様、隣室の引き戸を開けた。
「川瀬、どうした?」
廊下で待機中の木村が女子列から声を掛ける。
「ワケ有り。様子見て教室戻っから、センセには適当に頼む」
「分かった」
短い木村の返答を背面で受け止め、後ろ手に戸を閉める。雑音と薬品臭が寸時に遮断され、理科室独特の空気が二人を包んだ。川瀬を胸に抱いたまま、戸に背凭れ腰を下ろす。開いた両膝の間へ彼を収め、小坂部は小さな背に腕を回した。
「大丈夫か?」
「……ごめん」
問い掛けに否定でも肯定ですらない謝罪を返され、小坂部は堪らず下がる髪を掻き上げた。戸外の様子は床に伝わる振動のみで、他一切の無音が二人きりを意識させる。川瀬の拳は小坂部の胸に張り付き、外そうと手を掛けた瞬間、肌に触れる冷たさに思わず掌を重ねた。撥ねる黒髪へ鼻を寄せると、日向の匂いが微かに滲む。
「……ずっと……ずっと前から、こうなんだ」
腕の中、身動ぐ川瀬が胸に口を寄せ述懐を吐露した。小坂部は徐々に熱を帯びる手から髪へと腕を移し、湿る髪間に指を差し入れる。見た目より固い川瀬の髪を指へ絡ませ、一房弄んでは別の箇所を指へ乗せた。触れる度、指腹に伝わる熱が心地よい。川瀬は小坂部に全身を委ね、凭れたまま深く息を吸うと漫ろに唇を開いた。
「針が怖くて……堪らなく怖くて……考えるだけで身体は竦むし、実物を見ることも出来ない。だからいつも、皆に迷惑掛けて……今日も……ごめん」
囁きに合わせ漏れる息が胸へ浸透する。
「別に、構わねえよ……これくらい」
目蓋を閉じ、小坂部は髪へ顔を沈め無意識に嘯いた。胸と川瀬の間に生じる隙を抱き寄せ埋める。感触は猫よりも犬だ。小坂部の唐突な連想へ応じる様に、川瀬が小さく鼻を鳴らせた。稚い仕草が余計に犬めいて、小坂部は含み笑い肩口に声を落とす。細めた視界の片隅で、白茶のカーテンが優雅に風を孕み翻った。閉め忘れられた窓の向こう、四角い空が窓を抜ける。
「何で……オレを助けてくれたの?」
声に顔を傾けると、存分な距離が川瀬の瞳を閃かせた。接近に上擦る声が上体を引き、限界の引き戸が小坂部の重い頭を受け止める。
「何でって……」
「お前、オレのこと、嫌いだろ?なのに、なんで……」
直線的な感情が小坂部の視線を滑り、喉元へ流れ込んだ。当然の蟠りが胸を焼く。一陣の風は不意打ちの機微を捉え、頼り無い指先に憂いを込めた。問われる答え、求める双手。腕を走る白いラインが繋がり、小坂部の口を開かせた。
「泣きそうな顔、してたじゃねえか」
幾らでも誤魔化せた本音が唇を滑る。返答に川瀬は大きな瞳を数回瞬かせ、引き寄せる小坂部のジャージへ顔を伏せた。組んだ両手で作る輪は川瀬を取り囲み、蹲る彼をより狭い世界へ閉じ込める。
「ハハ……泣きそうって……」
鼻に掛かる声が布越し丸みを帯びた。ジャージから顔を外す川瀬の膝元へ、数滴の雫が黒い斑点を広げる。
「今だって、泣いてるじゃねえか」
組み手を外し、下がる川瀬の両頬へ宛がい、緩やかに仰向く眦へ親指を当てた。零れる水を掬い取り、濡れた指を舌で舐める。辛さが鼻奥に沁み、自分の代わり川瀬の鼻を抓んで小坂部は微笑んだ。無意味な行動が気を散らす。川瀬は鼻にある手を外し両手で包むと、柔らかな温もりを冷えた指先に添えた。
「小坂部のせいだ……オレ、ずっとお前に嫌われてるって……」
顔を伏せ、暖かな胸に額を当てる。瞬間、心臓を振る衝撃が脊髄まで響いた。
「ありがとう」
素直な言葉が静謐に溶ける。川瀬の髪へ伸ばした手を背に落とし、小坂部は清澄な鼓動へ呼吸を重ねた。
