狼騎士と羊の癒術士
ガリガリ、ゴリゴリ。素朴なエプロンをつけて台の前に立つ女性の手元から、繰り返し音が聞こえてくる。音につられて近づけば、ふわりと爽やかで、独特な草の香りが広がる。
「おかあさん、なにしてるの?」
自分の背丈より少し高い台の上を覗き込もうと、小さな女の子は作業を続ける女性の傍で、背伸びをした。
「あなたのお薬を作っているのよ」
「おくすり?」
意味はわからずとも母の声が自分へ向けられたことに満足したのか、幼い子供の興味はすぐに別のものへと移った。台の上をぐるぐると周り、少女の頭上からひょこりと顔を覗かせたのは、小さな赤い蜥蜴。
「あなたもおてつだいしているの?」
少女は親しい友達に話しかけるように、蜥蜴に手を差し伸べる。蜥蜴はその掌の上に乗ると、少女の問いに応えるように、開いた口から僅かに火を吐き出した。
吹きかけられた煙とともに少女はくすくすと笑い声をあげ、ふと天井を見上げる。そこには色とりどりの光を放つ精霊たちが、ふわふわと漂いながら、明滅を繰り返している。
「あなたたちも、そうなのね」
まるで自分たちもここに居ると、そう主張しているかのような動きで少女の周りを飛び交う光は、作業を終えた母親が少女に近づいたことで、緩やかにその場を離れた。
「はい、ルーシャ。口を開けて」
言われるままに少女が口を開けると、とろりとした黄金色の液体と一緒に、緑と輝く粉末が木の匙に乗せられて、そのまま口の中へと運ばれる。
舌から感じる青い草の香りと、僅かな苦味、けれどそれを包み込むような蜂蜜の甘さは、きっと母親の愛情だ。
少女がにっこりと笑うと、女性は腰を屈めて少女の白い髪に手を伸ばし、耳にかける。
「いい? ルーシャ、これからお母さんの言うことをよく聞いてね」
少女の大きく丸い金の瞳に、普段よりも真剣な顔をした母親の顔が映る。母親はゆっくりと少女の頭を撫でた。そこには、羊のような白いふたつの巻き角が生えている。
「これから毎日、このおくすりを飲むこと。作り方はお母さんが教えてあげる。それから、あなたが精霊や動物──この子たちのような"お友達"とお話できることは、他の誰にも話しちゃだめよ」
「どうして?」
少女にとってそれは至極当然のことだった。周りや世界から見れば、違うということを理解できる歳ではなかった。母親は難しい顔をしながら、少女の目を見る。
「きっと、あなたがもう少し大きくなったらわかるわ」
「約束できる?」と、母親が小指を差し出す。少女は首を傾げながら、頷いた。小さな小指を、暖かな手が包み込む。そうしてゆっくりと、母親は少女を抱きしめた。
「覚えていてね、ルーシャ。あなたのその角も、優しい金の瞳も、お母さんは──」
嗅ぎなれた草の匂いに包まれて、少女は目を覚ました。懐かしい夢を見ていたような気もするが、寝起きのぼんやりとした頭ではどうにも思い出せない。木窓の外から少女を急かすように、羊の鳴き声が聞こえてくる。
「お水とご飯をあげないと……」
外はまだ暗く、太陽の昇る前だが、お腹が空いて起きてきた羊たちを待たせる訳にはいかないようだ。ルーシャは眼を擦りながら身を起こし、朝の支度を始めた。
森の傍にある、古く小さな小屋。17になった少女、ルーシャ・ベルジュはここで一人暮らしていた。数頭の羊の世話をしながら、小屋の周りで薬草を育て、薬を作り、慎ましやかな生活を送っている。
人気のない場所で隠れ住むような生活をしているのには、もちろん理由がある。
ルーシャがまだ幼かった頃、母と共に買い出しに出かけた帰り道、ルーシャの持つ角を狙った人攫いからその身を守ろうとして、母が亡くなった。
その時のことはあまり覚えていないが、気を失ったルーシャは気が付けばこの古い小屋で、旅商人に介抱されていた。以来、仕事のために家を空ける商人から小屋と羊の管理を引き受け、ルーシャは一人で暮らしている。
