第5話-B23 キカイノツバサ 救護室にて
「どういたしましたか?」
揃ってそう聞くが、みな分かっているだろう。
さっきの対獣テストでこぼした言葉。リンが山で働く猟師の父親の娘だったという話は、以前本人から聞いた。ああやって目の前で殺されていく動物の死体は今までにも見てきているだろう。
"本当に「殺し」に特化してるんですね……"
あくまでも推測でしかないが、この一言に全てが詰まっていると俺は考える。あくまで猟師の父親は「食料を得るために殺す」のであって、ここでさっき行われたそれとは違う。ただ蹂躙するだけの下劣な殺しに、強烈な嫌悪感を覚えたに違いない。
「リン、一度一緒に人気のないところに行って休もう」
俺は立ち上がり、冊子と筆記具を座っていた席の上に置いた。こんなガヤガヤとしたところにいても、落ち着けるものも落ち着けないだろう。ロイドは観客に混じっている見張りの護衛に、何か合図を送っていた。
メルが立ち上がった。
「いえ私がご案内しますので、アダチ様はそのまま」
「じゃあ三人で一緒に行こう」
「三人で行ってどうするの?」
隣のグレアが横から口を挟んだ。
「三人で席外して、これは誰が見るの? 誰が、評価するの……?」
最初勢いの良かったその言葉は徐々に失速して、竜頭蛇尾。グレアが何を思って語勢を弱めることになったのかは分からない。だが確かにグレアの言うことも正しい。リンのことはメルに任せて、俺はここに残ったほうがいいのだろうか。立ち上がったままの俺は、視線を斜め下に向けた。
選抜とリン。どっちを選べばいい? 頭の中で二つがぶつかり拮抗する。
一度きりであろう大事な選抜の席を外すことで起こる損失は大きい。俺と合いそうな人物がいても、席を外した俺の目には留まらない。
一方、リンにはここ最近あまり構ってやれず、一人にさせてしまいがちだった。ここに残って選抜メンバーを決めることに重きをおいて、またリンを一人にさせてしまうのか?
「…………。」
俺の身体が二つあれば、などとくだらん考えもよぎったが、すぐに埋めた。そんな非現実的なことを考えても仕方がない。
「……アダチ、雇う人の目星は決めてるの?」
「一応、一人だけだが目をつけてる」
「じゃあやっぱ行ってきなよ。代わりに私が見てるから」
どっちつかず俺の背中を押したのはグレアだった。何を思い直して立場を変えたのか分からず一瞬勘ぐったものの、その言葉をすんなり受け入れることにした。
彼女は俺が座席の上に置いていたそれを黙って取り上げた。少し強引な気もしたが、それも恐らく後押しの一つだ。
「それで、何をチェックしながら見ればいいわけ?」
足を組んで偉そうに聞いてくるグレア。ロイドは合図でやり取りするのに気が向いてしまっていて、近くで部下がとんでもない無礼を働いているのに気づかない。
俺はグレアに判断基準を手短に伝え、メルと一緒にリンを連れてその場を離れた。
「いかがなさいました?」
観客席の出入り口付近で、施設の管理者が待っていた。髪の毛がカッパ状態になっている、少しばかり残念なその男。ロイドと護衛との間で交わされたやり取りの結果、事情も分からず呼び出されたらしい。さすがに合図のみでのこと細やかな意思伝達は、手話のような専用の言語でもない限り難しいだろう。
「さようですか。では救護室をお使いください」
俺が事情を説明すると、管理者の男は俺たちについてくるよう言った。一旦ここを出て、静かな場所を探して腰を下ろそうと思っていた俺にとって、その提案はありがたかった。
部外者立ち入り禁止のその先の通路へと案内され、いくつかの部屋がある中の一つで立ち止まった。
「ここは観客席でお怪我なされた方も利用いたしますので、予めご了承願います」
「悪い」
彼は腰のジャラジャラと音が鳴るほどの大量のカギの中から、赤い布切れをくくりつけているカギを取り出して、ドアに差し込む。部屋にカギがかかっているわけだから、今は人はいない。
管理者はメルに救護室の鍵を預けて、静かに去っていった。部外者だからだろう、対応はマニュアル的、ドライだった。
