第5話-B59 不可侵の怪物 エルベシア
「私のいないところで随分とお楽しみだったようね」
気がつくと、俺は倒れたその場に仰向けになったままだった。
俺の頭のすぐ隣に立つ、薄桃色の柔らかな色の寝間着を着たの少女の姿が見えた。ガラスの板と短剣で武装したグレアだった。
足元から、リンのすすり泣く声が聞こえる。
剣先を足元のリンに向けて、低く刺々しい声で話しかける。
「――銃声が聞こえて、アダチがヘマをやらかして暴発させたのかと思って無視しようかと思ったわ。でも嫌な予感が拭えなくて来てみたら大当たり。血まみれのアダチに馬乗りになって血を啜る野蛮な女が一人。危うく見過ごしてたら責任問題になってたところだったわ。穢らわしい」
グレアは嫌悪感をたっぷり含ませて吐き捨てた。
どうやら俺が意識を失ってから取り戻すまで、そんなに長い時間は掛からなかったようだ。下手すれば十分もないだろう。
「あんた、エルベシアだね?」
「……殺してください」
「こんな無様に伸びててなんの力もない男でも、国が国賓と言えば国賓なわけ。国賓に危害を加えることが重罪なことくらい分かると思うんだけど。具体的には、特に生かす理由がなければ、その場の速やかな処刑が推奨される。あんたに頼まれずとそうするわ。法に則って」
エルベシア。どこか聞き覚えのある単語だった――ああ、思い出した。確か、自力で魔力を生成できない種族だと聞いた覚えがある。
「……床で伸びるのも、たまには悪くないもんだぜ」
「アダチ、朝はまだよ。あんたの知り合いを処刑するところなんだけど、見る? 私としてはもう一回気絶しててほしいんだけど」
「やめろ。俺の持ちうる最大の権限で命令する。殺すな――いっ!」
上体を起こそうとして、首の付け根に張り詰めた糸のような鋭い痛みが走った。薬の効きも早かったが、効果が切れ始めるのも早いらしい。
身体をもとの仰向けに戻し、痛みを感じた反対側の手で、傷口に触れる。
感覚のまだ鈍い手に、鮮血がべっとり付いていた。あの怪我したときによく見る赤黒い方ではなく、蛍光顔料かよと言いたくなるような血である。
自分がどうなったのかはよく分かったが、思ったよりあまり知りたくなかった。
「あんたの権限なんて大概なんだけど。でもアダチなら言うと思った。理由は?」
「被害者である俺がそんなことを望んでいない――リンの話が聞きたい。彼女が俺に手をかける機会は今までに何度もあっただろうが、手をかけられたのは今回が初めてだ」
「……いいわ。リン、あんたの処刑は一旦お預けにしてあげる」
グレアはリンの奇襲を警戒しているのか、刃は下がらない。
彼女の言葉はこれまでにないほど攻撃的になっていた。寝るところを邪魔されて機嫌を悪くしたのかもしれない。あるいは俺を守る任務を邪魔されたからか、正義感からか。
しかしそんな心境でも、論理的に思考できるだけの冷静さを保てるグレアに、少しばかり畏敬の念を覚えた。俺がグレアなら、同じようにできたか分からない。
「リン。持っている武器、薬、全部グレアに渡せ。もう必要ないだろう」
天井を見つめながら言う。
静寂の中、リンが短剣を差し出す音と、彼女の服の布が擦れる音。相手に柄を向けて差し出された短剣を、グレアは自前の短剣を彼女に向けたまま受け取って、それを足元に寝かせた。その短剣の刃を、彼女の足が抑えるように踏みつける。刃が軋む。
「薬は?」
「全部、使いました」
「…………。」
誰かに傷口の手当てをしてもらいたいところだが、この部屋にはガーゼの一つすら置いていない。やけどの治療でつい昨日までは置いてあったのだが、もう要らないだろうということで、グレアに元の場所に戻すよう指示したのだ。
グレアはリンを警戒してこの場を離れることはできないだろうし、リンに手当てをさせるために部屋の外に出すわけにも行かなかった。
……まあ仕方ない。二人仲良くクラリを呼んできてもらおうではないか。
「んで、次は俺の傷のことを心配してほしい」
「なに、ツバつけとけば治るわ」
「どう見たってそんな優しいケガじゃねえだろこれ!」
グレアの足元から掌にべっとり付いた血をグレアに見せつけた。
「二人でクラリを呼びに行ってくれ。ケガしたこと以外は誰にも何も話すな。出ていくときはこの部屋を施錠しろ。よろしく頼んだ」
「……リン。アダチの懐の深さに感謝しながら、この部屋を出て待機しなさい」
