第3話-5 音楽祭と妹 初日から……
「待たせて悪かったわね」
玉城先生というその人物は、見た目五十代のおばさんである。
職員室の冷房がキツすぎるのか、ダークグリーンのカーディガンを装備しており、
落ち着いたブラウンの縁のメガネは、優しい顔づくりに一役買っている。
ご近所付き合いがない俺が言うのは実に滑稽なのだが、
彼女を一言で言わせてもらうと、
「近所のご近所付き合いのいい、品のあるおばさん」といった具合だ。
ちなみに、俺達はこの先生とは面識がない。
そりゃ全校集会とか、そういう類の集まりで目撃することは良くある。
ここでいう面識とは、この先生の授業を受けたかということだ。
「え〜と、何だったっけ?
……ああそうそう、昨日、音楽祭のステージの申込みをしてくれたんだよね?」
玉城先生は手に持っていたファイルから、
ホチキスで留められたプリントを五部取り出して俺達に配った。
説明によると、どうやらこれは出場にあたっての注意やらルールが載っているらしい。
何気に今気がついたんだが、玉城先生は会議室から直接俺達の元まで来た。
ということは、この注意書きの文章をいつでも俺達に渡せるよう、
前もって準備していたことになる。
面倒見が良い先生だ。
玉城先生は美羽の姿を見ると、ほんわかと微笑んだ。
「この子はどうしたの?」
「ああはい、俺の妹っす。
一人暮らししてる俺のところにしばらくいることになって。
今日ここに来るとき、付いていくとうるさかったので仕方なく」
「そう、私てっきりこの子も出るのかと思っちゃったわよ、ウフフ」
その冗談、さっき俺の担任がしていったところっす、先生。
「フフフ……、まあ、それぐらいの子だったら、
申込みせずに飛び入りで参加しても誰も文句は言わないと思うわ」
「あのー先生、それって本気で言ってるんですか?」
チカがなんか真剣顔で聞いてる。
「冗談半分、本気半分ってところ。
ま、実際にそうなったとしても誰も怒りはしないわ」
それから玉城先生から、音楽祭に向けての詳細な説明を受けることになった。
「───まず、音楽祭で発表する楽曲だけど、
これはあなたたちの自由に選んでくれて構わないわ。
もちろん、自作も可。
楽器については、学校にあるものを使っも、持参してきてもオッケー。
ただし、持参の場合、その楽器に何があったとしても全て自己責任ね。
学校では一切補償できないから、そのあたりはしっかり肝に銘じておくこと。
学校の楽器を使う場合は、使う楽器を本番前日までに、
今配った用紙の一番最後の紙に、
必要事項を記入して学校に持ってこないと、当日使えないので注意。
それから、練習に学校の教室を使いたいっていう人が毎年出てくるんだけど、
その場合は、使う毎に誰でもいいから、
適当な先生に一言断って使うようにしてちょうだい。
その時学校の楽器を使ってもいいんだけれど、
貸し出しの優先順位は三年生、二年生、一年生の順番になるから、
順番待ちになることも考えておいてね───」
玉城先生による話を聞いた後、
俺達は職員室を出て、俺達の教室を解放してもらって、その中にいる。
もちろん、俺達のためにわざわざ冷房をつけてくれるわけはなく、
教室の窓を全開にして自然の風を最大限に利用する必要があった。
「それじゃ、作戦会議始めるわよ」
チカが切り出した。
黒板の前に横一列になって俺達は並んでいる。
この黒板を使っていろいろメモしようという魂胆なのだ。
チカもジョーも零雨も麗香も俺もチョークを持っている。
俺の場合は《強引に持たされた》という表現が正しいが。
美羽は、職員室のすぐ近くにあった自動販売機で、
俺が買い与えたスポーツドリンクをどんどん消費している。
「まずは、音楽祭で発表する曲をどうするか、議論しようじゃないの」
「はい、俺が一つ案を」
俺は片手を上げて述べた。
「演奏とか、歌とかはっきり言ってダルい。
だからクラシックやろうぜ」
「……ごめん、コウくんの言いたいことが理解できないんだけど」
「麗香、そう焦るな。
クラシック音楽にはな、いろいろ面白いものがあるんだぜ?