救護室は外側の観客席の下。円形の建物の外周に位置しているおかげで、窓から外の光が入り暖かく、明るかった。救護室の棚には、薬であろういくつもの瓶が並んでいる。どれも栓はしているものの、独特の薬品臭さというものは防げず、部屋に染み付いていた。学校の保健室を思い出す匂いだ。それがちょっと青臭くなったような匂い。
「とりあえず座ろう」
リンを救護室のベッドに座らせ、俺とメルはリンの両隣に座った。三人の重みにベットが音を立てた。
「……やっぱ、あれは辛かったか?」
少しドタバタしてしまって、今ようやく、リンの詳しい様子を認識する余裕ができた。
呼びかけに一歩遅れ、俯いたまま小さく頷いた。太ももの上に置いた両手を握り締めるリン。声を上げることなく、嗚咽を我慢して静かに泣いていた。息継ぎをするように出た嗚咽と一緒に零れた一滴は、右手の親指付け根に落ちて線を描く。
「辛かったら我慢せずに言えって、言ったじゃねえか」
リンは最初から、我慢していたに違いない。あのとき見えた手の平に残る爪の跡は、指に力が入っていた証拠だ。
「悪かった」
「正直、俺もあそこまでえげつないものを見せられるとは思ってなかった……つっても言い訳にしか聞こえないよな」
確かに、俺に考え方は甘かった。本能で生きる動物相手に、血を流すことなく、寸止めで勝敗を決めるのは無理な話であることを、理解して誘うべきだった。
「メル、ちょっと悪いが何か口にできるものを買ってきてくれないか」
「かしこまりました」
人払いってわけじゃないが、どうも自分とリン以外の人物がいると話しづらかった。メルからここの部屋の鍵を預かると、彼女は静かに出ていった。
「……。」
「…………。」
間の悪い沈黙。窓の外から聞こえるくぐもった歓声が部屋中に響き、場違いな優しい日差しが降り注ぐ。
どう話をすればいいのだろうか。俺の経験マニュアルにはこのような事態に遭遇した場合の記述は一応あるものの、対処法には"臨機応変"の四文字しか刻まれていない。この場合の臨機応変ってなんなんだよ。
急に身体が重くなった。肩に何か重いものが乗っていると思ったら、リンの両腕だった。抱きついて、俺の脇に顔を埋めて泣いていた。
「気分が悪いなら、ベッドで横になってもいいんだぞ」
リンは黙って首を横に振った。
「……怖かった」
全身がひどく震えていた。恐怖からか抱きつくその力が強かったが、このままじっと抱かれたままでいるのが、この場合の臨機応変な対処法のようだった。
リンをここに連れてくるのは失敗だった。これからどう話題を切り出して別の気持ちへ逸らそうかと考えていても、その気持ちが割り込んで邪魔してくる。彼女が猟師の娘だったということ、砂漠で賊に会ったときに感じた、ただ者ではないような雰囲気。この二つを誘っても大丈夫という安心材料にしていたことは、今思い返せば少なからずあった。だが中身は女の子。失敗だったわけだ。
「もう、あの場所には戻らなくていい。終わるまでここでここで休め」
最初は気分が落ち着いたら戻ろうと言うつもりだったが、この様子である。ここで休んだからもう大丈夫、と言えるまでに彼女が回復する気がしなかった。そりゃ、リンの性格を考えれば、少し気分が落ち着けば無理してでも「大丈夫」と言うだろう。当然、それは心からの言葉ではないわけで。
「多分、戻ったら今以上にキツくなる」
長距離を走った後に小休止してまた長距離を走る。俺の勝手な推測だが、彼女の心境はそんなものだろう。今はその小休止の場所にいるが、はじめに長距離を走った時ほどまでに体力は回復しない。
トレーニングをしているのなら話は別だろうが、そうでもない状況で彼女をまた走らせるのは酷というものだと思った。
「……。」
彼女は何も返さなかった。
そっと彼女の背中に手を回す。こんなことをするのは気恥ずかしいこと極まりないが、黙って受け入れるのが最善だ。手が触れた背中の大きな白い翼は暖かく血が通い、さらさらしていた。気恥ずかしさから頭に血が上る感覚があった。
「リン、悪かった。こんなところに連れてくるなんて浅はかだった」