手に持っていた短剣を誘導灯のように振る。
リンはすごすごと部屋の外へ歩く。グレアとすれ違う。グレアは踏みつけた短剣の横に自分の短剣を寝かせた。手に持ったガラスの板を、本を持ち歩くような持ち方に持ち替えて、二人は部屋を出ていった。
「そうか……エルベシアだったか……」
天井を眺めて呟く。
他人から血液を得ないと生きられない種族、あるいは狂気の種族。彼女がそうかもしれないという話を、迎賓館に来る前に誰かと話した記憶が、うっすらと浮かび上がってくる。
彼女がそうだと俺自身信じたくなかったし、リンがそんな狂気を自らに宿しているとは、当時の彼女の振る舞いからは思えなかった。
「それで『助けて』か。合点がいったぜ……なるほどな」
種族の問題を抱えていても、誰ひとりとして相談しなかったリンの性格を少し考えれば、血のことは誰にも言えず、最後まで我慢していたに違いなかった。
足を使って起き上がる。いつまでも固い床に頭を置いている理由はなかった。
傷口が心臓よりも高いなら、重力で下の方へ向かう血液を利用するという理論で考えると、上体は起こしていたほうが出血が抑えられる気がしてきた。
「よっと……」
ついでに言えば、立っている方がさらに抑えられそうな気がする。
立ち上がると、まだ薬が抜けきっていないのか多少ふらつく。着ていた寝間着も、寝転がっていた床も血で汚れてしまった。
足元がフワついていて、立っているという感覚があまりないが、歩けないことはなさそうだった。
「イデデデ――沁みるぜ」
寝間着を脱いで、袖を使って傷口の肩からたすき掛けをするようにして、強く縛って止血を試みる。これで止血と治癒がうまくいけば、クラリを呼ぶ必要はなかったかもしれないだとか今更思いはじめる。覆水盆に返らず。リンのしたことも然り。
「とりあえず雑巾――あった」
傷のある方の腕はそのまま安静にしたまま、片腕で給湯室の戸棚の中身を物色する。
例えばオチャメな誰かがお茶をこぼすだとか、口からきなこジェットをブッパするだとか、そんなアリガチな粗相をした場合にも対応できるよう、ここに雑巾を置いているんじゃないかと思って探せばビンゴ。すべての必要なものは給湯室にあるのではないかと思えるほどの充実ぶりだ。
コイツで何をするかは言うまでもなく、床掃除である。
井戸から汲んだバケツに、水がまだたくさん残っていた。
水拭きのほうが血がよく落ちるだろう。俺は乾燥しているその雑巾をバケツに放り込もうとして、待て。その手を止めた。
飲み水としても使うバケツに、どんな雑菌がいるかもわからない雑巾を突っ込んだとしよう。雑巾を放り込むことによって抽出され、雑巾汁がバケツに完成する。そして、今後お茶が欲しいと言えば、その雑巾汁の残りカスがついているかもしれないバケツを使う可能性が高いのである。
「――ないな。」
数瞬の思考の後、給湯室から乾燥したままの雑巾を持ち出した。
血で汚れた床の上に雑巾を被せ、足で踏んで血を拭う。思った通り、朱色の拭き跡が床に残る。これは後で掃除してもらうしかない。
雑巾で拭きながら、リンに刃を振るわれたときのことを思い出す。
最終的にはこんな結果になったが、それまでよく動けたものだと思う。似たような体験ばかりしている慣れからだろうか……危険な目に遭わないとそれに慣れない。幸か不幸か――俺の心境を複雑にさせる。
しゃがみこんで雑巾を手にとる。雑巾が結構血を吸っていた。そういや献血できるところで献血すると、一回で四百ミリリットルくらい搾り取られると聞いたことがある。今の気分は良くないが、こうして動けるということは、全体の出血量としては、もしかしたらその程度か少し多いくらいだったのかもしれない。
下手に傷を開いたり、感染症に気をつければ死にはしないだろうなどと、医者でもない俺が勝手に下した自己診断に納得しつつ立ち上がったとき。
「――っ、なるぅ!」
解錠音が聞こえたと思いきや、発破されたのではないかと思えるほど勢い良く開け放たれたドアから、クラリが飛び込んできた。寝間着姿に救急箱を振り回して。
「すまんな、夜中に」
「大丈夫?」
少し乱れた息。心配そうな目でクラリが問いかける。
開いたままのドアからはリンとグレアの姿は見えなかった。どうやら知らせを聞いて、先に一人で駆けつけたらしかった。