嫌な予感がした。母親の命令により、先月から強制的に通わせられた学習塾にて、またも同じ名を目にすることになろうとは。小坂部は一階昇降機脇、階段前掲示板を眺めたまま停止した。春期講習明け、新学期開始に伴い編成されたクラス分け一覧において、自分の名より先に川瀬の名を見つける。
川瀬武尊。
同姓同名の滅多に有り得ぬ名前に、学校での彼を思い出す。同一人物だろうかと思う反面、彼の住む地域から駅前塾までの距離を考え否定する。週に三度もある塾だ。通塾を考えるなら、近場の塾を選ぶだろう。だが、背後の扉が開くと同時、流れて込んだ声は明確に小坂部を捕らえた。
「本当だ! 久米の云う通り、小坂部も一緒だ!」
一際、響く子供の声が否応無しに小坂部を振り返らせる。始業時間が迫るにつれ慌しさを増す一階出入り口付近で、見慣れた顔触れが手を挙げた。
「小坂部、早いな。珍しい」
「まーね。初回から遅刻じゃ、女の子ちゃんの心証悪いっしょ。つーか、久米が俺より遅いってどうよ?」
「丁度、隣の文具店で代々木と川瀬に会ったんだ。同じ塾だと云うから、つい話し込んで……気付いたら今頃になってた」
低声で淡々と語る代々木の傍ら、大柄な男が穏やかに笑う。自分より遥かに高い身長の彼は不躾な視線を柔らかに受け止め、静かに自己紹介した。
「一年四組、代々木朔。久米とは小学校から道場が一緒でね、此処も彼に紹介して貰ったんだ。大豊には進学塾が無くてね。君の話は久米と川瀬から聞いているよ、宜しく」
差し出された掌は固く、小坂部の手を包む。自己紹介に加え握手を交わす辺りが礼節を重んじる武道家に相応しい。見た目にも鋭い威圧を放つ久米とは対照的に、柔和な雰囲気を醸す代々木は更に深々と頭を下げ、川瀬の事も宜しく、と付け足した。
「は? 何で、俺が」
いくら同じクラスとは云え、本日、会ったばかりの人間に云われる筋合いは無いはずだ。一体、川瀬は彼に自分の事を何と告げたのだろう。問い質そうと見た川瀬は既にカウンター奥へ控える国語科講師と談笑を始めており、小坂部など眼中にも無かった。無邪気な川瀬の笑顔に舌を打つ。小坂部の悪態にも代々木は微笑み、抑揚無く理由を述べた。
「川瀬は本人無自覚の、途方も無い良い子だからね。敢えて云えば、苗字前後の誼かな」
読点代わりに目を細める。云い終えると代々木は小坂部の返答も待たず掲示物へ目を通し、一人、川瀬の元へと向かった。長身な代々木の傍らでは講師でさえも子供に見える。
「何だ? アレ」
「さあ……単に前後の席だから宜しくって事じゃないのか? あ、塾のクラスも川瀬と一緒なのか、俺たち」
遅れて見た掲示物に久米が納得の声を挙げた。偏差値によって振り分けられた教室は数値の高い者ほど上層に位置する。駅前に多数林立する学習塾の中でも、取り分け進学に力を入れた日進ゼミナールは、小等部から高等部までを擁する全国展開型の総合学習塾だ。茅校には高等部こそ無いものの、中等部は一学年五クラス編成となっている。最高水準を謳うSクラスを六階に据え、五階に上位校を志望するTクラス、中堅校を志望するRクラスは三教室に分け四階以下に配置されていた。全七階と縦に長い塾棟において、昇降機の使用は講師と五階以上の教室使用生徒にのみ認められた特権である。入塾時の学力診断考査でRクラスに振り分けられた小坂部と久米だが、新学期クラス編成ではTクラスに選抜されていた。早速、乗り込んだ昇降機にて代々木のクラスがSであることを知り、降りた五階、使用教室座席表では川瀬の席が学校と同じく前後している事に項垂れる。何も云わず最前列へ腰を下ろす久米に対し、最後列に進む小坂部の後ろを川瀬が弾む足取りで続いた。
「塾ではオレのが前なのな。右側が壁なのは同じだけど」
鞄を置き、始業までの僅かな時間にも関わらず川瀬が話し掛ける。
