第5話-A39 Lost-311- それは俺次第
「…………。」
「………………。」
「あー、リン?」
このような場合どう対処すればいいのか。いい対処法が見つからない。いきなり抱きつかれたせいでバランスを取る時間もなく、重心が両足のかかとに集中している。少しでも押されたら転倒してしまいそうだ。だが無理に引き剥がしたり、バランスを取りなおすような雰囲気ではないことは分かる。やはり、リンが満足するまで、このままの状態で我慢するべきなんだろうか。ため息すらつけない微妙な雰囲気の中、時間だけが流れていく。
「……ねえ」
「ん?」
立ちっぱなしでかかとに痛みを感じだす頃になって、耳元のリンの口からようやくポツリ、ひとつの単語が飛び出した。
「えっと……ちゃんと聞いてくれる?」
「……ああ」
「私、本当はね……」
「すみませ〜ん! 今日は店休日ですか〜?」
「あっサーセン! 今開けます!」
「ごめんなさい! 今開けます!」
幸か不幸か、下から聞こえてきた一人の客によって、俺とリンの間にあった変に厳粛な雰囲気は、完全にぶち壊されてしまった。リンは復帰早々仕事をするつもりだったらしく、俺を押しのけ台所出口へと駆け出していく。そうなれば当然、俺はこうなる。
「アォ!」
急な押し出しに対応出来ず、俺は垂直に立てた棒が倒れるように、そのままケツを床に思いっきり強打。高校生の体重はそれなりにある。特に重たいらしい俺が、高さ数十センチからのヒップドロップを繰り出せば、この世界の住人専用設計である木造二階建てが、重苦しい音を立てて振動するのも無理はなかった。
「あっ! ごめんなさい!」
台所を出たところで俺に気がついたリンは、入り口から顔だけ覗かせて謝ると、スントントントンと階段を駆け降りていってしまった。
「骨盤割れたらどうすんだよ……」
ポンコツだポンコツだと散々けなしている俺の身体であるが、俺が思っている以上に耐久性は高いらしい。ケツを押さえて十数秒間、のたうち回って痛みを満喫させられながらも、こんな丈夫な体で産んでくれたお袋に感謝する俺。とは言ってもヒザとか腰とかいろんな場所にガタが来ているのは明らかで、しばらく激しい運動は控えたほうがよさそうだ。
「あと少しで店を開けますから〜!」
階下からリンの声が聞こえる。台所の窓を開ければ、日がいつもより高い場所にあった。リンの身体ことばっかり気にしてたから、寝坊してるかもしれないなんて考えつかなかったぜ。ルーから貰ったパン一式が入ったカゴを持って、俺も階段を降りると、ちょうどリンが店のシャッターを開いたところだった。
「コウさん、悪いけどそこの花を通りに出して陳列してください!」
「分かってるって」
まるでゼンマイを巻きすぎたおもちゃだ……病み上がりなんだから、もうちょい大人しくしてた方がいいんじゃないか? そう思いつつも、店の前の人だかりを対処する人員が増えたことに嬉しさを感じる俺がいるのも事実。持ってきたパンカゴを会計カウンターの端に置いてみる。お、これは風情が出てていい。俺たちの食事用だが、少しの間、店の飾り物として置いておくか。
それはさておき、インテリア以前に肝心の陳列作業である。これをしなくて店のドレスアップばっかやってニヤニヤしてるようじゃ、本末転倒だからな。
「よいこらせっ」
シャッター脇の通路に並べてある商品を店の前に引っ張り出すと、やっぱり腰が痛む。
「お客さん、空いてる通路からお入りくださーい!」
リンの誘導を聞きながら作業する俺はしみじみ思う。「この痛み、魔法で一発どうにかならんのかね」と。しかし俺がルーに爆弾投下された際、通行人が回復魔法で治療してくれたはずが、傷に全く効き目がなかった事を考えると、俺に魔法は無効なんじゃないかと思ってしまう。
「だとしても説明つかねえよな……」
もし魔法が効かないなら、同様の理由で俺は魔法が使えなくて当然のはずだ。……わかんね。ま、俺に回復魔法を当ててくれたのは、あの時の通行人ただ一人だけだ。そいつが発動方法トチっただけ、という可能性も捨てられない。それに、効かないなら効かないでそれなりの治療を施せばいいだけだ。いくら魔法が普及しているとはいえど、湿布の一つや2つぐらいは売ってるものと信じたい。
