第5話-B68 不可侵の怪物 ネクローシス
「――ねえ、あんたにちょっと聞きたいことがあるんだけど」
夕食後、グレアに出された茶を啜りながら、もう少し時間が経ったらリンの様子を見て、大丈夫そうなら彼女のことをみんなに話そうだとか、リンが裁かれるとき俺はどう立ち回ってやればよいのだろうだとか、そんな問題を考えながらぼんやりしていると、食器の後片付けから戻ってきたグレアが、面白くなさそうな様子で歩み寄りながら俺に訪ねた。
「私の部屋にイタズラとかしてない?」
「は? イタズラ?」
俺がティーカップを執務机に置いた直後、彼女は机にバンと両手をついて疑いの目で俺を見る。
確かに俺はグレアと悪口を叩きあい秘密を共有している"親密な仲"だが、グレアの部屋に入ったのは、彼女からお呼ばれした一回きりである。
「私の部屋に飾ってあった三叉の剣が失くなってるんだけど、そういうイタズラとかしてない?」
「するわけねぇだろ。女子の部屋に男が勝手に忍び込む、その字面だけで死亡案件だ」
「ホントにしてない? 私今あまり気分良くないから、おふざけのつもりなら今のうちに言ってくれるとありがたいんだけど」
その三叉のなんたらというやつは、あれか? あの短い槍みたいなやつか。以前グレアの部屋に入ったときに物珍しさに見た記憶があったが、あいにく盗難は全く身に覚えのない話だ。
「……俺にそんなことする余裕があると思うか? お前が一番知っていると思うんだが」
俺は両肘をついて組んだ手の上にあごを乗せて答える。
確かに普段の元気な俺なら、おちゃめ機能をONにしてやらなくても良いことをやらかすものだが、スイッチにはTPOセーフティが備わっている。
「まぁそうだよね――じゃあ誰が」
目線を落とした彼女は、机に両手をついたまま体を揺らす。
俺も疑いの目をかけられるのは気分が良くないが、彼女も学校で言えば誰かに上靴が隠されることに相当する強い不快感を感じているわけで、その気持ちには同情せざるを得ない。
「スカートん中弄ったら入ってんじゃね? お前体中に暗器仕込んでるし」
「あれはそういうやつじゃないの。美術品だし」
「さいですか……なに、美術品?」
グレアによると、昔デザインが気に入ったので買ったやつで、そこそこお値段はするが特別高いものではないらしい。そのセンスは俺には崇高すぎて理解できそうにはないが、そんなことはどうでもいい。給仕の職で買える範疇と考えれば、庶民でも手が届くようなものなのだろう。
美術館かなんかに保管展示されているような大層な貴重品が盗まれたのかと思ったがそうではないらしい。迎賓館、グレアの立場を考えると、あってもおかしくねぇなと考えてしまって一瞬で目が醒めた。
だが安かろうが高かろうが盗難は盗難である。
「いつの時点まではあった?」
「あまり覚えてないけど、昨晩の時点では確かにあった」
「失くなっているのに気づいたのは?」
「ついさっき」
おおよそ丸一日の範囲か。俺に特に心当たりはない。
俺の他にイタズラしそうな奴といえば、ブロウルとクラリのコンビだろうか。
二人の名前を挙げると、彼女は既に二人のところへ行って問い合わせたらしい。俺が第一容疑者でなくて良かったなどと謎の安心。
「部屋の鍵をかけ損ねてた私も悪かったんだけど」
「犯人に心当たりはないし、部屋のどこかに落ちてたり引っかかってたりしてるかもしれん。俺も協力して探そう」
自分で探してから他人に尋ねるのが筋だと思うんだが、彼女の仕事柄も考えて大目に見ることにした。常に完璧な対応ができる人間などいないのである。
グレアはそこまでしなくていいと言ったが、そういう話をされては俺も気になる。無理に押し入るつもりはなかったが、彼女は強く断ることなく二回目には受け入れた。
俺は隣の部屋にいると書き置きを残してグレアと自室を出た。
「失礼しますよっと……」
