第5話-A43 Lost-311- 診療所への道のり
「ふうん、そうなの……」
姉さんはそう言って一つため息をついた。ルーと同じように姉さんにも意見を求めるべく、今朝からのルーの店へ行くまでのリンの様子のことを話したのだ。姉さんが包丁片手に腕を組んで考えこむ間、俺は姉さんの椅子に座ったまま、どうしても気になる詰め物を手でちょこちょこ微調整する。
「あんまりイジっちゃダメよ」
「へい」
「うーん、それでさっき、一旦家に戻ってここに戻ってきたということね」
「そこなんすけどね……」
「なに、また何かあったの?」
姉さんは俺の隣まで近寄って、床に紐でくくられて膝の上ほどの高さまで山積みされている紙の上に、俺と向き合うようにして腰掛けた。
「頑なに有給取らせようとしたのも気になるっすけど、
家に戻ったらあからさまに慌てた様子だったのが気になるんすよね。
いきなり口を雑巾であてがうほどに」
姉さんはそれを聞くと一つ、小さな笑いをこぼした。
「女の子には人に見せたくない秘密がいっぱいあるからね。特に男の子には。
そんな大した意味ないって。あんたちょっと深く考え過ぎよ」
「しかし相当慌てた様子だったわけで……」
「そっとしておいてあげなさい。
秘密や隠し事をするのは、全部理由があってのことなんだから。
有給とそれが関係しているのかどうかは知らないけれど、
結局リンちゃんが何かを隠すのも、何かしらの理由があるのよ」
それは俺も同感である。俺は小さく頷きつつ話を聞く。姉さんは更に続ける。
「バレちゃったときは仕方がないけれど、
そうなるまでは知らないでおいてあげる、見て見ぬフリしてあげるのが一番」
つまるところ、隠し事の中身はともかく、人が嫌がる事にわざわざ首を突っ込むのはやめておいたほうがいいという見解に変わりはないようだ。同性同士の意見ということもあるし、隠し事の見解については俺よりも姉さんのほうがよく分かっているだろう。俺はここで生まれ育ったわけではない。だから予想がつかない理由があっても何ら不思議でもない。
「俺の意見と一致しました」
俺は言って立ち上がった。そんな俺を、まだ腰掛けたばかりの姉さんは意外そうな顔をして見上げる。
「もう行っちゃうの?」
「これから医者のところまで行って精算しなきゃいけないんで。診療所の場所、教えてもらえますか」
「ええ」
姉さんも立ち上がった。包丁を机の上に置いて部屋を出る。階段を降りつつ場所を聞くと、どうやら診療所はここからさらに遠くまで行かないといけないということだ。診療所はナクル市街地外れの森の近くにあるという。ちょうど姉さんの店が、俺の住む家と診療所の3分の1の地点にあたるようだ。これから3分の2、つまりここまで歩いてきた距離からさらに2倍も歩かないといけないらしい。……歩くのだるっ!
飛べるってマジで羨ましい。道を右に左に曲がらなくても、スパッと一直線に移動できる。そんな遠距離をものともせず、短時間で医者を呼びに行ってくれた、あの時の姉弟。飛翔速度はとんでもなく速かったんだな。地面にへばりついて時速4kmでトロトロ歩く俺の非効率さがバカバカしく思えてくる。
「そういえば、子供いませんね」
子供で思い出した。普段ならどこからか遊ぶ声が聞こえてくるのだが、今日はその声もなく、家の中は妙に静かである。姉さんは納得したように小さく2,3回頷いた。
「今日はね、友達の家に遊びに行ってるの」
「へえ、そうなんすか」
「うん、幼い頃の縁は一生続くからね。
あ、そうだ! せっかくだからマッサージ屋に行くといいわ!
重荷って言っちゃ、リンちゃんに失礼かもしれないけど、結構足腰痛んでるんでしょ?」
「自堕落者には重労働っすね」
「そんな、謙遜しちゃって。真面目で働き者じゃない!」
「あー、はは……」
あっちの世界では自堕落を極めている俺である。あっちの世界の顔とこっちの世界の顔。こっちでいろいろ緊張して硬くなってたら、いつの間にか自然と2つの顔ができちまった。そろそろこっちでも自堕落的な生活がしたくなるところである。
「ちょうどヘーゲルさんところの3件隣がマッサージ屋になっててね。結構評判なのよ!