「オレ、今日が初めての塾なんだ! 代々木とクラス別になっちゃって不安だったけど、小坂部の名前見つけて嬉しかった。学校も塾も同じなんて、一日の半分近く一緒だな」
勘弁してくれ。
漏れる本音を欠伸で掻き消す。壁に背を当て距離を測れども、川瀬は身を乗り出し笑顔を見せた。事ある都度、声を交わし、接点を見つけては喜ぶ。塾にしろ学校にしろ川瀬の態度に変わりは無く、朝の挨拶から放課後まで視界へ映る笑顔が気に入らない。一体、何時に登校しているのか、小坂部が教室へ入る頃には既に川瀬は談笑の最中で、今朝も頃合いを計り挨拶を述べた。
「お早う、小坂部」
傾きに合わせ髪が揺れる。詰襟の鉤を合わせる生真面目さの反面、髪に無頓着な川瀬は寝癖を付けたまま登校することが多々あった。昨日は前撥ねで、今日は後撥ねだ。元から左右に撥ね癖のある髪が、日によって前後へ変化する。けれども川瀬は然して気にした風も無く、本日も寝癖のついた髪を揺らせ着席した。大きい制服は指先まで覆い、腕の曲折に時折、甲を覗かせる。
「どうしたんだ? ソレ」
長い袖から見えるガーゼが、不変の日常に異変を齎した。左手甲を覆う綿布は厚く盛り上がり、腫れの具合を知らしめる。小坂部の問い掛けに川瀬は余る袖で素早く甲を隠し、はにかんだ。
「へへ、ちょっと転んで……」
「どんな転び方すれば手の甲に怪我できんだよ」
「え? 普通に転んで怪我しない?」
「しねえよ」
ぞんざいに言い切り会話を終了する。前へ向くことを義務付けられた教室において前席は楽だ。こと、会話に関しては至極勝手に打ち切れる。何事か呟く川瀬の言葉を背に受けながら、小坂部は昨夜、遣り残した英語の課題を開いた。既習範囲の単語調べなど辞書を用いるまでも無い。半ば惰性でシャープペンを走らせながら、小坂部は背後から聞こえる鉛筆独特の掠れた音へ耳を済ませる。
今、校内で鉛筆を愛用する者は何人居ると云うのだろう。恐らく、四肢の指で余りある程の人数しか居まい。更に涙を浮かべてまで注射を拒否する人間は。双方に該当する人物など川瀬しか居ないのではなかろうか。加えて、転倒時に甲へ傷を拵える。撥ね髪、鈍足、声も変わらぬ子供の眸。全く貴重な人物だ、川瀬は。
先日も宇波に命じられるまま教室のゴミを捨てに行く途中、階段で転倒したと染谷に聞いた。幸い、転倒場所の清掃担当に生徒会長が居た為、周囲の対応も迅速だったようだが、何故、あれだけ見事に転ぶことが出来るのだろうとは目撃した染谷の弁だ。当時の様子を聞くまでも無く、容易に想像できる。女子よりも小柄な体躯とは云え、ゴミ箱一つで重心を崩せる人間も珍しい。また、見た目に違わぬ非力な両腕は学級人数分の牛乳運搬にも震え、命じた宇波は予想通りの展開に哄笑を漏らした。只、想定外の動きを見せたのは彼を取り巻く周囲の人間で、ゴミ箱と川瀬を教室まで届けたのは生徒会長であり、牛乳を運んだのは代々木だった。
結果、宇波は苛立ち、新たな任務を川瀬に命じる。悪循環だ。小坂部は思うが口にはせず、二つ返事で従う川瀬の撥ね髪を奇妙に眺めた。頷けば前へ揺れる髪は、一歩遅れて彼に従う。誰もが仮入部体験活動へと急ぐ放課後も川瀬は一人、職員室へ向かった。勿論、宇波の命に応える為だ。恐らく、遅れた課題の代理提出でも依頼されたのだろう。
出来ることなら部活動へなど所属したくないと考えている小坂部にとって、放課後ほど不愉快なものは無かった。部活動への所属が義務付けられている茅中において、無所属は存在だけで異端視される。幾ら入学間も無い一年と云えども部活動に汗を流す者の傍らを抜け、帰路に着くのは些か心苦しい。知り合いが熱心に参加していれば尚更だ。けれども部活終了時刻まで時間を潰すにも限度がある。教室へも近く、見回り担当が追い出しを掛けに来るだろう。宇波はサッカー部へ行くと述べていた。友永、高柳は野球部、久米は確実に剣道部だ。迷い無く進める道がある者を、少し羨ましいと小坂部は思う。