お隣のグレアの部屋は、相変わらずいい匂いがしていた。なんというか、言葉に言い表せないあれである。
「ここに掛けてたんだけどね、ないでしょ」
彼女のベッド近くの引き出し家具の上の壁を彼女は指差した。
なるほどそこには剣を引っ掛けるためなのだろう、ピンのようなものが打ち込まれていた。隣には縦だの他の刀剣だのも飾られていて、「こんなふうに飾られていたんですが……」と静かに主張している。三叉槍、彼女は剣と言ったか、まあ名前はどうでもいい。それがどんなものかは、印象的だったのでぼんやり覚えている。
「この部屋に戻る用がなんだったのか、それも俺は気になるんだが」
「身だしなみを整えたかったの。それだけ」
「なる」
納得しながら周囲を見渡す。
前に俺がこの部屋に来たとき、確かになんかここに装飾品があったような気がしなくもない。というより、ない今の方が違和感があるのだ。
近くの隙間に入り込んでないかと探してみるが、それっぽいものはない。
「お、ベッド下に本がある」
「それは私の個人的なやつだから。手出し無用よ」
「心得ている。ベッド下の本は都市伝説だと思っていたのでな」
「何考えてるのか知らないけど、娯楽本じゃないから」
「あっそう」
娯楽じゃないというそれは一体なんなのか、少しばかり興味が沸く。まあ知ったところで、なのだが。
とにかくしばし探して、それがすぐ失くすようなものでもないことと、ありそうな場所にはなかったことは分かった。
「たしかに誰かが持ち出したのかもしれんな」
そうだと決めつける気にはなれなかった。出入りが管理されている迎賓館で起きた出来事である以上、外部より内部の人間に疑惑が向けられるわけで、つまりある意味身内を疑ってかかるということなのだ。
しかし事実は事実。グレアのことを知っている人間が疑われるわけだが、出掛けていた俺と護衛メンバー全員は、一旦可能性から除外しよう。可能性はゼロではないが、高い可能性から確認するのが先だ。
「財産目的、じゃないよな……」
もし誰かが持ち去ったとするなら、なにか目的があったはずだ。そこそこのサイズの飾り物がなくなることに持ち主が気づかないわけがない。俺が泥棒をするなら、運べるだけ全部運びだす。あるいは、運び出した犯人が持ち出せるのはそれ一つだけだったのか、それとも、それ一つで十分だったのか。
「そのなくなったやつって、なにか特別なものだったりするのか?」
「そんな話は承知してないわ」
「あのー……」
廊下からそんな声がして振り返る。メルが部屋の入口から顔を覗かせていた。
「リンさん見ませんでしたか?」
「いや、見てないけど」
俺はメルに答えながら、並列思考はリンが犯人だった場合を想定する。彼女かもしれない。リンはいつも迎賓館でじっとしているし、今日だってそうだった。グレアが施錠をしていなかった。時間は十分にあった。
「珍しく敷地を一人で散歩したいと仰って、それきりお戻りになられていないのです。体調も回復されたばかりだったので、あまり無理なさらぬよう忠告申し上げたのですが……」
「アダチ」
「確率は高いが」
グレアも同じくリンを疑っていたようだった。
ただ、そうだとしても理由が分からなかった。基本的な衣食住が揃っている。飛行艇の関係で贅沢は言えないが、多少の嗜好品なら用意してもらえる。彼女の体質のことも俺が保証すると約束している。
つまり、彼女がそんなことをするとしても、動機が――いや。
「――グレア。昨晩リンが使った刃物、取り上げたか?」
メルに聞こえないよう、静かにグレアに囁いて聞く。彼女もそれに応じて声を潜めて答えた。
ええ。そこの引き出しに入れてるけど。
「ちくしょう! それだ、それが原因だ!」
その返答で仮説は完成する。
「最優先でリンを探せ! グレア、メルにうまい具合に説明しといてくれ!」
「はぁっ!?」
