第5話-B57 キカイノツバサ ポテチベース
「フッ――ぬぁあ!」
迎賓館裏手の芝生に生える、木の枝に括りつけられた二本のロープ。その垂れ下がったロープの先に、結んで作られた二つの輪。
数日後、俺はその輪に手をかけ、懸垂をさせられていた。
身体に火傷の傷はまだ残っているが、快方に向かっているし、運動できないわけではない。
「フゥゥッ! ――あ、無理」
途中で腕に力が入らなくなり、ロープの輪に手をかけたまま、ぷらーんとぶら下がる。
雨季特有の暗灰色の空。俺の目の前に、懸垂の回数を数える神都行きのメンバー五人。ざわざわと風が流れ、揺れる木の葉に乗っていた水滴の一部が、俺めがけこぼれ落ちた。
――これは、ブロウル・ホックロフト講師による、実用体育の授業である。
「ボスもうちょっと頑張れよ!」
「はぁ、はぁ……三回が五回になっただけでも、大進歩だろ」
懸垂の持続回数が、最初に懸垂をしたときと比べ、割合にして六十六パーセントも回数が増えたのだ。
ポテトチップスの内容量を通常でサービスするなら、だいたい二十パーセント増量程度を見かけたことがある。六十六パーセント増量といえば、その三倍以上である。
値段も据え置きで考えるなら、物価全体の変動でもない限り、六十六パーセント増量なぞ、日常的にやれば会社が傾きかねない。
そう考えると、これは大偉業と褒め称えられて然るべき記録の伸びだろう。
ちなみに、高校生ができる平均の懸垂回数は七、八回程度だと、学校の授業か何かで聞いたことがある。
元々帰宅部系の人間の実力でこの程度あれば十分だ。知るか。
「実用体育」という言葉は聞き慣れないものだ。神都に向かう途中で困難に直面したとき、それが必ずしも頭脳でスマートに解決できるとは限らない。身体能力に頼らざるを得ない場面では、己の貧相な体ゆえに、生き延びられる窮地も生き延びられないかもしれない。俺のような命が惜しいクズ人間にとっては由々しき事態である。
そのために自分の体を鍛え、基礎的な体力と運動能力、それから武術を身につけるのが実用体育だ。
この授業は屋外で基本的に行われ、たとえ雨が降っていようと授業を行う。俺としちゃ乗り気じゃない授業だが、理屈で自分をねじ伏せて我慢している。
例えば製作中の飛行艇は、操縦を補助する装置は入る予定だが、基本的に人力――つまり俺の筋力で動翼を直接動かし、機体の姿勢を制御する。
大重量の飛行艇を制御するために必要な力は推して知るべし。緊急回避を行えと言われたときのレスポンスは俺の力にかかっているのだ。
大事なことなのだ。雨ごときで中止にすることはできない。
「とりあえず、五回までは伸びたのは認めるぜ」
ブロウルの言葉を聞いて、ロープから手を離して地面に足をつけた。
「全然ダメダメな回数だけどな。センセとしちゃ、あとこの倍の十回はいってほしいな」
腕を組んだブロウルが近寄ってきて俺の背中をバシッと叩く。火傷の痛みはもうない。
確かに懸垂の記録は伸びたが、神都行きメンバーの中では最低の記録だ。
グレアは四十五回、ブロウルは三百八十六回、クラリに至っては、懸垂しながら雑談に興じるレベルで計測不能。
大人しそうなリンは、俺と同じくらいの記録かと思えば、圧倒的な八十二回。なんとグレアを大差で押さえた。
ここで俺の大躍進の記録を言おう。五回である。
「おめえ、それどころじゃなくてよ……そんな体力で、神都まで持つのか? 確かにお世辞にも運動ができるようには見えんが、現状ただの荷物じゃねえか。現状のお前を守りきる自信はねえぞ」
返す言葉も無い正論でグッサリ指摘するのは、今日実用体育の授業初参加の彼、記録四百五十七回のガル。九十歳を超えてなお、ブロウルを越える記録を持つ超人である。若かりし頃は七百回はいけたらしい。
「ガル。不安に思うのは分かるけど、アダチの住んでた世界は、もともと腕力をあまり必要としないところだったみたいだし、見た目は同じ人間でも、中身がぜんぜん違うの」
湿った草の上に腰を下ろして羽根ペンを手に持ち、懸垂の記録係をしていたグレアが、記録用紙を地面に置かれた編みかごに入れつつ言う。
「アダチは見た目の割にかなり重たくて、まるで金属でできてるんじゃないかと思うくらい重い。懸垂は私達よりずっと大変なはず。たとえアダチの背中に翼が生えたとしても、重すぎてまず飛べないわ」
彼女はカゴを持って立ち上がって、俺に近づく。
「そのかわり、アダチは足腰がすごく強い。地上を走る能力は速さ、持久力ともに私達には敵わない。走るなんて、飛べる私達から見れば完全に格下の能力だけど、ネズミみたいにすばしこく逃げ回られたら、捕まえるのは結構難しいんじゃない」
ロープのすぐそばにいた俺にカゴを押し付けるように差し出して、彼女はロープを見上げる。
「もう一回やっていい?」
一呼吸の間のあと、俺に尋ねて腕を捲し上げた。両腕に巻かれていた細いベルト状のホルダーと、それに取り付けられた鞘に収まったナイフが数本露わになる。
ベルトの留め金ごと外したそれを、俺に押し付けたかごの中に、さも当然と言わんばかりに突っ込む。俺はとっさに下敷きになりかけた記録用紙を引っ張り出して救う。
