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15話 依存は信頼へ

 (本当、なんだ……)


 朝、洗面所で顔を洗い、ポタポタと落ちる雫もそのままに、暁那は赤い顔で鏡を見つめる。

 頬が赤いのは、冷たい水で洗ったからか、それとも別の感情か。

 見慣れたはずの血色の悪い顔は、今日は朱色に色づいて、惚気たような間抜けな顔をしていた。


「……僕、カイと」


 昨晩の事を思い返し、暁那の顔は益々赤くなっていく。

 暁那はそれを誤魔化すように、タオルで強く濡れた顔を擦った。


「だめだ、すぐ顔が熱くなる」


 (嘘みたいに嬉しかった……こんな僕の事を、好きだと言ってくれて)


「……しっかりしなきゃ。カイのためにも、早く、外に出れるようにならなきゃ」


 軽く両手を握り、暁那はいつになくキリッとした顔で、つかつかとベランダの方へ歩く。

 そして、いつも締め切っているカーテンを勢いよく開ける。

 眩しい日の光に目を眩ませつつ外を見つめると、通勤の自転車や制服姿の少年少女たちが行き交っていた。

 ごく普通の日常の光景に、暁那はゴクリと息を飲む。


「ちょ、ちょっとだけ、ベランダで深呼吸してみよう……うん」


 言い聞かせるように呟くと、暁那はカラカラとベランダの戸を開け、ゆっくりと慎重にスリッパに足を通す。

 いつ置いたかもわからないそのスリッパは砂埃で汚れ真っ黒だったが、そんな事も気にならないほど暁那は緊張していた。


 朝の空気は冷え込んでいて、吐く息は白く煙のように舞う。

 けれど緊張から体は熱く鼓動は速くなり、暁那は寒さを感じる余裕すらなかたった。


「……すー……はぁ」


 不器用に深呼吸を繰り返すと、その緊張も少しずつ解れていく。

 滅多に感じない朝の光を浴びながら、暁那は何度も深呼吸を繰り返した。


 (よかった……意外と大丈夫、かも)


 そう思った瞬間、ふと道を歩くスーツ姿の男と目が合う。

 男はただ眠そうに伸びをしていただけなのだが、暁那はそれに過敏に反応し、隠れるようにその場にしゃがみこんだ。

 そして、暁那の心には一気に恐怖が立ち込め、そのまま膝を抱えて動けなくなってしまう。


「はは……やっぱり、そんな上手くいかないや」


 自分自身の力で引きこもりから抜け出したい。

 けれど、体はいつも些細なことで恐怖で怖じ気づく。 

 出口の見えない暗闇の中いつも脳裏に浮かぶのは、海星の優しい笑顔だった。


 ――『もう、一人で無理しないで――もっと、俺のこと頼って』


 あの日の海星の言葉がよみがえり、暁那はハッとしたように顔を上げると慌てて部屋の中にかけ込んでいった。 


 ◇


「今日さ、また美味しそうな鍋の素見つけたんだー。ちょっと辛そうだけど、アキ辛いの平気だったよね?」

「う、うん! 大丈夫……あ、僕も手伝うよ」

「ふふ、お願い。じゃあ、人参の皮剥いて?」


 昨日に続いてアパートを訪れた海星は、すっかりいつもの調子だった。

 宰斗の事を引きずっていないのか、彼の話題は口にしない。

 明るい表情で台所に立つ海星を、暁那は戸惑いつつも笑顔で見つめていた。


 そして2人は、いつものように鍋をつつく。

 食べ終わり満腹になった海星は、隣に座る暁那に体を預けるようにもたれ掛かった。 


「うぅー、お腹いっぱい……シメのラーメンが効いた」

「カイ、今日もいっぱい食べたね」

 倒れないように海星の背中に腕を回し、暁那は顔を赤らめ笑う。


「アキが少食だから、自然と俺の分が増えるんだよねぇ。ほら見て、腹ポヨポヨー」

 

 そう言うと、海星はシャツを捲り自慢気に自分のお腹を摘まんでみせる。

 食後で少し出てはいるが、細く引き締まった体で、割れた腹筋の線も微かに見えた。

 暁那は目のやり場に困るように顔を背け、はだけた海星の服をサッと直す。

 