俺はそのままグレアの部屋を飛び出した。
嫌な予感と光景が脳裏をよぎって、足に力が入る。一刻を争う事態なのだ。
俺は真っ先にリンの部屋に向かったが、もちろんそこにいるはずもなく。
どこにいるかの検討もつかず、エントランス、図書室に、使われていない部屋の廊下も駆け回ったが、リンの姿を見つけることはできなかった。
(外に出たかもしれん)
建物内をくまなく探し回ったわけではないが、グレアとメルの二人も探すだろうと踏んで考えを切り替えた。
外を探すなら高い場所だろう。飛べない俺は高いところに登る必要があった。幸いにして、屋上の鍵は懐中時計のチェーンに通していた。
――屋上に上がると、そこに彼女はいた。
梯子の蓋を開けて頭だけだして見渡せば、砂埃の混じった夜風が俺の頬を吹きつけ、目を閉じる。
彼女は屋上のフチに乗って、建物中央の突起状の壁に片手を触れて、どこか遠くを見ているようだった。
梯子の出入り口が開く音に気がついて、彼女はゆっくり振り向いた。
「ここにいたのか」
彼女は、突然思い立ってこんなところまで登ってくるようなヤツじゃないことは知っている。
駆け回った名残、息も少し上がり気味に蓋から這い出て、そっと閉じる。
「忽然といなくなるもんだから、心配して探し――」
「危ないですから」
リンを見つけた安堵に歩み寄ろうとして、記憶の隅に追いやられがちがったそれを、彼女はそう言ってゆっくりと俺に向けた。
グレアが失くしたと言っていた小さな三叉の剣。
「あまり、こっちに、来ないでください――危ないですから」
迎賓館の屋上に柵などない。有翼人の住むこの世界では柵など必要ない。
有翼人ならたとえ落ちたとて、翼を広げればそのまま飛べるのである。
彼女の言葉はこの世界に来ていくぶん慣れた俺を、俺を気遣ってのことなのか、それとも俺を警戒してのことなのか、刹那惑わせた。
そしてすぐ、剣先を向けるその状況が、俺を警戒しているものだと知る。やはりか。
「まあその……なんだ、とりあえずその物騒なのを下ろしてくれないか」
彼女が何を考えているのか、分かりたくない。これは良くない状況だ、まずい状況だ。
両手でとにかく落ち着けとジェスチャーしながら、俺は無意識に一歩歩み出て――
「近づかないでください! ……やめてください」
声が裏返りそうな鋭い怒号と一緒に、俺の言葉に下がりかけた剣が再び向けられ、力なく言葉が続く。血の気が引いた。
ここは、何気ない言動が命取りになる空間だと、叩きつけられたように自覚する。
"あっこれ俺の手に負えないやつだ――"
直感が言う。何がとまでは分からない。ただ、俺はうまく立ち回らなければならないのだという本能的判断が、悪寒と一緒に全身に広がる。
この場にクラリがいれば――ブロウルでも、グレアでも、ガルでもいい。
俺の前の、静かに暴走する彼女を一緒に止めてくれる誰かがいれば。一人で行動したことを後悔した。
背後に目を向ける。出てきた蓋は鍵こそ掛けられていないが、閉じられている。いまさら引き返して誰かを呼べる余裕はない。退路はない。
「――今日は空が綺麗です。コウさんが空から降りてきた夜も、こんな澄んだ星空でした」
何を言えばいいのか分からず、しばらくの沈黙。それを破ったのはリンの方からだった。
「あなたと初めて会ったとき、とても珍しい外見をしていると思いました。異界の方だと聞いて驚きました。そんなこと聞いたこともありませんでした」
「すこしトゲがあって、それで人を遠ざけている。あなたの、正直な私の第一印象です。でも一歩内側に入ると、少し無愛想なようでいて、不思議と優しくて、しっかりしているようで、時々抜けててとんでもないことをしてしまって」
「みんなコウさんの周りに自然と集まって、楽しそうです。メルさんから時々噂を聞きました。コウさんの周りでみんな好きなようにしていて、それが許されるような独特の雰囲気がするって」