「俺も何処か、行きましょうかね」
声に出し、自分へ言い聞かせ、行動に移す。只、椅子から腰を上げるだけでも強固な意志が必要だ。決断の右足を踏み出し、鞄を肩掛け、近付く跫音に耳を欹てる。三組の教室に程近い中央階段から聞こえる軽い足音は、踊り場を過ぎ段を快く駆け上がった。教室を目指し、放課後、四階へ昇る人物など一人しか思い当たらない。
「川瀬」
「うわ、小坂部!」
待ち構えた出入り口へ勢いを保ち川瀬が突進して来る。伸ばした腕は小柄な身体を受け止め、彼を胸へと抱き竦めた。
「お前……走る時、前しか見ないのな。だから、転ぶんだ」
胸に回した腕へ川瀬が自らの両腕を絡め、深く息を吐く。黒い制服が薄い熱を吸い込み、白い綿布を乗せた手が小坂部の腕を撫でた。
「何で、まだ教室に居るんだよ。部活は? 仮入部、行かないのか?」
川瀬は小坂部の腕に手を掛けたまま、上体を乗り出し静かな教室へ目を向ける。二人以外、誰も居ない教室には川瀬の鞄のみが机上に置かれ、黒板が西日に照り輝いた。伸びる影、甘い小坂部の匂い。
「さあ? 美術部にでも行こうかね」
「え? 小坂部、絵、上手いの?」
反応の速度で川瀬が言葉を返す。自分を見上げる双眸に、冗談だと訂正する気も失せた。澱みの無い黒い瞳に、黒い髪。抱え背を戸口へ預けると、胸へ僅かな重みと温もりが沁みる。
「お前は何処へ行くんだ? 仮入部」
「卓球部! 坂本会長に誘われたんだ」
弾む声で川瀬が答える。大方、先日の転倒時にでも誘われたのだろう。
生徒会長の坂本梅三郎は兎にも角にも弁の立つ男で、特徴的な声を武器に謳うように演説する。十人並みの容姿でありながら何故か人を惹き付けるのは、彼の持つ表情か仕草か天賦の才か定かではないが、生徒のみならず教員までも魅了した結果、生徒会長就任直後の生徒総会では選挙公約の校則緩和を見事に可決、実施させた。以降、革命生徒会と賞される活動を総指揮し、また、所属する男子卓球部を伝統に違えず関東大会へと導いた立役者でもある。兼ねてより強豪と称される茅中男子卓球部は常に全国を目指す水準の高さで、川瀬などを本気で勧誘する由は無かった。けれども、全てを信じる川瀬は純粋に坂本の言葉を受け留めたのだろう。
「なら、直ぐに行きゃいいじゃねえか」
「でも……用があって」
歯切れの悪い返答が、小坂部を苛立たせる。川瀬は力無く項垂れ、覗く首筋へ小坂部が顔を寄せた。乾く日向の匂いが鼻腔を擽り、思わず項へ鼻先を擦り付ける。
「用っつっても、宇波のだろ?断れよ」
くぐもる声に川瀬は答えず、更に顔を伏せた。嘘の吐けない彼の沈黙は肯定を意味する。
「……お前。ズルイよ」
項から漏れる細い声に、小坂部は顔を外した。肌伝いに聞くには震えが意識を惑わせる。川瀬は温かな手を小坂部の甲に重ね、余る片手を両手で埋めた。
「なんで、こうゆう時だけ喋るの? いつも面倒臭そうにオレの話、聞くだけなのに……だから、嫌われてるって思うのに。時々、すごく優しい。注射の時も、今も」
見上げる眸子が小坂部を射抜く。薄暗い廊下の陰に、眼球が蒼白く揺らいだ。行き詰る無言は周囲の酸素を奪い、小坂部は堪らず川瀬の肩口へ顔を埋める。未だだ。瞬間の表情を晒すには、未だ早すぎる。
「小坂部?」
不安な呼び掛けが髪に触れ、小坂部の頬を軽く撫でた。
「……小せぇな、お前」