この世界には、ルーシャのように人と違った特徴を持つ人間も、多いわけではないが存在する。しかし差別や偏見、金のために利用しようと企む輩なども少なくはない。過去のことがあってから、ルーシャは人の多い街で過ごす気にはなれずにいた。
ルーシャは軽く身だしなみを整えると水を汲むための桶を抱える。そしてフード付きのマントを深く被って、小屋の外へと向かった。
いつものように羊たちを囲う柵を開き、水と餌を与える。特別変わったことをしているわけではないが、今日は何故だか羊たちの落ち着きがない。
「どうしたの? そんなにそわそわして……何か気になるものがあるのかしら」
それはほんの些細な仕草、けれどルーシャは羊たちがしきりに森の方角を気にしていることを感じ取っていた。普段であればこの後は朝食をとって、薬を飲む時間だ。まだ暗い時間の森に立ち入るのには勇気がいる。
ルーシャは小屋へ引き返そうとして、森の入口へと目を向けた。
──痛い
風がざわざわと木々を揺らした。その微かな音の中から、ルーシャは確かにそんな誰かの声が聞こえた気がして、顔をあげる。当然こんな時間に人里離れた場所を訪れる者はおらず、辺りには誰の気配もない。
それでもルーシャは小屋の中に道具を片付けると、棚から鞄とランタンを手に取り、森の方角へと歩き出した。
◇
暗い森の中で、木の幹に体を預けながら、静かに朝日を待つ一人の男がいた。血のように赤い目が空を見上げる。それまで彼を照らしていた忌々しい満月は姿を隠し、じきに朝日が現れる。だがもう暫くは辛抱が必要だ。
男──正確に言えば、黒く大きな毛並みを持つ"狼の姿をした男"は、血の跡が残る鋭い爪と負傷した前脚を見て、深く身を沈めた。
世間で狼騎士と噂される男がいる。
狼の耳という特徴と、獣のような強さを誇るその騎士は、人々から恐れられながらも実力を認められた、王都の近衛騎士隊長だ。
彼には、満月の夜に完全な狼の姿へ変わるという秘密がある。これまでできるだけ満月の日には仕事を入れないようにしてきたが、急遽この近隣で人を襲う飛竜が出現したという情報が入り、討伐が要請されたのだ。
月が昇るまでに仕事を終えるつもりだったが予想以上に戦闘が長引き、やむを得ず隊を離れてこの森へと逃げ込んだ。引き連れてきた飛竜は倒したが、前脚を負傷し、狼の姿では助けを呼ぶこともできず、変化が解かれる朝日が昇るのを静かに待っていた。
木の葉の揺れる気配が、あたりを包む。その時獣の耳が音を捉えて、ぴくりと反応した。人の足音だ。
横たえながらも警戒の色を強めた狼の前に姿を現したのは、フードを深く被った小柄な人物だった。ランタンの灯りが、黒々とした毛並みを照らし、影を落とす。
男は警告の意を込めて、低い獣の唸り声をあげた。
狩人には見えないが、襲われれば抵抗するしかなくなる。不用意に近づかれて怪我をさせるわけにはいかない、そもそも狼の姿をしている今の自分に近づくとは思えないが、こうすればすぐに引き返すはずだ。
「大丈夫、怖がらないで」
しかしそんな意に反して、柔らかな少女の声をしたフードの人影は立ち止まる。狼の姿をした男は予想外の反応に不意をつかれ、唸り声を止めた。暖かな火の光が、血に濡れた前脚を照らし出す。
「怪我をしているのね、私薬を持っているの。手当をしてもいい?」
恐ろしい姿をした獣を前にして、手当をすると言い出した少女に、狼の血色の瞳は困惑を浮かべた。なぜそんなことをする必要があるのだろうか。
それを了承と受け取ったのか、少女はカバンから軟膏の入った瓶を取り出しながら、ゆっくりと狼の傍に膝を着いた。
「気にしないで、母から教わった薬なの。とてもよく効くから、きっとすぐに痛みも取れるはずよ」