例えば、一時間以上の長時間に渡って同じメロディを延々と、
それも聴衆が眠くなるようなものを流して、
最後にドドン、とでけえ音をぶっ放して寝た聴衆を飛び起こさせるよう、
意図して作られた曲とか、
人間が嫌う音を音楽の中に取り込んでみた曲とか、いろいろある」
「人間が嫌う音って?」
ジョーが口を挟んできた。
「こういう音をいうのさ、ジョー」
俺は黒板を爪で思いっきり引っかく。
ギィィィィィィ!という高音が耳を刺す。
「ぐうっ!」
「誰が不快な音を実演しろって言った?」
チカに全力で背中を蹴られた。
お陰で黒板とKissする羽目に。
まさか黒板なんぞにファーストキスを持って行かれるとは、一生の不覚だ。
大学に入ってから、こんな会話が繰り広げられるとは……。
《おいコウ、お前のファーストキスはいつぐらいだ?》
《あ?俺?俺高二》
《へえ、どんなキスをしたんで?》
《後ろから鬼嫁街道まっしぐらの女子に蹴り飛ばされて》
《なかなか面白い話が聞けそうだな。
で、お相手はどんな娘?》
《黒板》
うん、断言できる。俺、今なら寸分の狂いもなく死ねる。
恐る恐る黒板から顔を離すと、黒板に俺の唇の跡が残っている。
ますます死にてえ─────!
「ごめん、なんかコウがこの世の終わりみたいな顔するぐらいのことをしちゃったみたい。
まあ、いつもそんな顔っちゃそんな顔なんだけど」
「お前、謝る気ゼロで謝罪の言葉を口にすんな」
「それは置いておいて、コウ、さっさと意見を言って」
「はいはい。
要はだな、クラシックの中には、こういう曲があるぐらいなら、
音符が一切存在しない曲もあると俺は考えるわけさ。
その曲にすれば、練習する必要もねえし……」
「はい却下」
チカに即答された。
俺的には斬新でいいと思ったんだがな。
「う〜ん、コウくんの言ってる曲って、特殊な曲みたいね。
音楽の概念に挑戦した作品ということみたいだけど、私は賛成できないなぁ」
麗香も困り顔。
彼女の出場目的はを考えると、確かに俺の案はそぐわないか。
「俺はアーティストの楽曲をそのまま練習して出たい」
ジョーの意見。
「零雨は、何か希望はある?」
チカの質問に対して、零雨は首を振った。
「零雨、ちゃんと自己主張しないとダメよ?」
「……今の私に主張するべき……思考概念が存在しない」
「どういうこと?」
「私はこの……事柄について何も……考えていない」
零雨のこの言葉にチカ、プッツン。
「ちょっといい?じゃあ今、零雨は何を考えてるの?
今私たちがこうして議論しているときに、別のことを考えてるわけ!?
そんなにやりたくないの!?」
「ちょっと、チカちゃん……」
「麗香は黙ってて!
……ねえ、何その非協力的態度!
ここにいる能なしコウだってクソみたいな内容だけど意見してるじゃない!」
「おいコラ、チカ。女がクソとか汚ねえ言葉遣うな。品格が疑われるぞ」
「コウ!今それは関係ないでしょ?」
チカはマジギレしてる。
今のは確かに零雨の言い方が悪い。
《何も考えていない》じゃなくて、《何も思い浮かばない》だろ、普通は。
「私は……意見を持っていない。
……思考はしている」
「あんたのそのヘンテコリンな喋り方もイラッと来るのよ!
……じゃあ、書いてみてよ。
あんたが今何を考えていたのか、この黒板に書いてみてなさいよ!」
チカは手に持っていたチョーク(新品の長いやつ)を、
零雨に向かって思いきりぶん投げる。
パシッ、と顔面直撃寸前で受け止める零雨。
反応速度だけは速い。
美羽がチカの剣幕に泣き出した。
それをチャンスとみたジョーが俺にアイコンタクトを送る。
《ちょっとこいつをチカから離そうか》
《おう、ヨロシク頼む》
ジョーは美羽の背中に手を当て、
美羽ちゃん、ちょっと外の空気を吸ってこようか、と
美羽とともに教室から脱出。
俺は零雨と麗香の影のサポート的立場にいるわけで、
めんどくさいが、そういうわけでここで逃げ出すわけにはいかない。
ファインプレー、ジョー。
零雨は表情一つ変えず、チカに冷たいまばたきを一回すると、
この世のものとは思えない、見たこともない奇妙な文字をつらつらと書き出した。
麗香に顔を向けると、真っ青になって硬直している。
大事なときに何してんだお前。
明らかヤバイ文字書きだしてるぞ。
俺がを横から突いても、後ろからどついても、
麗香は倒れそうになる身体を足で踏ん張るだけで、動かない。
零雨と麗香の言語なのかは良く知らんが、
これは止めないとまずいことになる!