「それは、コウさんが光だからだと思います。光が照らしてくれるところなら、何かしなきゃいけないわけじゃないけど、何かできる。暗闇じゃできないような、言葉にしづらいですが、そんな感じなんだと思います」
「きっと光にいるのが幸せだから、みんなそうしているんです」
完全に彼女のペースだった。
下手な生返事をして、彼女の心を余計に傷付けるようなことはしたくなかった。
俺はどうしたらいいかの具体的な方策も思いつかないまま、彼女の話に耳を傾けることしかできなかった。
抽象的な話は概して聞き流すには荷が重いもので、実際彼女の話に実のある返答をしようとすれば、他のことを考える余裕なんてなかった。
「いつしか生まれた意識は、やがて老いて消えてしまうものです。では、私は何のためにここにいるのでしょうか」
「自分が自分としてここに存在する目的なんて、最初から存在しないのです。暮らしにありふれた目的という存在に惑わされて、そのようなことを考えてしまうだけで。あるがまま、ただ私がここにいるだけ、それだけです」
「自分が居続ける理由は、本能が教えてくれます。喜び、悲しみ、怒り、嫉妬――それらに存在する目的をつけるとするならば、それは幸せになるためだと思います。生きるのは幸せの為でなくとも構いません。辛い思いをする為に生きていてもいいのです。ただ、私は幸せでいたいと、そう思っています」
「感情だけでも、幸せになれることはあると思います。でも、もっと効率よく、より大きな幸せを手に入れるにはどうしたら良いでしょうか。回り道をしなければならないこともあるでしょう。その中で育つのが、きっと理性や知性だと、私は思うのです」
「……私はたくさん人を殺しました。辛くて、苦しくて、どうしようもなくなって、私から大切な家族を奪ったことが、どうしても許せませんでした。その中に、今までされた仕打ちの報復に愉悦の情を持たなかったかといえば嘘になります。報復の刃を振るっているときの私は、悲しくもあり、そして報復をしなかった私よりも、きっと確実に幸せだったのです」
彼女の高濃度に濃縮された話の解釈に努める思考の合間を縫って、どこかで言葉を返さなければとだけ考える。
現国の授業をもっと真剣に受けておけば、などという超自我からのカンペじみたぽっと出の無意味な後悔を、彼女の話で無秩序に上書きする。
「私は、迎賓館の個室で一日を過ごすとき、ずっとこれからのことを考えていました。私はこれから幸せになれるでしょうか。人を幸せにできるのでしょうか」
「私が迎賓館についていったとき、コウさんといれば、後悔とあの光景が脳裏に蘇る日々から開放されるような気がしました。新しい暮らしでもう一度、人としてやり直して、自分も、コウさんも幸せにできるような人でいたいと思いました」
「――でも、私にはあなたが眩しすぎました。光に近づくと、自分の醜い姿が見えてしまうのです」
「昨晩、コウさんを傷つけた事実を、冷静になって思い返して、胸が痛みました」
「誰かを傷つけて、不幸な思いをさせないと、私はこの世界に存在することすら許されないんです」
「私と同じエルベシアは差別と迫害に遭っていると聞きます。それは、当然のことだと思います。他人を傷つけないと、エルベシアは幸せを得るための権利すらないのですから。人は、自分の幸せの総和を減らすことを許せないのです」
「私を隔離しろ、殺処分しろ、そんな言葉も村で聞きました。私は生まれついてこの身体です。自分で選んだ覚えはありません」
「それでも、私がいることを不快に思う人がいます。幸せが減る人がいるのです。私の近くでは、必ず誰かが血を流し傷つきます。私が生きている限り、確実に、一生続きます」
「他人の不幸の上に成り立つ自分の幸福の果てには何がありましょう。虚無感、あるいは破滅です」