「浅くも深くもない切り傷なんだが、ちょっと手当を頼みたくてな」
立ったばかりだが、その場の血で汚れていない床にあぐらをかいて座り、止血に使っていた寝間着をほどいて傷口を見せた。
クラリが傷口の近くを指で触れる。刺すような痛みに眉に力が入る。実際刃物が入ったわけだが。
「だめ。縫わなきゃ……」
「縫うほどなのか?」
「縫ったほうが綺麗に治ります。薬を塗るけど我慢」
「医者には文句言えねえよ……いっ」
救急箱とは形容したものの、傍から覗き込んで見えたその中身は、およそ一般の家庭にはまずないであろう特殊な装備になっていた。生薬の名前が書かれているらしい小箱はもちろん、縫合に使う器具、さらに病院でしかお目にかかれないようなメスらしき刃物まで整頓され収納されている。
「なるぅ。何があったの?」
傷口の治療をしながら、クラリは今一番聞かれると困る質問ランキング第一位の問いをピンポイントで当ててくる。
部屋を開ければ、寝間着の袖を結んで肩からたすき掛けをしている男が雑巾を持って血を拭っていて、足元には歪んだ短剣とそうでない短剣。さらに無造作に床に転がった拳銃。確かにこのシチュエーションで気になって質問しないほうが、むしろおかしい状況である。俺が認める。
「まあ、俺がケガするようなことがあったわけだ」
「リンさんの刃物で怪我をした、クラリにはそんなふうに見えます」
クラリが他の薬を物色しながら答える。
「なぜリンだと思った」
「古族には直感を当てる能力があるからです」
「……恐れ入るぜ。神都に着いたら占い師をやったらどうだ」
「なるぅは占い師の奥さんが好みですか?」
「あいにく怪しい壺に興味はなくてな」
クラリが救急箱から針と糸を取り出す。
俺は痛みを覚悟しつつ傷口から顔を背けた。
「――あまりリンを悪く思わないでやってくれ。リンがエルベシアだと俺は見抜けなかったし、リンもそれを隠して最後まで我慢していたようだ」
今隠したとて、リンと一緒に神都に行くならば、結局エルベシアのことは遅かれ早かれ全員が知るところになる。医療担当のクラリには、一足早く全容を伝えておいて悪いことはない。
「他にいいやり方はあったんだろうがな……」
「リンさんがエルベシアだって初めて知りました。でもいい人だって知ってます。思い切って私を助けてくれた人です。でも、リンさんは何か変な感じがしてました」
縫う痛みから気を逸らすように話を続ける。
クラリが姿勢を正すと、ふわりと石鹸の匂いがした。
「俺の血でもリンは満足できたと思うか?」
「なるぅは怖くなるほど魔力がいっぱいあります。他の人と比べて濃く魔力を受け取れると思います」
感染症予防の面から見れば、やるべきものではない。しかしリンの命に関わることであるし、さらに砂漠で救ってくれた恩がある。俺の血がリンへの「輸血」に適しているとくれば、提供する理由は十二分に揃ったも同然だった。
「終わりました。」
「すまねぇな――次俺がリンに血を提供するときは、手伝ってくれないか。まさか今回で死ぬまで血が不要になったわけじゃあるまいし」
「……うん」
あまり乗り気じゃない感じの返事を頂いたが、それでも承諾は承諾である。
グレアとリンの帰りが遅いのが気になった。リンの話を聞きたいから殺すなとハッキリ言ったし、グレアもそれを分かっている。まさか勝手に処刑されているはずはあるまい。
「あのね、なるぅ。エルベシアは他の人の体液から魔力をもらうのです。だからなるぅくらい魔力がいっぱいあったら、わざわざ危ない血じゃなくても、おしっこでも……」
そんなことを、救急箱に中身を片付けつつ整頓するクラリが言う。
「なに、生暖かい俺のションベンが入った容器を突き出して、飲めと。なるほど何のプレイだ、訴えられるぞ。体液ならなんでもいいってんなら、キスしてる方がまだマシだ」
「だ、ダメです! ちゅーは一番ダメです! そのやり方だけはクラリが許しません! 絶対にさせません! したらお口を縫います!」
「糸を持って言われると怖ええよ」
半ば真面目な話であったが、真っ赤になったクラリに怒られた。だがかわいいと思わなかったかといえば嘘になる。
そういえば、他にも身体に直接触れている状態でも僅かながら魔力の供給ができたはずだが、 ヘーゲル医師に言われて実践したときは、かなり時間がかかって大変だった。
血液以外の他の提供方法も、色々と難ありである。