意志の疎通など取れるはずもない獣に対して、少女はごく自然に語りかけるように、手当を始める。気を張り詰めていた手負いの狼はその不思議な出来事に警戒も忘れ、ほんの少しの安堵すら感じ始めていた。
地に伏せたまま、じっと少女を伺う。手元に置かれたランタンの光が揺れ、フードの中から光を反射した目が合った。輝くような、金色──
「はい、これでもう大丈夫」
薬を塗り、包帯を巻き終えた少女が立ち上がる。空も徐々に白み始めていた。狼の姿が解かれるのも、もう間もなくだろう。
狼はゆっくりと前脚を動かして問題がないことを確認すると、その身を起こした。少女に対して礼をするように低く頭を下げる、不思議と彼女にはそれで伝わるような気がした。
「どういたしまして。気をつけてね」
少女は頷いた。先ほど一瞬、金色のように見えた瞳が気になったが、ランタンの光を反射したせいだったのかもしれない。フードで隠された顔を見ることはないまま、狼はすぐに森の奥へと姿を消した。
◇
狼の手当をした日から、数日経ったとある日の午前。ルーシャはいつもの様に羊の世話をして、朝食の後に薬を飲み、今日は少なくなってきた薬を作ろうかと考えていた。
ある程度必要な薬草は、小屋の近くの畑で育てている。育った薬草を収穫して、新しい薬草と植え替えてもいいかもしれない、まだ種は残っていただろうか。そんなことを思いながら扉に近づいた時、外からノックの音がした。
思わぬ出来事にルーシャは固まる。
森の近くのこのあたりを訪れるものは数少ない。少し離れた場所に小さな集落はあるが、自分のところへ訪れるのはこの小屋の持ち主である旅の行商人くらいのものだ。
定期的に生活に必要な物資を届けにきてくれるが、その人物はわざわざノックなどすることもないし、来た時は荷馬車の音でわかるのだ。
扉の前で固まっていると、さらにノックの音が続く。
「すまない、どなたかいるだろうか」
低く落ち着いた響きの男性の声だ。ルーシャは慌てて傍に掛けてあったマントを被り、おずおずと開いた扉の隙間から顔を覗かせた。
外を伺うと、扉の前で中の様子を探っていた長身の男性と目が合った。驚いたように赤い目が僅かに開かれる。初めて見た顔だが、ルーシャはその赤い目になんとなく既視感を覚えた。
「本当にこんなところに人が居たとは……、ああ、失礼した。朝早くに申し訳ない。私はタイタニア王国近衛騎士、隊長のランドール・ウォーレンだ」
この国の騎士隊長を名乗る男は胸の前で腕を水平に構え、敬礼の意を現した。短く切り揃えられた黒髪の下から鋭い目が覗く、その表情はどこか硬い。傍から見れば睨みつけているようにも見えるだろう。
「ええと……隊、長さん? どのような、ご用向きでしょうか……」
ルーシャは戸惑ったまま、おそるおそる口を開く。目の前の男性が恐ろしいから──ではなく、他人と会話を交わすということ自体、ほとんど経験がない。動物や精霊に語りかける以外の言葉を、ルーシャは知らなかった。
「先日、この近くに飛竜が現れてな、討伐は終えているが、周辺の被害状況の確認のために見回らせてもらっている。……怖がらせてしまっただろうか」
ぎこちのないルーシャの様子を、ランドールは怯えさせたと受け取ったらしい。なぜだかその黒い髪に、項垂れて下がった犬の耳の姿が重なって見えた気がして、ルーシャは慌てて首を振った。
「いえ、その、知らない方と話すのはあまり、慣れていなくて……気になさらないでください」
「知らない……?」
ランドールは首を傾げる。国の騎士隊長を務めるならばきっと有名なはずだ、そんな人に向けて、知らないは失礼だったかと思いつつもルーシャは頷いた。
「ずっと、ここで一人で暮らしているものですから、世情には詳しくなくて。無礼をお許しください」