「誰かと生きるということは、他人の幸福が自分の幸福になることです。それを、この年まで生きてきて、昨夜恥ずかしながら初めて自覚しました」
「私が生きて、幸せになれるでしょうか。幸せになってもいいのでしょうか。幸せにできるのでしょうか」
「答えは否です。私は皆さんの幸せを尊重したいと思っています」
「……それは『自分がいると周りの迷惑になる』ってことか?」
俺はふわりとする彼女の話の実体を掴むため問う。我ながらなんとまあ薄っぺらい返答だろうか。使用率99%の俺の脳が導き出した回答がこの程度とは。
当然のごとく、リンはゆっくり首を振った。
これまでの言葉を正しい意味で解釈できるよう再構築しながら、進行していく言葉を追うことは、もはやできそうになかった。所詮高校生の頭脳。もはやこれより、リアルタイムで処理できない領域。すなわち制御不能。
俺は頭の中のテーブルに散らばった彼女の言葉をひっくり返して思考をリセットする。
こんなところで置いてきぼりを食らっている場合ではない。なんとしてでも食いついていかねばならない。
そもそも俺は彼女を連れ戻さねばならない。食いつくだけじゃ不足なのだ。
焦燥の手汗を握る。
「私は、私自身の幸せも同じように尊重したい、してほしいと思っています」
「コウさんが私を探してくれた。なんでもないことでも、初めて与えられる私にとっては、それはとても、とても大きな幸せなのです」
「ですからどうか私から、幸せの総和を奪わないでほしいのです。これ以上、幸せの総和を奪いたくないのです。最期に『生きていて幸せだった』と、そう言える一生を私にも、皆にも望んでいるのです」
「"そのとき"は人それぞれです。私にとって、それが今であるだけなのです」
「待て。それで悲しむ奴がここにいるとは思わないのか」
やはり。最悪の事態。咄嗟に出たのはありふれた言葉。
誰か来てくれ。背後の蓋が開いて、誰でもいい、俺と一緒にリンを止めてくれ。
俺が背を向けたら最後、リンが何かしてしまいそうで目が離せない。刺激してしまいそうで大声も出せない。
とにかく時間稼ぎだ。誰かが来るのを期待して、どうにか会話して時間稼ぎをするしかない。
「俺はお前が居てくれたおかげで、この世界でこうして生きてる。リンが居なけりゃ俺は人知れず砂漠で野垂れ死んでた。勝手が分からない世界で、お前が居場所を用意してくれた」
「俺はお前に感謝してるんだ。感謝してもしきれん。リンが辛い思いをしているのは昨晩初めて知った。俺はお前に恩返しができると思った」
「……それは、私のためですか? それとも、自分自身の満足のためですか?」
「どっちもだ。今度は俺がリンを助ける番だと、それはお前に幸せになってほしいって俺の自己満だ」
「その言葉はとても嬉しいです――でも、残念ながら私はコウさんのお話の前提条件を、もはや満たしてはいないのです」
「……どういうことだ」
「私はいま、希望に満ちているのです」
少しの空白のあと、思わず唇を噛んだ。突然、俺の中でリンの話が瞬時にひらめきに似た力で全体像の解釈が完成したのだ。
今の俺にはリンをどうすることもできない。リンは感情の話をしていながら、話が理路整然としている。そして理解する。
彼女は生きて幸せになることに見切りをつけたのだ。絶望や諦めとは違う。それは一種の冷酷な損得勘定。
このテーブルをひっくり返せるだけの言葉をひねり出せ。
「私は多くの人を殺した罪をまだ償っていません。そのことは、常に私の心をひどく傷つけます。生きれば生きるほど、背徳の苦しみを感じるのです。どうせ死ぬならば、私がいま幸せを抱いていることを、感じなくなってしまう前に死なせてほしいのです」
「悲しまないで、目先のことに囚われることなく、冷静に、未来を見ていてほしいのです」
