1話 塞がらない傷口
真夜中、あるアパートの一室。
ごみ袋や衣類、本などが散乱するワンルームの部屋。ベッドで眠る一人の青年は眉を潜め、もそもそと体を捩りながら苦しそうな表情を浮かべていた。
「ぐ……がっ……はぁ、はぁ」
大きく息を吸い込み、まるで海から上がってきたみたいに荒く息を整える。
青年はうっすらと目を開け、暗闇の中で枕元にあったスマホを手にする。
時刻は2時44分。彼はいつも悪夢にうなされ、誰の生活音も聞こえないこの時間に目を覚ましていた。
彼の名は望月暁那。高校時代ある理由で不登校となり、22歳になる現在まで引きこもり生活を送っている。
暁那はスマホの明かりに目を細めると、すぐにまた枕元に放り投げて目を閉じる。
しかし再び眠ろうにも、無意識にある光景がフラッシュバックする。その度に彼の胸はギリギリと締め付けられ、せり上がるような吐き気を催すのだった。
――高二の夏
初めて出来た彼氏を迎えに行くため、暁那は放課後に別のクラスを訪れていた。
窓から恋人の姿を見つけた暁那は、小走りで教室の戸に手をかける。
『あいつマジ重いわー!』
その瞬間、笑い声と共に聞こえた言葉に、暁那の体は硬直した。
『クラス1のモテ男くんが、まさか男が好きなんておもろすぎんじゃん? だから興味本位で付き合ってやったってのに、チャットも鬼多いし、女と遊べねぇしでマジめんどい! 話のネタにもうちょい泳がせてもいいんだけど、流石にもう無理だわー』
『はは、宰斗クズ過ぎ! つーかお前、あの暁那とヤったん?』
『お前も好きだねぇ〜。いや聞いてよ、その話がまためちゃくちゃおもろくてさー』
立ち竦んでいた暁那の表情はみるみる青ざめ、今にも泣き出しそうな程ぐしゃぐしゃに歪む。
暁那は力無くふらふらと歩き出し、ただ静かにその場を後にした。
「なんで……誰、あれ」
恋人と同じ声で吐き出される、信じがたい卑劣な言葉の数々。それは今まで見たこともない姿だった。
頭が良く、いつも明るく冗談を言ったり、些細なことを気遣って優しくしてくれた彼とは全く違う。
今まで信じていたものが全て偽りだったと突きつけられ、暁那の心は深く抉られ、暗く光を失っていった。
◇
その日、暁那は恋人だった来栖宰斗に別れを告げた。
到底顔を見て話す気持ちにもならず、声を聞くのも恐ろしかった暁那は、ただ一言「別れよう」とチャットを送った。
当然、受け入れてくれると思った。
しかし宰斗からの返事は無く、翌日、彼を取り巻く環境はガラリと変わることになる。
「……おはよう」
いつものように教室に入ると、ざわついていた話し声はピタリと止み、皆が暁那に視線を送る。
暁那は突然の事に動揺し、チラチラと周りを見ながら席に着き、隣の席の友人に声をかけた。
「お、おはよう。ねぇ、何かあったの?」
話しかけられた友人は不自然に目を逸らして返事をする。
「い、いや、俺は何も知らないけど……」
ひきつった笑みを浮かべ、頬を掻く姿は不自然で、明らかに何かを隠しているようだった。
「そう……お、俺、トイレ行ってくる」
「おう」
会話が続かず、沈黙に耐えかねた暁那が教室を出ると、再び皆はガヤガヤと騒ぎだした。
『ヤバイよね、あの話!』
『来栖くんが言ってたし、間違いないっしょ』
『あんな顔して、男が好きって……しかもめっちゃ束縛凄いらしいじゃん! 来栖くん、無理矢理脅されて付き合ってたらしいよ。それで病んじゃって、今精神科に通ってるんだって』
『うわ、それもうストーカーじゃない? 来栖くん可哀想』
『あ! 俺この前腹筋触られたの思い出した! 実は狙われてたのかも!?』
『バーカ、誰がおめぇみたいなプロテイン野郎狙うんだよ……あ、つーか俺も似たようなのあったわ』
『何々ー、聞きたーい』
教室を出てすぐ、暁那は壁に隠れるようにして皆の聞いていた。
(嘘だ……脅すなんて、するわけ無いっ……確かに、チャットは多かったかもしれないけど、ほとんど既読すらつかなかった……腹筋なんて興味ない! 自慢して自分から触らせたくせに!)