「大丈夫だ、そう畏まる必要はない。ここに居るのは君一人か?」
「はい」
なるほど、というようにランドールが頷きを返す。
どうやら単に疑問に思っただけで、プライドを傷つけてしまったわけではないらしい。
「なので、飛竜の被害というのも特には──」
ない、と言葉を続けようとしたルーシャは、ランドールの背後に目を向けて、あっ!と突然声をあげた。
何事かと振り返ったランドールの視線の先に、柵の内側にいたはずの羊が一匹、抜け出してきている様子だった。ルーシャはわたわたと扉を開けて男の傍を走り抜けると、逃げ出したイタズラな羊を捕まえようと手を伸ばす。
「こらっ、いい子だからおうちに戻りなさい」
遊びたい盛りの羊はひらひらと揺れるマントの裾を追いかけて、足元からなかなか動かない。
その時、強い風があたりを吹き抜け、羊に気を取られたルーシャのフードを舞いあげた。ふわりと波打つ、白い房がフードの下から溢れる。
驚いて顔をあげた丸い瞳は、金色──ではなく、今は少しくすんだオレンジをしていた。頭の上にあるはずの角は、白い髪に埋もれて見えないほど小さくなっている。
「あっ、わわ……」
足元にまとわりついて遊ぶ羊と、風に飛ばされたフードに翻弄されている少女の姿を見たランドールは、口元に小さく笑みを浮かべた。
(笑みと言うには些細なものだったが、ここに近衛騎士の隊員がいれば、あの万年仏頂面の隊長が、とさらに騒ぎが追加されていたかもしれない)
ランドールは少女に歩み寄り羊を追い立てるように手を動かすと、柵の扉を開いて流れるように内側へと羊を仕舞った。
「あ、ありがとうございます……」
ルーシャは、母の言いつけを守り、飲んでいた薬の効能がきちんと発揮されていることに安堵しつつも、それとはまた別に醜態を晒してしまったことへの恥ずかしさで、フードを被り直した。
「いや、大したことはしていない。ほんの礼のようなものだと思ってもらえれば」
なにかお礼をされるようなことをしただろうか、首を傾げながらも、ルーシャはランドールが周辺の被害状況の調査とやらに来ていたことを思い出す。調査への協力のお礼、ということなのかもしれない。
ランドールはその様子を見ながら何か話を切り出すように、軽く咳払いをした。
「最近は活発化した獣による被害も増加している。この辺りは森も近いし気をつけてほしいが、若い女性の一人暮らしでは何かと大変だろう。困ったことがあれば──」
そういい終わらないうちに、今度は先程よりも強く風が吹いて、言葉をかき消す。
しかし今回はそれだけでなかった。降り注いでいた陽の光が遮られ、頭上に大きな影がさす。見上げてみれば、それは大きな翼だった。
「な──飛竜!?」
一対の翼を持つ竜が、頭上を旋回しながら、地上に風を巻き起こす。
前触れもなく訪れた緊急事態に警戒態勢をとるランドールの横で、ルーシャははっとした顔で小屋へと向かって走り出した。ランドールは腰に下げた剣に手をかける。
「待って! その子を傷つけないで!」
しかし、ルーシャは鞄を手にしただけですぐに小屋から飛び出してきた。
「馬鹿、何故戻ってきた!? 危険だ、すぐにこの場から離れ──!」
翼を持つ竜の羽ばたきによって、風が吹き荒れる。叫ぶようなその鳴き声が、彼の知る飛竜のものと違っていることに、ランドールは気がついた。
この世界には、精霊、獣、その他に、精霊に近いとされる聖獣がいる。飛竜が、獣に近いとされる竜であるならば、聖獣と呼ばれる竜もまた存在した。しかしその目撃例は少なく、会敵して生きて帰ったとされる証言はさらに少ない。
「まさか、聖獣種の竜──」
呆気にとられたランドールの一方で、ルーシャはその竜の声を"聞いて"いた。