「ちょっと待った」
俺が声をかけて、零雨の行動を止め、チカの視線を俺に持ってくることに成功した。
ノープランだが、成せば成る。
「……も、申し訳ない。
語弊を招く……表現をしたことについて、謝罪する」
は?
なぜにいきなり零雨が謝罪?
調子狂うじゃねえか。ノープランごときに調子とか言う権利はないだろうが。
しかし、どこかがおかしい。零雨が噛むとは。
「私は……あなたを怒らせる……意図はなかった」
零雨はそういいながら、チカに変な疑問を持たれないうちにと、
おもむろに黒板に書いたキテレツ文字を消していく。
「な……何よいきなり!」
「……私は考えることが苦手。
故に、意見が……まとまるまで時間がかかる」
麗香を見ると、零雨の発言にリンクして麗香の口がわずかに動いている。
なるほど、そういうわけか。それなら合点がいく。
零雨一人では到底処理しきれない問題だと感じた麗香が、
零雨の身体をちょいと拝借して事態を収拾させようとしているわけだ。
零雨が珍しく噛んだのも、話し方が若干違和感があるのも、
零雨という人形を裏で麗香が操っているからだ。
まったく、大胆なことをしやがる。
文字を消し終わった零雨は、粉受けに黒板消しを置く。
「チカちゃん……もう許してあげたら?」
麗香が元に戻ったが、麗香の話すスピードが少し間延びしている。
「……申し訳ない」
零雨は深々と頭を下げた。
麗香のやつ、とんだ自作自演をしやがって、
自分以外にももう一人同時に操作するとかどんだけ器用なんだよ。
まあ、俺も乗ってやるか。
「あたしが一人で勝手に盛り上がっちゃってるみたいで、ばっかみたい……」
「チカ、もう許してやったらどうだ?」
「…………今は無理。
……ちょっと外に出て頭冷やしてくるから」
チカは頭を抱えながら教室のドアに手をかける。
その手は震えている。
「ついて来ないでよね!!」
チカは振り向いてそう叫ぶと、ダン!とドアを乱暴に閉めた。
すりガラスの向こうのチカのシルエットは、小走りでどこかへ去っていった。
教室の中には俺と零雨と麗香の三人が残っている。
「……ふう、危なかった」
麗香は黒板にもたれ掛かって安堵の表情を見せた。
「自作自演、お疲れ様」
「えっ、バレてた!?」
「俺には丸分かりだった。
だが幸い、チカにはバレてないようだったぜ」
零雨が動き出し、チョークを手に持った。
今さっき自分が書いたはずの思考記録が消されているのを見ると、
また一から書き直そうと、チョークを高らかに上げる。
「もう書かなくていいのよ、私が処理したから」
零雨はさっと麗香に顔を向け、「?」と返す。
「もう終わったの。
ちょっと私が身体借りさせてもらって、処理したから」
「……そう」
それを聞いた零雨は高らかに上げていたチョークをゆっくりと下ろし、
コロン、とチョークの粉受けにそれを置いた。
俺は身体を乗っ取られるとか、
考えただけで気味が悪いのだが、零雨は何も感じていないのだろうか。
はぁ、しかしまあ集まって早々こんな状態で大丈夫か?
こんな嫌な空気を会う度毎回吸わせられるとかなるなら願い下げだ。
「なんかチカが走っていったけど、何があったんだい?」
教室のドアが開き、美羽を連れたジョーが入ってきた。
「チカちゃんはちょっと頭を冷やしてくるんだって」
「そうか」
「事態は収束の方向へ向かってる。
チカはまたこの教室に戻ってくるから、追わなくてもいい。
つーか追うなって言われたし」
それを聞いたジョーは、やれやれ、と頭を振った。
「零雨、発言には十分気をつけろよ」
そう投げかけるジョーに、零雨は小さく首を縦に振った。