怒りと悲しみが渦巻いて、暁那は俯いたまま握った拳を震わせる。
宰斗がどうしてそんな悪意ある噂を広めたのか、何が目的なのかもわからない。
「僕と、別れたかったんじゃないの? 僕の事が、そんなに嫌いだったの?」
(そんなに嫌いなら……どうして、僕と付き合ったりしたの)
どうして彼の本性に気付けなかったのか。暁那はそんな自分が情けなく、涙をこぼしながら自身を嘲るように笑っていた。
そしてその日を境に、暁那は高校には行かなくなった。
◇
不登校になった暁那を、母は必要以上に干渉せずただ静かに見守った。一方父は仕事に忙しく、特に気にも留めていない様子だった。
引きこもり生活から数ヵ月が過ぎた頃、暁那は母の勧めで通信制の高校へ転入することになる。
元々成績が良かったので、自宅での授業だけで何の問題もなく卒業することが出来た。
勉強で気が紛れたのもあり、卒業を機に、暁那は母に引きこもりの理由を打ち明ける決意をする。
「母さん……僕、男の人が好きなんだ」
「え、そ、そうなの……いつから?」
母は驚いて一瞬言葉に詰まるも、暁那を見つめ優しく声をかける。
「わからない。去年初めて、付き合ったから……」
当然宰斗の事を思い出して、暁那は込み上げる吐き気に口元を覆った。
「だ、大丈夫!? ごめん、無理に話さなくていいのよ」
母は椅子から立ち上がり、暁那の背中をゆっくりと擦る。
「僕、全然気付かなかったんだ……彼の、本当の気持ちに。裏切られたのだって、僕が……馬鹿だったからでっ」
だんだんと震えるような声で自分の気持ちを吐き出し、暁那は断片的に事情を伝える。
「そんなことない。暁那は、昔から優しくていい子なんだから」
母の優しい言葉に、暁那は両手で顔を覆い嗚咽をもらした。
「……お父さんには、私から話すから……もう、辛いこと思い出さなくていいよ」
「で、でも、父さんには……」
「大丈夫。お父さん、いつも無愛想だけど本当は優しいのよ。きっと暁那の事もわかってくれるわ」
暁那の父はとある会社の役員で、いつも遅くまで働いている。そのせいもあり、暁那は父とまともな会話をしたことがほとんど無い。
家に居る時もいつも難しい顔をしている父が、暁那は昔から苦手だった。
よく言えば威厳のある父親だが、母の言う通り本当は優しくて、自分の事も理解してくれるのかもしれない。
母の言葉を信じ、暁那もこの時は前向きに考えようとしていた。
◇
「何? 男が好きだって!? 本当に、暁那がそう言ったのか?」
「え、えぇ……でも、今時そういうのも珍しくないし、暁那の個性だから」
「そんな理由で今まで引きこもってたっていうのか!? くだらない!」
母の言葉を遮るように父は激昂する。
これまで穏やかに話をしていた母も、その態度に怒りを露にした。
「ちょっと、大きな声出さないで……暁那に聞こえるじゃない。それに、くだらないなんて、あの子は本当に苦しんでるのよ?」
「冗談じゃない! こんな事が世間に知られて、恥さらしもいいとこだ!」
「ちょ、ちょっと! どこ行くの!?」
椅子から勢いよく立ち上がった父を、母は慌てて止めようとする。
「暁那に、この家から出ていってもらう」
父の言葉に母は青ざめ、必死にその腕を掴んだ。
「やめて! これ以上あの子を追い込まないで!」
「うるさい! これは今まであいつを甘やかしたお前のせいでもあるんだ!」
母の制止を難なくほどき、父はズンズン階段を上がって行く。
その後の騒ぎは酷いものだった。
ベッドでうずくまる暁那を、父は無理矢理引きずり出し、母はただ泣き叫ぶだけ。
暁那は父に腕を引っ張られながらも立つことも出来ず、無気力に俯いたまま一言も発っせずにいた。
ほとんど無反応の暁那の様子に、父はようやく諦めたのか、結局暁那を追い出すことはなかった。
しかし数日後、母は泣き腫らした顔で暁那にある話を切り出す。
「ごめんね……母さんのせいで、暁那をひとりぼっちにさせて」
「……いいよ。どうせほとんど外に出れないんだ、部屋を与えてもらっただけでもありがたいよ。父さんにも、お礼言っといて。僕の顔なんて、もう見たくないだろうから」
父は暁那の事を歪んだ性癖の持ち主だと思い込み、理解することが出来なかった。
息子を拒絶する父親と、どうしても守りたい母親。その妥協案として、暁那をアパートに一人暮らしさせることに決まった。
金銭面の余裕はあり、生活費などは父が出してくれるとの話だ。
母は暁那を一人にさせることを悔やみ、心配していたが、暁那は内心少しホッとしていた。
(良かった……もう、父さんの顔を見なくていいんだ)
くっきりとした隈のある目を少し細め、暁那は虚ろな顔で笑うのだった。
◇
――――時は戻り 22歳の秋
ある日の夜、暁那はごみ袋に囲まれた部屋の中、それを背もたれにするように本を読んでいた。
何か文字を追っていないと、嫌なことばかり考えてしまうので読んでいるだけの本。
暁那はそれを、もう数えきれないくらい読んでいる。
〈カンカンカン……〉
アパートの階段を昇る音が響く。
そろそろ住民が帰宅する時間。家具備え付けのアパートで、防音はほとんどない。それでも実家にいるよりは、静かな気持ちで過ごせていた。
〈ピンポーン〉
突如鳴り響くインターホンに、暁那の体はビクッと跳ねる。
暁那は体を硬直させたまま、玄関を凝視する。
「……母さんなら、合鍵で入ってくる、よな」
〈ピンポーン、ピンポーン〉
待ってみても、何度も続くインターホンは止む気配がない。
暁那は息を飲み、ゆっくりと玄関に近づいた。
(大丈夫、勧誘なら、すぐにドアを閉めればいい……)
こんなことで心臓をバクバクと騒がせるなんて、なんて情けないんだろう。
そんな風に思いながらも、暁那は深く深呼吸をした後、俯いたまま数センチだけドアを開けた。
「……はい」
その瞬間、勢いよくドアが開かれ、一人の制服姿の男子校生が姿を現す。
彼は一瞬驚いたように目を見開くと、悲しそうに顔を歪め、暁那の体に力強く抱きついた。
「アキっ……」
抱きつかれ、行き場の無い両手を浮かせたまま硬直していると、彼は泣き出しそうな顔で暁那の顔を見上げる。
その表情を見て、脳内に一人の少年の姿が思い浮かんだ。
「……カイ?」
名前を呼ぶと、少年は困ったような笑みを浮かべる。
「久しぶり……良かった、覚えてくれてたんだ」
彼の名は相沢海星。
海星との出会いは、暁那の中に眠っていた、温かくも懐かしい記憶を呼び覚ましていく。