掌以上の身長差を有難く思う。同じ場所を見なければ、気持ちを悟られることも無い。薄い肩を引き寄せ力のままに抱き締めると、川瀬は身動ぎ小さく笑った。
「小坂部がデカいんだろ」
小刻みに揺れる肩の齎す振動が、徐々に目蓋を上げて行く。標準から外れた二人の身長を均しくする気持ちの差が必要だ。溢れる部分を注ぎ込めたら良い。失くした欠片を奪えれば良い。喉を鳴らし笑う川瀬の機嫌が明るい方へと開いていった。四階廊下、方向を分ける中央線。
「うるせー。早く、部活行け」
「お前、云ってるコトとやってる事が違うよ。離してくれなきゃ、行けないだろ」
「なら、行くな」
囁き、彼を解放する。大きく開いた両腕から、川瀬が前のめりに弾き出た。上履きを軋ませ、彼にしては珍しく数歩で態勢を整えると、勢いままに振り返り小坂部へ笑顔を見せた。
「小坂部も来いよ、卓球部!会長、新入部員大歓迎だって云ってたぞ!」
社交辞令だ。気付け、バカ。
云ったところで通じない相手に、小坂部は含み笑い背を向けた。
振り返れば、また、捕まる。きっと川瀬は俺を見ている。
「……犬みてぇ」
ついぞ零れた一言に口を覆った。腕に下がる鞄を肩へ掛け直し、立入禁止の札が下がるロープを脇に独り中央階段を下る。入学式翌日に設けられた校舎見学説明会では、黄と黒のロープの先に屋上があるとだけ告げられた。外観から見る校舎は確実に四層しか無いため、五層目があるとも思えない。ロープの奥に見える踊り場の先では屋上へと続く扉が潜み、頑なに空への入り口を閉ざしているのだろう。単純な結界めいた綱など、幾らでも越えられる。
「さっさと帰るべ」
再び自分に命じ、小坂部は止まり掛けた足を前へと急いた。途中、過ぎる二階フロアで活動する卓球部男子を横目で見ながら階下へ進む。規則正しく打球音を響かせる青い一群は一帯を占拠し、以外の色の新入を全身で拒んでいた。歓迎の雰囲気など微塵も無い。入学時に与えられる学年色は三年間共通で、今年入学の学年には緑が当てられた。昨年入学の二年は赤、三年は青だ。昇降口から出た先に広がる校庭でも主力となり活動する色は青の一群で、人数の多い部においては例え二年でさえも球拾い要員に充てられる。興味の無い運動部へ所属し徒に時間を費やすくらいならば、形だけでも文化部に籍を置き、自分へ時間を投資したい。野球部が弾く金属音を聞きながら着く帰路で、小坂部は明日からの放課後を思案した。
徒歩通学圏の果てに位置する自宅までは急いでも二十分を要する。建設業を営む小坂部の家が無人になる事は少なく、況して営業時間中ならば、確実に家族が在宅していた。道路向かいの会社に行けば、両親が愛想を振りまき営業に徹していることだろう。無言の帰宅にも関わらず、律儀に主人を出迎えた飼い猫を玄関で拾い、抱き上げ私室へ進む。小型犬以上の肥満体を誇る猫は見た目同様に重く、短い手足をだらしなく揺らせたまま小坂部の腕に担がれた。
「昼寝部とか在ればいいのに、な? スルメ」
呼び掛けに応じ、ベッドの上で猫が鳴く。赤い首輪の映える茶虎柄の雌猫をスルメと名付けたのは、当時小学三年生だった小坂部自身だ。小学校からの帰り道、日溜りで横たわる彼女と眼が合い、「来るか?」と尋ねたのは小春日和の秋日。小坂部の勧誘に躊躇い無く従った猫は、以降、小坂部宅に住み着き寝食を共にしている。客商売の家に犬を飼うことを禁じた父も猫には甘く、飼い始めて直ぐ赤い首輪を購入してきたのも父だった。スルメが好物だからスルメ、と名付けた小坂部の感覚を散々罵倒した姉も今は大学に通い、餌を与え続けた父同様、スルメも当初より倍近い巨体を床へ広げるまでになっている。
「俺、デブ専じゃねぇんだけど」