手負いの狼を前にしても怯えることのなかったルーシャは、同じように、まるでそうすることが当然のように、真っ直ぐな視線で語りかける。やがて竜はゆっくりと地に降り立ち、翼を畳んだ。
「いい子ね、今日はまた怪我してきたの?前みたいに鱗に魚が挟まって取れなくなったんじゃないでしょうね」
「鱗に、魚?その……その竜は、君が使役する竜か?」
「使役?ええと、なんといえばいいか……時々ここへ来る顔見知り?ご近所さん、みたいな……」
「ご近所さん」
いくら辺境とは言え、こんな存在が近所にいてたまるか。
と、仲間内の冗談であれば突っ込んでいただろうランドールも、ルーシャが薬を片手に易々とその竜へ触れているのを見れば、ただ復唱して立ち尽くすしかなくなった。
一方で、一般的に聖獣と呼ばれる竜がどのように語られているか(そもそもこの竜がそういった存在であることすら)知る由もないルーシャにとってはそう形容するしかなく、ランドールの様子に首を傾げながら、はい、と頷く。
なんともいえない微妙な空気の中で、ルーシャは竜の脚に絡まった蔓草に気が付くと、丁寧に取り除いた。おそらく大きな体では届きにくい位置にあって、気持ちが悪かったのだろう。
「満足した?」
竜の影でこっそりと、ルーシャは囁きかけた。少し細められた竜の瞳から、微かな感情が伝わってくる。
「不思議だな……まるで言葉もなく会話ができるようだ」
隠れたつもりだったが、聞こえていたのだろうか。竜から離れて戻ってきたルーシャを見たランドールの呟きに、ルーシャの心臓はどきりと跳ねた。
「いえ、えっと、そういうわけでは……。ただ、この子は人に害を与えるような子ではないので、そっとしてあげられませんか」
「ああ、どうやらそのようだ。竜に関してはわかっていないことの方が多いが、温厚な種なのだろう」
獣や精霊と意思疎通ができることは、隠さなければならない。本来の力を抑えた状態でも、ルーシャはある程度の感情が読み取れる。ランドールも本気でそのような力があるとは思っていない口ぶりに、ルーシャは安堵したのも束の間。
二人の後ろで何かがぶつかる音がした、と同時にミシミシと嫌な音が続く。
振り返れば、吹けば飛びそうな古い木板の小屋が、土埃をあげてついに倒壊した。
竜の巻き起こした風にかろうじて耐えていたものの、上機嫌で振られた尻尾の衝撃にはさすがに耐えられなかったらしい。
元凶の竜はというと、集まった二人の視線に首を傾けていた。
「ええと……、……どうしましょう」
ランドールを見上げる。まさか、本当に困ったことになるとは。
「……君の優しさは美徳だが、もう少し危機感も持った方がいいな」
国の騎士隊長をお手上げ、と言わしめるほどに見事に崩れ落ちた小屋を前に途方に暮れていた時、街道へ続く小道の先から馬の蹄の音と、ガタガタと車体を跳ね上げながら進む荷車の車輪の音が近づいてきた。御者席の上からおーい、とこちらを呼ぶ声がする。定期的に尋ねてくる、行商人の声だ。
「カーターさん!」
「やぁ、ルーシャ。元気そうだね」
「はい、お陰様で……」
ルーシャが駆け寄ると、カーターと呼ばれた壮年の男は荷馬車を止めて降りてきた。普段でも閉じているのか開いているのかわからない細い目を、さらに眩しげに細めて和やかに笑いかける。
「それは何よりだね。ところで、あの汚れた木材の山はどうしたんだい?」
「それが、その……すみません、ちょっとした事故で小屋が崩れてしまって」
今しがた木材の山となってしまった、小屋だったものを見つめるカーターは、ちょっと古かったけど改装にしては随分と豪快だね、と呑気な声で笑った。
会話を交わす二人の様子を見て、ランドールが歩みを寄せる。
「知り合いか?」
「あ、はい。こちらは小屋を貸してくださっている旅商人のカーターさんです」