場を読まず上気する顔と裏腹に、脳は不思議と冷静だった。繰り返し割りこんでくる後悔の気持ち。今度は思うだけではなく口にした。
「ここでどういうことが行われるのか、事前にしっかり確認しておくべきだったん――」
「――違う。私が悪いの」
「違うわけないだろう」
リンは俺に埋めた顔を横に振った。それは、"私が我慢できなかったからこうなった"というニュアンスに聞こえた。
「我慢できなくなって泣いたリンよりも、そんなものを見せた俺に責任がある」
リンはまた首を振って否定した。リンの頑なな性格を考えると、話をすればするほど自分の意見に意固地になって、思考に柔軟性を失うのは見えていた。
「……とにかく、終わるまでここにいよう。無理して辛い思いをすることはない」
それからの無言。リンは俺に対して何も話さなかった。落ち着いてきたのか、さっきまで頻繁に上下させていた肩も、今では大人しくなった。
次第に、俺にかかる体重が増えてきた。
「……リン?」
「…………。」
「ちょっと、重いんだが」
返事はなかった。それでも俺にもたれ掛かる力が強くなっていっているあたり、俺の言葉は届いていないようだった。
「まさかのご就寝かよ」
いつのまにか、泣き疲れて眠ってしまったらしかった。……俺にしがみついたまま。そっと引き剥がそうと試みるが、引き剥がしても形状記憶合金のごとくまた元に戻ってしまう。
「うぃしょ」
俺は足先を駆使して靴を脱ぐと、リンの身体をベッドの奥まで持っていった。あの病気の看病で慣れた俺にとって、こんなことは造作もない。そう心の中で強がってみたが、状況が状況だけに、靴を脱がせて持ち上げて、きちんと寝かせるまでは結構苦労した。
こんなことを言うのもなんだが、大好きなシーツを掴んで放さない子供のように粘り強く抱きつく腕が、少しばかり鬱陶しく思えた。
「申し訳ございません、遅くなりました!」
リンを適当に横にさせたところで、タイミングを見計らったかのようにメルが盆の上に食器を乗せて戻ってきた。やや大きめの声を上げて入ってきたメルに、俺は口元に人差し指を立てた。
「さっき寝ちまったところだ……選抜が終わるまでしばらく寝かせてやってくれ」
「かしこまりました」
メルは医師用と思われる机の上に盆を置いた。彼女が持ってきたのは花茶と軽い焼き菓子だった。迎賓館では見るような品ではなく、どこかこの近所の店から調達してきたもののようだった。
「お疲れさん。わざわざ遠くまですまなかった」
「いえ、この程度」
メルは俺に茶を差し出した。
「匂いをかぐと落ち着けるものを選んで参りました」
「俺にそんな気の利いたマネはできんな」
きっとどこからか水を持ってくるのが精一杯だ。そう言うとメルは口元をゆるめて、「そんなことはありませんよ」と答えた。いや、マジで俺はそういう細かい気配りはできないし。むしろちょっとした変化で察せるような奴はエスパーか何かだと思っている節さえある。
お茶に口をつけた。甘い匂いがした。味の方は、匂いに吊り合わない質素で淡白な味のように思えた。実際淡白なのもあるだろうが、迎賓館で「砂糖慣れ」してしまったのも一因だろう。
「ごちそうさま」
メルとひとしきり話をしながら花茶を飲み干し、ティーカップを盆の上に戻した。
「さて、そろそろ俺はあっちに戻る。リンのことよろしく頼む」
「かしこまりました」
グレアに手伝わせているし、ここでのんべんだらりとしているわけにもいかない――という建前より、そんなことをしていたのがバレれば、彼女に何をされるか分かったものじゃないという不安も多少ある。かもしれない。
何を思ってこの場を去るのかはご想像にお任せするが、正直に言うと、そう――ここでサボりたい。
怠惰癖は、ちょっとやそっとじゃ治らんのだ。
「終わったらまたここに来る」
俺は通路に出て静かにドアを閉めた。
「ふむ……」
なんとなくだが、リンとの会話が噛み合っていなかったような気がするのは俺の考えすぎだろうか。前にもこんなことがあったような、なかったような……。
「細かいことは気にしても仕方ねぇ」
もと来た道を思い出すことに意識を傾けた。