あたしも子供が小さい時は、抱っこしておんぶして、そのまま早朝まで店やってっていう時があって。
その時は時間を見つけては足繁く通ったものだわ」
「そうなんすか」
どこの世でも母は強いものと決まっているようだ。
「結構キツめのマッサージだけど、これがよく効くのよ。余裕があったら、今度いってらっしゃい」
「帰りにでも寄ってみることにします」
姉さんが先ほど俺が鼻血ブーした裏口のドアを開けてくれた。それに甘んじて外に出て、一歩目を踏み出す。足元の砂利が鳴る。
「どうもありがとうございました」
今までの親切に感謝を述べた。また今度近いうちにお礼をしなくては。姉さんはドアの枠に手をかけ、家の中から身体を乗り出す。
「あたしね、彼女はまだ辛いんだと思うの。優しくしてあげてね」
「へい」
そう答えると、姉さんはニコリと微笑みつつ、結構な勢いでドアを閉めた。……忙しかったのだろうか。
いろいろ悩み事はあるものの、勇者や魔王といった、勝つか負けるか、喰うか喰われるかのような世界から遠く離れた、比較的平穏な生活ができていることに感謝する俺であった。
2倍の距離はダテじゃなく、やっとこのことで診療所にたどり着いた。診療所は石造り。周囲の建物の中でも数段大きく、両隣に建つ一般的な家の3,4件分ぐらいの幅を占領している。見た感じ3階建てのようだが、軒並み2階建ての建物が並んでいる中で、この診療所はその2倍ほどの高さがあった。1階あたりの天井の高さが他よりも高いということなんだろう。窓も他の建物に比べ大きい。アンティークな彫刻まで入っている。診療所というからには、こぢんまりとした小さな建物だろうと想像していたが、こりゃまた豪勢なものである。
建物の入口は木と金属でできた観音開きの大扉で仕切られていた。大扉の前に立つと、まるで自分が小人にでもなったかような気分だ。重い扉を押し開けて診療所の中に入る。
「重い……」
この扉、結構体重をかけないと動かない。診療所の目の前で命尽きて倒れている患者がいれば、間違いなくこの大扉がトドメをさしたと断定できるね、これは。
中は予想通り天井は高かった。しかし外見に比べ内部は意外と飾り物は少なく、簡素な作り。意地悪な言い方をすれば、外見だけ立派な張子の虎である。
入ってすぐの場所に設置してあった木製の長椅子に、診察待ちの数人が座って並んでいる。普通、病院では静かにするのがマナーだが、ここではどうも違うらしい。見ず知らずの人と和気あいあいと話しながら、自分の診察順番が回ってくるのを待っている。その様子は、まるで居酒屋のようだ。診察を待つ人の端に、ちょうど同い年ぐらいの若い女の人が座っていた。
「あら。あなた、あの花屋の方でしょう?」
俺の元まで歩いてきたロングヘアーの容姿端麗な美人。手には、羊皮紙とインク。俺に翼がないというインパクトと、あの事件とで広がった知名度のせいもあって、相手は俺のことを知っているようだ。しかし、当然のことだが俺は彼女が誰かは知らない。
「え、ええ」
とにかく無難な反応を示して、相手の出方を見る。彼女は一歩俺に近づく。そして男性脳なら嫌が応にも目に入ってくるのはその…………結構大きい、あれ、である。あれが一瞬目に入ってから、無意識のうちに視線が彼女から離れていく。もしかしたらこの年で既に枯れているのではないかという自己診断が下り、少々の危機感を覚える俺。
「話は夫から聞いています。なんでもあの石を一瞬で割ったそうですね」
「石?」
夫という言葉でこの女の人はヘーゲルの奥さんだということは分かった。ヘーゲル、あんなすました顔しやがって、やることはやってんじゃねえか。だがそれよりも石ってなんだ? 俺は瓦割りをやったわけでもなければ、空手チョップと気合いで大岩を一刀両断したわけでもない。何のことだったか、すっかり忘れてしまっている。
「覚えていませんか? 夫があなたのお宅へ訪問した時――」
「あ、あ~! その節はどうもご迷惑をおかけしました」
そういえばこの間、なんか魔力量検査で「石持ってみろ」って言われて持ってみたら、速攻で神々しく光り輝いた。んでアツアツで持てなくなって割っちまったんだった。
「アレはお幾らぐらいするものなんですか? そのうち必ず弁償しますので――」
「あーいえいえ、弁償なんてとんでもない!