「よし、陳列一丁上がり」
陳列作業が終わってカウンターに目を向ける。陳列しながら同時並行で営業するスタイルをリンがとったため、案の定カウンターは会計待ちの人で溢れている。俺が援護に回るのは当然のことだった。横で会計をするリンが、店の常連客に「元気そうで」と言われる度に見せる笑顔は、色眼鏡抜きで、かわいらしかった。
*
「二人で店番するのは本当に久しぶりだ」
「ほふでふえ(そうですね) ……ぷは、私はそんな実感はないんですけど、10日、でしたっけ」
朝食は、やはりラッシュ終了後にとることになった。この時間帯だと必然的に朝飯と昼飯の中間になる。俺は昼食のことも考え、朝食は小さなパン2〜3個ぐらいに留めておくことにした。対照的に、リンはマトモな食事をとってなかったこともあってか、カウンターのイスに座って40センチはありそうな特大サイズのパンをひとつ、丸かじり。腹の空き具合は相当だったようで、会計ラッシュの大事な時に「ギュルル……」と、隠蔽するにはあまりに大きな音が鳴るほどだった。俺も客も気づいてないフリをしているなか、リン一人だけ“私が犯人です”と言わんばかりに顔を真っ赤にさせていた。
そんなリンの飲み込むスピードは俺もビックリなほど早く、さっきから頬がリス状態である。
「そんなところだ」
今日もお行儀悪くカウンターに腰掛けてパンを食べる俺。商売中心の話になるからあんまり言わなかったが、売れれば売れるほど仕入れの仕事が大変だ。薄利多売方式は、確かに商品単価が安い分、客からすれば嬉しいことこの上ないことだと思う。つまりそれはそれだけ多くの客がこの店のように押しかけてくるわけで、店の負担は収入に比例して大きくなる。客の調節に値段調整することも、俺は考え始めていた。
「ところで」
「何ですか?」
「さっき、リンは俺に何を言おうとしてたんだ?」
その時、パンを食べるリンの手が止まった。一瞬視線を落として、口の中のパンを飲み込む。リンは俺に顔を向ける。……笑顔だった。
「やっぱり、いいです。今朝のことは、忘れてください」
「そうか……」
俺はそれ以上何も言わず、通りを行き交う陽気な流れを、薄暗い店のカウンターからぼんやりと見つめた。そして俺の脳裏に浮かんだのは、今のこととは何の関係もない、昨晩のロイドの話だった。
「もし、俺がずっとここに住もうと考えてたら……もっと言えば戸籍を取得しようと考えていたら、どう返事する?」
「どうって、誰がですか?」
「お前も神使も」
リンは少し黙り込んで、パンをまたひとかじりする。やや躊躇するような間があってそれを飲み込むと、静かに目を閉じて沈黙。
「……そんなことがあったんでしたね」
「昨日の話、聞こえていたのか?」
「今、神使様が教えてくれました。昨日だけじゃなくて、あの後コウさんがどんなことをしたのかも」
神使様は、あなたは大切な人だから、とおっしゃいました。リンはそう言った。
「気兼ねなく、自由にしていて良いそうですよ。私も同感です」
「なるほどな……」
つまり受賞を引き受けるかどうかは俺の自由だ、ということか。俺としては波風立てずにひっそりと大人しく暮らしていたい。人前に立つなんて、音楽祭でもう懲り懲りだ。音楽祭の後遺症で何故か軽音楽部とオーケストラ部から執拗な勧誘が来たことからも分かるように、有名人になるとロクなことがない。それに何かちょっと失敗すりゃすぐ叩かれるし。
でも俺の部屋、ガラ空き同然だしな……最低でも安らかな眠りが得られるベッドぐらいは欲しい。受賞すりゃ多少なりのコレが転がり込んでくるだろう。その金でベッドを買う。それもアリだ。俺はパンを完食して立ち上がった。そろそろ水やりの時間だ。
「分かった。リン、サンキューな」
「サンキュー? ……産休!? まさか寝ている間に――!」
「いやいや、違うから! こっちの世界で『ありがとう』って意味だ」
リンは顔を真っ赤にしてドン引きしたが、俺の説明を聞いて安心したように一息ついた。
「もう、この人ややこしいです!」
どうやら、日本語は通じるものの、外来語について通じないものもあるらしい。