背と翼の間、腰紐の内側、スカートの内側、両足、果ては靴の底から、隠し持っていた刃物、ガラスに金属の装甲板にロープまでジャラジャラと出てきた。
以前スカートの内側の隠し収納に文書を格納して運んでもらったから、暗器の存在は分かっていたが、想像していたよりも多かった。次々と俺の持っている編みカゴが、詰めこまれるにつれて重くなる。
「物騒なことしてやがるなぁ……」
腕を組んで見ていたガルが呟く。
そもそも迎賓館の敷地は、守衛によって強固に守られ、空からの侵入を阻む結界も存在する。それも、VIPを守るに相応しいものだ。
「こうでもしてないと……その、怖くて落ち着けないのよ」
身軽になったグレアは、尻すぼみ気味に答える。
もしも俺が日常的に命を狙われていたらどうするだろうか。まず、当然ながら安全地帯から出ないだろう。どうしても出る必要があるならば、それなりの備え――グレアと似たようなことをしただろう。命を狙われる危険が更に増したならば尚更だ。
彼女がずっしり隠し持ってい武具は、編みカゴには収まらず。木の根元の草っぱの上にカゴと一緒に置く。回数は下から二番目だったとはいえ、総重量にして十キロ近くありそうな暗器を身に着けたまま懸垂をしていたとは恐れ入る。
「そんなにビビらなくたって、俺がお前もまとめて守ってやるっての」
ブロウルは呑気な声で景気よくイケメン発言をばらまく。
そうだな、俺も乗じて「俺一人で百人力だ安心しろ」とでも言って景気付けたほうがいいのだろうか。
んーまあ俺が守られる対象であるし、自分さえ守れる実力もないことを考えると、自己診断をするまでもなく、掛けられる言葉はむしろ「俺は足手まといだ、頑張れ」になるな。あはれなり。
「……フッ、なかなか格好いい提案ね」
グレアは少し恥ずかしくも嬉しげな表情を下に向けた。その表情をかき消して俺の顔を見た。
「ん? 言ってほしいのか?」
「いいわ。どうせあんたがマトモなこと言えないの知ってるし」
彼女は両手で縄を掴んで、懸垂を始めた。記録は百二回だった。
*
「じゃあ、私はもう戻るから」
「おう、お疲れ」
ひどく疲れているときはまた別だが、基本的に晩飯食って風呂入って寝るのパターンは、ここ迎賓館でも変わらない。
深夜十一時をちょうどまわったあたりで、グレアは自分の懐中時計を見て、本日の業務終了を言い渡した。それに俺は執務机から片手を上げて軽く応じる。
終わる時刻はまちまちだが、風呂に入った後のこのやりとりだけは毎回やっている。
イレギュラーは色々あるが、大まかな生活リズムに身体が順応してきているのは紛れもない本当の話で、今まで築いてきた遅寝遅起きのベーシックスタイルは、ことごとく破壊された。
なにせ、日本には腐るほどあった夜の娯楽がないのである。低予算でもキラリと光る深夜番組を放送しているわけもなく、この世界の電波環境は極めてクリーンであることは想像に難くない。
パソコンで動画サイトを見て一人ニヤけることもできず、暗闇の中、布団に潜って青い光で自分の顔を照らしながらポータブルデバイスで娯楽に興じることもできず、腹が減ってもコンビニなんて気の利いた店はない。
元いた世界では、貴族は学問を趣味としていたという話を聞いたが、寝るか、読書をするか、考え事をするかの三択しか基本ない俺の現状を踏まえて再考してみると、なるほど納得できる。……ああ、下が喜ぶ娯楽はあるだろうな。
まったく、こっちのひどく健康的な生活によくもまあ矯正されちまったもんだと、グレアが部屋を出てドアを閉めていった音が部屋に響くのを聞きながら思う。
「あぁ~――寝るか」
あくびをして寝室に向かう。ついでにケツもかく。起きてても腹が減って苦痛を味わうだけだったりする。グレアに事前に頼めば、深夜の間食用に何か用意してくれるだろうが、そこまでして起きている理由はなく。だがそれよりポテチが食いたい。
「おい、いるのは分かってんだ」
ここ最近の、寝室に入って寝る前にやる新習慣は、そう強く言ってベッドの下を覗き込むことである。火災があった日の夜、クラリがここに潜んでいたからだ。今日はいない。断定調の俺の言葉が虚しく部屋に消えていくが、俺以外誰も聞くことができないのだから別に構わないのである。
ベッドに入ろうかというとき、遠くから廊下と執務室とを仕切るドアを叩く音が確かに聞こえた。
「はいはい、あいよ……」
気乗りはしなかったが、確かにノックされたのだから応対せねばなるまい。もしノックが一瞬遅くて、ベッドに潜ったあとならば、ドヤ顔で寝たふりを決め込んでいただろう。つくづく運のいい訪問者である。
「ん……どうした?」
そんな、あまり歓迎できない心境でドアを開ければ、顔色の悪いリンが身体を震わせて立っていた。
「どうした、体調でも悪いのか」
リンの額に手を当てた。特に熱があるわけではない。だがリンは辛そうに唇を噛み、全身から血の気が引いているように見えた。今まで大人しかったリンが、こんな時間に一人で来る。それだけで異常なことだ。
リンの身に起きていることは何かと、頭が勝手に該当するデータを探し始める。全然検討すらつかない。
だがリンは小さく震えた声で、確かに俺に言ったのだ。
――助けて、と。