それよりも夫が『あなたの魔力量がどれだけのものか、もう一度検査したい』って言ってましたよ。
あの後、あなた用の測定器具の製作に夢中になってて、最近彼、あんまり寝てないんです。もう心配で心配で。
昨夜、ようやく完成したみたいですけど」
「おう……」
つまりそれは、気になる彼は俺に夢中ってことか。奥さんほっぽり出して俺の研究始めちゃったって、そういうことだろ? ヘーゲルって冷静沈着であまり私情にとらわれない人だと思ってたんだが、意外とバカと天才は紙一重みたいな所があるのか。苦笑いを浮かべる女の人。
「ところで、お名前は? 私はマール・レエスラ・ヘーゲルっていいます。マールって呼んでください」
彼女は右手に持っていた紙とペンを左に持ち替え、手を差し出した。
「アダチ・ミツヒデと言います。コウって呼んでください」
俺もマールの手を取り軽く握手を交わした。素知らぬ顔をしてはいるが、視線は磁石のように彼女から反発する。絶対内気な奴だと思われているぞ俺。マールは握手を終えると、腰に挿し込んであったペンを取り出して、早速紙に書き込みを始めた。紙の内容はよく見えないが、今書き込んでいること以外にも、色々と書きこまれているようだ。
「――ミツヒデっと……不思議な名前ね。
呼び名も名前と全く関係がないのも、これまた不思議」
マールはそう言って書くのをやめると笑った。確かに不思議な名前かもしれないが、そうなるとあのサチコは一体どんな評価を受けているのだろうか。やっぱり不思議と思われているのか?
「今日はどのような用事でここに来られたのですか?」
「治療費の会計でここに」
「歩きで、ですよね。時間かかったでしょう?」
再びその紙にマールは書き込みを始めた。彼女はどうやらここに来院してきた人の名前と、その要件をその紙に書き留めて記録しているようだ。一通り書き終えたらしいマールは、さっきマールが座っていた席に俺を座らせると、順番が回ってくるまで待ていてと指示して、奥の階段を上っていった。階段の踊り場には大きなステンドガラスが嵌めこまれていて、七色の光がチリを輝かせながら階段を照らしていた。描かれているのは宗教的な何かだろうか。俺にはその階段のガラスをよく見ようと首を伸ばすが、ここから見えるのはステンドガラスの一部だけで、詳しいところまでは見えなかった。
「よう、若造!」
隣に座っていた顔を赤らめたオッサンが声をかけてきた。オッサンとさっきまで話していた連中も、俺に顔を向けて「兄ちゃん俺達と一緒に楽しくやろうぜ」的な熱い視線をガンガン送ってくる。エネルギッシュなのはいいが、俺の現在の状況では、彼らのテンションに合わせようとすると気力的にしんどい。無難に笑顔で返して相手の様子を伺う。
「噂は聞いてるぞ羽無し。お前、悪党をぶっ飛ばしたんだって?」
「はあ、まあ……」
疲労時にこんな風にして絡まれるのは今までにも何回かあったし、だいたいのかわし方は心得ている。相手に適当に喋らせ、質問はすでにテンプレ化している回答を組み合わせて機械的に対処。そのうち相手が飽きてくるからそれまでただひたすら待つという作戦だ。……かわせてない? ま、まあ、楽に対処できりゃいいんだ、楽に。
「複数相手に一人身で突っ込んでいくなんて大それたことをするからには、
さぞガタイのいい奴なんだろうと思ってたんだが、意外や意外、まさかこんなヒョロだったとは!」
うるせー! ヒーローはマッチョが定石だとというのは認めるにしても、別に反例がいたっていいだろうが。そんなオッサンの口からもわもわと放たれるのは酒臭。診療所来る前に酒飲んで酔ってるってアウトだろお前。このオッサンは肝硬変あたりで逝くような気がする。このおっちゃんによる不快指数の上昇率は、ルーのそれを超える勢いである。しばらくの間、隠した左手の握り拳は開けそうにない。