ランドールは、ルーシャに会った時と同じように敬礼し、自分がここへ来た経緯と、今の状況ををかいつまんで説明した。
「なるほど、まぁ確かにあの子に悪気はなさそうだし、ルーシャが管理していなければとっくに壊れていそうな古い小屋だったからね。定住しない僕は構わないのだけれど……困ったね、君の住むところがなくなってしまった」
小屋を破壊した犯人の竜は、地に顎を付けて反省の意を示している……ように見えなくもないが、鼻先に止まった蝶に視線を向けているところを見るに、ただ単に暇で休憩しているだけなのかもしれない。
カーターはしばらく考え込むと、ルーシャに気遣わしげな視線を向けるランドールを見て、ぽんと手を打った。
「君、王都の近衛騎士だったね、それなら顔も広いだろう。王都へ戻るついでにこの子を連れて行って、仕事を紹介してあげてくれないかな。ルーシャは動物の世話もできるし、薬を作るのが上手なんだ」
突然の提案に狼狽するルーシャへ向けて、カーターはいくらか重みのある皮巾着を荷馬車の中から取り出して差し出す。
「ルーシャ、君が世話をしていた羊は、僕に買い取らせてほしい。その資金があれば、王都でもしばらく困ることはないだろう」
「でも……」
「大丈夫、今まで君はほとんど一人で生きてきたが、今度は頼もしい騎士が一緒だ。きっと何かがあっても守ってくれるだろう。心配することはないよ」
ルーシャは迷うように、ランドールを見上げる。どこか不安げなその視線に、ランドールは力強く頷いて応える。
「竜被害から国民を守るのも、私の仕事だ。君が望むのであれば、責任をもって安全な場所まで護送しよう」
ルーシャはもう随分と長い間、街へと出向いていない。一人で新しい場所を探すことも、かといって僅かな資金では小屋を建て直すことも難しい。
「……わかりました、よろしくお願いします」
こうして、ルーシャは思いがけず新たな生活を始めることとなった。
身寄りのないルーシャを拾い、長く仕事と住まいを提供してくれた恩人に礼を告げ、ルーシャは騎士の手を借りながら馬へ乗る。ふと、その手に包帯が巻かれていることにルーシャは気がついた。
「怪我、されてるんですか?」
「ああ、先日の飛竜の討伐の時に少しな。……腕のいい薬師の薬のおかげで、大したことはない」
「そうですか、それはよかったですね」
何気ない会話を交わしつつ、二人を乗せた馬は王都へと向かって走り始める。
◇
二人を乗せた馬が遠ざかっていく様子を、旅商人のカーターは穏やかに見守っていた。木の葉を乗せた風が囁くような音をたてて、若葉色の髪を撫でていく。
「僕たちの姫がようやく歩き始めたよ、ティターニア」
どこかへ向けたようなカーターの独り言に、ざわざわと木々の揺れが応える。
「心配ない、いざとなればあの狼くんが守ってくれるだろう」
カーターは視界の端でごろごろと転がる幼い竜に、やれやれといった視線を向けた。
「どうせ暇してるんだろう、君も着いていくといい」
そう言って軽く手を振ると、瞬く間に竜の巨体は蝙蝠ほどの大きさに変わる。小さな竜はきょとんとした様子で顔をあげ、ぴぃ、と甲高く鳴いた。そうしてパタパタと翼を動かし、どこかへと飛んでいく。
「さて……彼らはいつ気がつくかな」
カーターのほとんど閉じられた瞼の下から白金色の瞳が覗くと、最後に吹きすさんだ風とともに、その場には誰の姿もなくなった。
──これは後に、狼騎士と羊の癒術士、と呼ばれるようになる二人のお話。
彼らがお互いの正体と、この出会いが運命であったことに気が付くのは、まだ少し、先の話だ。
手当のお礼をしたい律儀な狼さんと、そんなことはつゆ知らずの羊ちゃん。
この二人の続編については検討中です。もしよろしければ、評価等で応援のほどよろしくお願いします。
朝凪夕凪