「初めて親しくなった人がコウさんで本当に良かったと思います。私のことを気にかけてくれて。私のことをひっても、こうして心配して探してくれた。それだけで私はもう十分なのです」
「……やめろ」
「えへへ、やっと、回ってきました。バケモノは毒も強いみたいです……」
リンが口にした毒は、すぐに見当がつく。俺が昨晩仕込まれたマヒ薬だ。
俺は、彼女からその薬を取り上げなかった。彼女が凶行に出たのは、どうしようもなくなって助けを求めたからで、そうなるまで彼女は静かに耐えていた。
つまり俺は彼女の人を信頼して、もう俺の意に反するような使わ方をすることはないだろうと考えて、薬は取り上げなかったのである。
「もし私がまた人としえ生まれることが許されうのなら――今度は普通の女の子に生まれたい。エルふぇシアの力も頭の良さもいりません。たっ、た――ただ、陳腐で普遍的でも、少し、変わって、いてもいい、あたしが、の、のぞんで、手を、伸ばせば……ひあわせを、掴めるような、そんな、普通の子……」
「コウさん、いままで、ありがとごらい、まいた。クラリちゃん、やさしく……」
「あなたに、あ……会えて、とても、とても幸せでした――」
結局、俺はもはや言葉にすらなっていないリンの言葉を打ち返せなかった。だがまだ終わってない。
リンは立っているのもやっとの様子だった。
今。言葉でなく行動を起こすべきだと、考えが俺の中で駆け巡る。
風が吹けば倒れてしまいそうな彼女の危うさ。俺が動けば、縁に立つ彼女がその風圧でふわりと倒れ消えてしまいそうな気がして、恐ろしかった。
俺とリンとの距離は数メートル。俺が動いたことを見て、彼女がそのまま引き返せないことをするには十分な距離だった。怖かった。
ホワイトアウトする思考。息が上がる。どっちにしたって詰みだ。いやまだなんとかできる。どうすりゃいい? どうしてこうなった?
その間、臆病な俺は足の一歩どころか、指の一本さえ動かせなかった。動かなかったのだ。
白い虚ろのトンネルを抜けた先で見たのは、彼女が切先を胸にそっと当てる姿。
「くそったれええええええ!」
どうしてそんなことを叫んだのか、俺自身にも分からなかった。チンケな俺に対する無意識の喝だったのかもしれない。
ただ確かに言えることは、俺はそう叫びながらリンに駆け寄っていたということだ。
無我夢中。全身に命令する。彼女を失いたくない、理論の源流、絶対的な意志。
腕だろうが胸だろうが髪だろうが、彼女をそこから掴み戻すためならどこでも良い。
理性的に考えてあーだこーだ、知ったこっちゃねぇ。
加速する時間の中で理解する。
リンが言いたいのは、要はこの世界で幸せになれる気がしないので、幸せなうちにドロンしときます、その方が双方お得ですよってこった。
仲間を捨てた先にある幸せに夢を見るほど、俺は落ちぶれちゃいねえ。
彼女に近づくのは、あっけないほどに簡単だった。
俺を見る彼女の表情は穏やかで、幸せそうで、物悲しそうで、そして哀れみさえ感じられた。
足元から崩れる彼女を掴むには些か出遅れた。それでも。
研ぎ澄まされた時空間の中で、俺は足元から滑りこんで、建物の縁の突起をストッパーを踏ん張って固定する。
勢いで半身を起こし、彼女の腕を掴もうとして、すんでのところで宙を掻く。
彼女の身体は建物から転落を始める。
まだだ。まだ時間はある。
躊躇なくというより、半ばがむしゃらに彼女のロングスカートの裾に手を伸ばした。布に触れる。彼女の命を掴む。
間に合った。絶対離さねぇ。ありったけの力で握った。踏ん張って全身に力を入れる。
そのとき、鈍色の何かが弧を描く。
嫌な音がした。身体が軽くなり姿勢が崩れる。
顔を上げる。そこに彼女の姿はない。
無音。
手に見やると、俺は裂けた赤いスカートの切れ端を握っていた。
誰かが手を叩いたかのような嫌な音。遅れて金物の跳ねる音。
――間に合わなかった。