「そ、そんなにお腹出したら、風邪引くよ?」

 海星は不貞腐れて唇を尖らせると、じとっとした目で暁那を見つめる。

 

「こんなんで風邪引かないよ……あ、もしかしてアキ、照れてるの?」

「だって、こんなに近くにいたら……仕方ないよ」

 真っ赤になる暁那の顔を嬉しそうに見つめ、海星は体勢を変えて暁那の腰に抱きついた。

 

「わっ……ちょっと、カイ」

 後ろに倒れそうになって両腕を着くと、暁那の胸に顔を埋める海星と目が合う。

 海星は目を細めてにっこりと微笑み、イタズラ好きな子供のように下を出していた。


「また昨日みたいに、キスしていい?」

 囁くような言葉に、暁那の体は溶けてしまいそうなほど熱くなる。

「そ、そんなの聞かなくたって、僕も同じだか……むぅ、ん」


 言葉の途中、海星は声を塞ぐように唇を合わせる。

 固く瞑った目を開けると、そこには熱を持ったような海星の瞳があった。

 暁那はのぼせ上がりそうになりながらも、海星の体を必死で押し返した。


「ちょ……す、ストップ!」

「はぁ……どうしたの? アキ」


 中断されて不服そうな海星は、弾む息を軽く整えながら暁那を見つめる。


「これ以上は……よ、良くないよ。ほら、何て言うか……カイ、高校生で、未成年だし」

 目を逸らしモジモジと言葉を濁す暁那に、海星はポカンと口を開けたまま固まる。

 

「……アキって真面目だね」

「そ、そんなことないけど。色々問題が……それにカイの事は、その、大事にしたいから」

 暁那の言い分を聞き、海星は何か考え込むように黙ってしまう。

 その様子を不安そうにチラチラと見つめる暁那の耳に、突然「よし!」と大きな声が聞こえた。


「わかった。俺、卒業まで我慢する! 今までずっと片想いだったんだし、それくらい余裕だよ」

「あ、ありがとう、カイ」

「任せてよ! あ、だけど……キスとハグはいいよね? ほら、外国なんかじゃ挨拶みたいなもんだしさ」

「うん……あんま、強くないのなら」


 謎の自信と持論を持ちかける海星に、暁那は僅かな不安を感じたが、それでも受け入れてくれたことに安堵していた。


 (カイと恋人になれたのは、凄く嬉しい。けど、僕と付き合うことで、もしカイが嫌な目に遭うことがあったらって考えると、不安で仕方ない……それだけは、絶対に駄目だ)


 その不安が、彼が高校を卒業するまで関係を持たない事でなくなるのかはわからない。

 ただ今は、それが暁那の思い付く精一杯の事だった。 

 

 ◇


「じゃあアキ、またね」

 

 夜の8時半を回った頃。

 玄関口で名残惜しそうに手を握りながら、海星は上目使いに暁那を見つめる。

 暁那も同じように別れがたさを感じていたが、この日はそれだけではなかった。

 何か言いたそうにパクパクと何度か口を動かす暁那に気付き、海星は不思議そうに顔を覗き込む。


「……アキ、どうかした?」

「え、えっと……」

「んん?」


 暁那はぎゅっと目を瞑ると、思いきったように大きな声を出した。


「そ、外まで送るよ!……いやごめん、違くて……その、少しだけ、一緒に外に出て欲しい。だ、駄目かな?」

 最初は勢いが良かったのに、だんだんと尻すぼみになり俯いてしまった暁那を見て、海星は笑いを堪えるように肩を震わせる。

 

