夏祭りの夜、恋が始まる――幼馴染が歩んだ小さな軌跡
「好きだ」
放課後の教室に響いた声。
まっすぐな瞳に射抜かれた瞬間、紗世の胸はどくん、と跳ねた。
――どうして?
彼はずっと、ただの幼馴染だったはずなのに......
健一と紗世は、物心つくより前から隣に住んでいた。
泥団子を作り、戦隊ごっこをし、虫取り網を振り回す。
男とか女とか、そんな区別を知らないまま――ただ笑って、転んで、泣いて、そのたび一緒に立ち上がった。
紗世は小柄で、泣き虫なくせに負けん気が強かった。
ある日、友達と一緒に近所の広場で走り回っていると……紗世が転んだ。
「何してんだよ!...大丈夫か?」
あわてて駆け寄り見てみると、右膝を少しすりむいている。紗世は目に涙を溜めながらも、必死に歯を食いしばっていた。
「……痛くないもん」
意地を張る顔が小さくて頼もしかった。
――あの頃は、ただの幼馴染だった。
しかし、小学校高学年ごろになると......ふたりは自然と分かれはじめる。
男子は男子で、女子は女子で遊ぶようになった。
流れに逆らえず、ふたりの距離は、少しずつ、少しずつ――開いていく。
会えば挨拶を交わす。
――それだけの関係。
けれど、いつからか健一の視線は、自然と紗世を追うようになっていた。
いつからそうなったのか――
健一自身にも、わからなかった。
笑うときに眩しそうに目を細める顔。
髪を耳にかける、さりげない仕草。
テストの前、真剣な表情でプリントに視線を落とす横顔。
そういった何気ない瞬間が、胸のどこかに引っかかって離れなくなっていた。
「7秒8」
体育の授業の50メートル走。
教師の声が響いた瞬間、彼女は息を切らせながら、小さくガッツポーズをする。
「……すげーじゃん」
たまたま近くを通ったときについ出てしまった声に、紗世が思わず振り返った。
瞳を大きく見開き――うれしそうにふっと笑う。
その表情に、なぜか胸がざわめいた。
中学生になる頃には、近所の顔見知り――その程度の距離感になった。
朝、玄関先で偶然会えば、
「おはよ」
「……おう」
と、短く言葉を交わすくらい。
昔はもっと気軽に話しかけられたはずなのに、いまは少し照れくさい。
でも、それでもよかった。
無理に踏み込めなくても、隣にいることを実感できれば、それで十分だった。
とはいえ健一の心は、じりじりと少しずつ熱を帯びていた。
自分が思っているより、紗世という存在が――大きくなっていた。
そして、高校に入って間もない頃。
何気なく耳にしたクラスメイトの声が、健一の平穏をあっさりと塗り替えた。
「紗世ちゃんって、よく見るとかわいいよな」
「わかる! 目立たないけど、なんか気になる」
「だよなー。ああいう子、好きだわ」
軽口混じりの会話。
無邪気に笑いあう声。
それだけのことだったはず――なのに。
胸の奥がざわっと波立つ。
視界がぐらりと揺れたような気さえした。
――嫌だった。
その言葉が。
誰かに気づかれることも、褒められることも――
紗世が他の誰かの視線に晒されることも。
まるで足元の地面が、音もなく崩れていくようだった。
ぎゅっと拳を握ると、掌に爪が食い込んだ。
(――取られる)
そんな不安が、喉元までせり上がる。
いつのまにか、健一の胸の奥には恐怖が根付いていた。
曖昧で、言葉にできないまま放置していた想いが、はっきりと形を持つ。
「……そうか。俺は――」
紗世のことが……ずっと、好きだったんだ。
胸が痛い。
息が苦しい。
呼吸をするのもままならない。
――自分でも、驚くほどに。
もし、このまま何も言わずにいたら――
後悔はきっと、一生消えない。
不器用でも、怖くても。
伝えなければ前に進めない。
だから、決めた。
――告白しよう。
怖い。
失敗するかもしれない。
いまの関係が壊れてしまうかもしれない。
それでも――
何もせずに終わることだけは、耐えられなかった。
放課後。
傾いた陽が教室をオレンジ色に染める。
机と椅子が長い影を伸ばしていた。
健一は深く息を吸い、心を決めるように紗世の前に立つ。
指先はわずかに震えていたが、その目には迷いがなかった。
真っ直ぐに、ただひとつの想いを――告げる。
「好きだ」
まっすぐな瞳に射抜かれた瞬間、紗世は言葉を失った。
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
耳の奥が熱くなり、心臓がどくんと鳴り響く。
――冗談にも軽口にも見えない。
……本気なんだ。
その思いが、胸に響いた。
幼馴染として遊んでたのは、もうずっと昔。
今ではただ、挨拶をするくらいの仲だったのに……
戸惑う心とは裏腹に……彼の表情は真剣で――少し怖いほどだった。
……けれど、どうしてだろう。
断る理由が浮かばなかった。
それからふたりは、付き合うことになった。
初めてのデートは、近所で開かれる夏祭り。
紗世は浴衣の帯を何度も整え、胸を弾ませながら待ち合わせ場所へ向かった。
先に着いていた健一が、こちらを見て一瞬固まる。
「……かわいいじゃん。」
目を細め、照れくさそうに笑うその声に――紗世の心臓が、どくんと跳ねた。
屋台の明かりが連なり、焼きそばの香りと人の笑い声が混じり合う。
通りには浴衣姿の人々が行き交い……風鈴の音が、かすかに鳴った。
人の波に押されそうになった瞬間、わずかに頬を赤くした健一が手を差し出す。
「――手、貸せよ」
言葉はぶっきらぼうなのに、そのしぐさは驚くほど優しかった。
彼の手をそっと握ると、指先が少し震えている。
ふと、隣を歩く健一を見上げた。
――幼かった面影はいつのまにか影を帯び、頭一つ分違う高さにある顔は……少し大人びて見える。
胸の奥が熱くなる。
健一って――こんなにかっこよかったっけ。
心臓の音がうるさい。……祭りに来ているはずなのに、今は彼のことしか見えなかった。
夜空には小さな花火が上がり、
淡い光が、ふたりの影を照らしていた。