頭部と胴体を区別する首輪は脂肪に埋もれ、仰向けで漸く見ることが出来た。身動ぎに合わせ鳴る鈴の音は喉音に相乗し、スルメの腹を弄る小坂部の手元で二重奏を響かせる。白い短毛に指を埋め何よりも柔らかな腹の肉を揉み解すと、始めは手に合わせ身体を左右に揺らせたスルメだが、余程、気持ちがいいのか、それとも単に疲れたのか次第に動きを鈍らせ、終いには完全に停止した。前足を揃え腹を見せる態度に、今度は両手で擦れば力加減に文句を云う爪が容赦なく甲を傷つける。見れば、薄目を開けているのが腹立たしい。
「踏むぞ、ブタ猫」
言葉など意味を成さないことを知りつつ罵り、薄く血の滲む甲へ舌を這わせた。川瀬と同じ左手の傷に、思えば怪我の理由を問い忘れたと気付く。傍目にも分かる腫れだ。彼の言葉を信じると云うのならば、どれ程、派手な転倒を見せたのだろう。
「……鈍いってのは罪だよな」
何よりも、見ているこちらの気が休まらない。明日には腫れが引くだろうか。思い登校した翌日、川瀬の怪我は更に増えていた。新たに創られた両掌の擦り傷より、左頬に貼られた大きな湿布が一際、目を引く。
「また、転んだのか?」
小坂部の問いに川瀬は眉根を下げ、力なく笑った。五時限目に体育を控えた昼休み、既に女子は全員更衣室へ向かい、男子のみが教室で運動着に着替える。同性同士の気軽さに人目を気にせず着脱する者が多い中、川瀬はワイシャツの上へジャージを羽織り、後から器用に中のシャツを抜き出していた。
「んな、女みてーな着替え方してっから遅ぇんだよ。さっさと着替えて大河原んトコから体育倉庫の鍵、借りて来い。その後、ハードル準備な」
早々に着替えた宇波が机上に腰を下ろし、前席の椅子を蹴り上げ川瀬を急かす。
「あ……うん、分かった。ごめんね、遅くて」
騒音に一瞬、身を竦ませ、少々の逡巡の後、川瀬は俯いたままベルトに手を掛け制服を下ろした。細い子供の脚に所々、痣の様な斑が見える。
「宇波。着替え終わってんなら、お前が行った方が早くね?」
「えー、だって小坂部、折角、川瀬が行くっつってんだから、行ってもらった方がイイっしょ? 俺、あんま職員室、行きたくねえし。だから、さっさと校庭行きましょ、小坂部」
勢い良く机上から降り立ち、宇波が笑う。いつもならば庇い立てる伊鈴も今日は給食当番の片付けで先に教室を出ていた。川瀬は無言で制服を畳み、今度は鉢巻を探している。
「川瀬。お前、何で宇波の云うこと聞いてんだ」
「え、何でって……」
「断れよ」
小坂部の言葉に川瀬は目を二、三度、瞬かせ薄い笑いを浮かべた。見つけた鉢巻を手に巻き、言葉を濁す。伏せた視線が川瀬の表情を曖昧にした。
「何、云ってんだよ、小坂部。別にオレは、」
「断れ!」
存外、大きく出た声に室内が沈黙する。今まで雑音としか意識していなかった校内放送が、初めて昼休みの終わりを告げていることに気付いた。放送担当生徒の明るい声が、戸外の晴天に相応しく午後の授業準備を促している。
「川瀬、取りに行くよな? お前が断るわけ、ねえもんな」
宇波は川瀬の手から鉢巻を抜き取ると、緩やかな手付きで彼の首に掛けた。手前で交差し、結び目を徐々に首へと近付ける。
「う、うん!もう時間、無いしね。オレ、取ってくるから、先に行ってて」
川瀬は慎重に宇波の手を外し、身を翻すと一散に戸口を目指して駆け出した。首に残る鉢巻が靡き、印象の残像を視界に残して消えて行く。小坂部は導かれる様に川瀬の後を追い、廊下へ出た。
「川瀬!」