「ぷっ、ふふ、ふふふ……」

「え、カイ?」

「ふふ、ごめん、勢い良すぎて笑っちゃった……もちろん行こう! 外寒いから上着着てね」 

 笑って出た涙を拭い、海星は嬉しそうな笑顔を返す。


「ありがとう。あ、上着……無いんだった。でも、少しだったら大丈夫だよ!」

 いつものスウェットの袖を伸ばして誤魔化そうとする暁那の姿に、海星は首を捻る。

 そして上から順に見ていくと、思わずその足元に目が止まった。

「うーん……あ! アキまた裸足じゃん! せめて靴下は履かなきゃ駄目!」

「あ、そっか。ごめん、ちょっと待ってて」


 母親のように注意され、暁那は慌ててタンスへ向かう。

 その後ろ姿に呆れたようにため息をつきながら、海星はとても楽しそうに笑っていた。


「よし、ちゃんと履いてるね。じゃあアキ、これ着て?」

 玄関に戻ると、海星は自分のジャケットを暁那に渡す。 

「いや、それじゃあカイが」

「俺は大丈夫、寒いの慣れてるし。ほら、マフラーもしてるから」

「でも……」

 海星はぐるぐる巻かれたマフラーで口元を隠し、優しく目を細める。

 しかし、それでも戸惑う暁那にしびれを切らし、海星は後ろから無理矢理に上着を着せた。


「大丈夫だって! ほら、早く着て」

「うー……カイ、ごめんね。今度、ネットで適当に買っておく」

「うん! 温かいのにしなよね」


 上着を着せてもらい海星と一緒に外を出ると、冷たい風が顔に当たる。

 道路の人通りはほとんど無く、たまに車が通過する程度。

 それでも暁那は体を硬直させ、怖さから足を踏み出せずにいた。


「大丈夫。ゆっくり深呼吸して……落ち着いたら歩こうよ」


 海星は暁那の震える手を握ると、縮こまった背中を優しくあやすように、リズムよく叩いていく。

 その言葉通りゆっくりと深呼吸を繰り返していくと、暁那の緊張は解れていく。

 繋いだ手は温かく、一人では得られなかった安心感と、勇気が沸いてくるような気がした。


「……ありがとう。だいぶ落ち着いた」

「へへ、良かった。アキ、もう歩ける?」

「う、うん」


 暁那は海星と手を繋いだままアパートの階段を降り、夜の景色をおどおどと見回す。

 辺りは当然真っ暗で、街頭だけが寂しく道を照らしている。

 鼻の奥がツンとするような冷たい空気を感じるのは、とても久しく懐かしい感覚だった。

 時折その冷たい風に舞うように、羽織った上着から海星の匂いがふんわりと薫る。


 (いい匂い……すごく落ち着く。何だろう、柔軟剤とも少し、違うような) 


 フードの襟に顔を埋めながら、暁那はスンスンとその匂いを嗅ぐ。

「あ、アキ? もしかして、汗臭かった?」

 あまりに不安そうに聞く姿が可笑しく、暁那は思わず笑いがこぼれた。

「ふふ、ごめん……カイの匂い落ち着くから、つい。それに、全然臭くない。いい匂いだよ」

 穏やかに微笑む暁那に、海星は顔を赤らめ恥ずかしそうに目を逸らす。


「そ、そう? なら、いいや……あ、そこの公園で少し話してく?」

 海星は恥ずかしさを誤魔化すように、数十メートルほど先にある小さな公園を指差す。

 暁那はしばらく俯き何か考えると、僅かに微笑み首を横に振った。


「……今日は、やめとく。冷えちゃうし、あまり遅くなると、カイのお母さん心配するから」

「あ、そっか……」 

 誘いを断られ、海星は寂しさを隠すように笑顔で答える。

 それを察してか、暁那は両手で海星の手をやんわりと包み込み、静かな声で話をする。

 

「アキ?」

「僕ね、すぐにカイに甘えちゃうんだ。今も、一人で外に出る勇気がなくて、結局カイに依存して……でもいつか、絶対治すから。カイと一緒に、いろんな所行けるように頑張るから……これからも、僕のそばにいて下さい」

 

 暁那の素直で強い想いを聞いて、海星の目元は赤く潤んでいく。

「そんなの……当たり前だよ」

「ふふ、ありがとう」


 控えめな笑顔を向けられ、たまらず海星は背伸びをして軽く唇を合わせる。

 一瞬の事に暁那は驚きと恥ずかしさで目を見開く。


「それに……依存じゃないいよ」

「えっ……」

「信頼って、言うんじゃないかな? へへ、自分で言ってて、ちょっと恥ずかしいけど」

「……信頼。うん! 僕、カイのこと、すごく信じてる!」


 顔を綻ばせ、暁那は子供のように笑っていた。

 それに恥ずかしがる海星の姿もとても愛しくて、心の底から彼とともにいたいと思えた。

 宰斗には感じたことがない、あの時の感情とは明らかに違うものだった。

 

  

 

数ある中から読んで頂いて

本当にありがとうございますᐠ( ᐢ ᵕ ᐢ )ᐟ

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