各自、教室へと吸い込まれて行く廊下で、自分の声が他人事めいた響きを放つ。音は川瀬の背を捉え、階段の手前で立ち止まらせた。逃げたところで川瀬の脚だ。追い付ける自信はあった。けれども用意の無い言葉に小坂部は仕方なし、川瀬の右腕を掴み昇段を阻むロープを潜る。立入禁止の四字が作る結界を呆気なく越え、光の射す方向へ一段一段、踏み締める様に進んだ。四角い窓枠から落ちる空が踊り場を照らし、廻る先に初めて見る階段が出現する。短い階段の終点には青い鉄扉と鉄柵に挟まれた僅かな空間が存在した。段の隅で固まる綿埃が清掃担当者の不在を示し、上り詰めた最上階では薄汚れた床が足跡を刻む。一帯を覆う薄い埃の膜はささやかな風圧にも脆く破れた。
小坂部は項垂れる川瀬を壁に押し当て屈み、逃げられぬ様に彼の両脇へ手を突き挟み込む。川瀬は壁に身を預けると、呼吸すら潜めて俯いた。
「何で……命令、聞くんだ」
口から漏れた言葉は驚くほど冷静で低く、小坂部自身、何処か別人の響きを伴い科白を流す。肉体と精神が切り離された様な客観と主観の狭間で、自分の言動を問う第三者が確実に存在した。川瀬を前にすると必ず自分では無い誰かが身体を奪い、精神を乱す。今も原因不明の苛立ちが小坂部を燻らせ、腕を震わせた。
「聞けば……それで済むだろ?」
川瀬の言葉が爪先で跳ねる。神経を逆撫でる諦観の声に小坂部は舌打ち、顔を近付け現実を告げた。
「お前、雑用係呼ばわりだぜ? 素直に命令、聞いたところで宇波は増長する。いいのかよ、それで」
「じゃあ、どうしろって云うんだ!これ以上、どうやって断れって云うんだよ!」
見上げた双眸に滲む涙が忽ち膨らみ、球体を描き頬を零れ落ちた。左目から生まれた雫は流れて直ぐ、白い湿布へ吸収される。爆発する感情に上気した頬を伝い頤へと辿り着く涙は先端から緑の布地へ沁み落ちた。涙の止め方も知らぬ双手を目に当て、濡れるたび掌の傷が鮮やかに色付く。
甲の綿布、脚の斑紋、隠した上体。
小坂部は川瀬の細腕を掴むと、余る袖を一気に捲り上げた。
「……蹴られたのか? 頬は、殴られたんだろ」
腕に浮かぶ紫の染み。変色した部分は片腕だけで三箇所にも上る。痣の色斑が、全て同時期に出来たものでは無いことを表していた。転倒で出来る傷では無いこと位、疾うに察しが着いている。
「放っとけよ……あんまり、オレを惨めにさせんな」
川瀬は腕を奪い返し、長い袖を指先まで下ろした。涙の筋が残る頬を翳す髪が前に揺れる。小坂部は冷たい壁へ手を這わせ、下げた腕が川瀬に到達した瞬間、自分の胸へ彼を抱き入れた。昨日とは違う、湿布の匂いが鼻を衝く。
「宇波の命令、聞く位なら……俺の命令、聞けよ」
囁きを音に変え、川瀬の耳へ吹き込んだ。首輪めいた桃色の鉢巻を外し、小坂部は自分の掌に仕舞う。左頬の湿布へ手を伸ばすと、冷たさよりもざらついた感触が濡れた指腹を唆した。川瀬は片手を小坂部の胸に添え、もう片方の手で目蓋を擦り顔を上げる。朱を刷く眦は頬よりも赤く、濡れた睫毛が瞬きの度に形を変えた。
「……お前も、オレを殴るの?」
怯えた仔犬の眸が黒く潤む。何よりも痛い視線に晒され、小坂部は暫く言葉を失った。沈黙が長引くほどに次の音が重く沈む。胸元で握られる小さな拳は精一杯の虚勢か牽制か。小坂部は川瀬の黒髪へ指を挿し入れ、熱を持つ地肌に掌を合わせた。
「俺が……そんな奴に見えるのか」
撥ねる髪を一房掬い、指に絡めて解き放つ。見上げる川瀬の視線を攫い小坂部は微笑むと、手にある鉢巻を彼の腕へ巻き戻した。身を返し、段を下る。
「小坂部」
「俺、一応、大河原んトコ行っとくわ。だから川瀬は校庭に行けな」
振り向いたら終わりだ。小坂部は片手を挙げ川瀬の追随を避けると、踊り場に広がる光の海へ足を踏み入れた。眼下で待ち受ける時間。やがて本鈴が無人の廊下へ鳴り響いた。




