7話
城に戻ったのは、夜も更けた頃だった。
平原での狩りを終えて、足元は重く、けれど胸の奥は妙に熱を帯びていた。
(あの時……確かに力が、手に入った)
スライムを倒した時に感じた“何かを取り込む”感覚。
あれは夢でも、勘違いでもなかった。
俺はそっと、自分の手の甲に視線を落とす。
そこには、微かに淡く光る“空の紋章”。
今まで空だったそれに、ほんのわずか――命が宿り始めているような気がした。
(この力があれば、きっと……)
誰も守れなかった。何もできなかった俺でも。
今度こそ、何かを――いや、“誰かを”救えるかもしれない。
そんな考えを胸に抱いたまま、俺はベッドに身を投げた。
まぶたを閉じると、すぐに意識が薄れていった。
*********
「おい、起きろ。訓練の時間だ」
叩きつけるような声と同時に、ドアが勢いよく開いた。
……ノック、しないんだな。
「……リアンか。もう朝か?」
「朝だよ。寝癖ついてるぞ、アキラ」
リアンは腰に手を当てながら、ふてぶてしく言った。
黒髪を後ろでざっくりと結び、鎧の代わりに簡易な訓練服を着ている。
身軽で無駄のない動きに、戦士としての経験と自信が滲んでいた。
でも、よく見るとその頬にはまだ微かに眠気の赤みが残っている。
そしてなにより――
ほんの一瞬、口元が緩んだ。
それは、戦士としての顔ではなく、年相応の“少女”の表情だった。
その一瞬を見てしまって、俺は少しだけ肩の力が抜けた。
「……起きたよ。着替えるから、外で待っててくれない?」
「ふん、五分だけ待ってやる。遅れたら木剣で叩くからな」
やれやれと言いながらも、リアンは踵を返して部屋を出ていった。
ドアは開けっ放し。きっと、閉めるという発想がない。
中庭には、すでに木剣が用意されていた。
リアンは剣を肩に担いで、俺を待っていた。
「今日は遅刻じゃなかったな。やればできるじゃないか」
「毎回そう言われるのも癪だな」
剣を握り、構える。
体が――軽い。
(これは……)
振った剣が、思っていたより速く、正確に動いた。
足が自然に追いつき、呼吸のタイミングも掴めている。
(昨日と、明らかに違う……)
「おいおい、ちょっとはマシになったか?」
リアンが笑った。
その声には、どこか“誇らしげ”な響きがあった。
最初はただの護衛役だと思っていたけど、
こうして訓練を見守ってくれることに、少しだけ感謝の気持ちが芽生える。
「昨日の成果……かな」
俺は剣を構え直しながら、静かに呟いた。
(ステータスが上がったから? 本当に……ゲームみたいだな)
* * *
訓練の後、俺はこっそりと城を抜け、再び平原へ向かった。
もう一度、あの感覚――“吸収”の実感を確かめたくて。
昨日よりもずっと効率的に、次々とモンスターを狩っていく。
スライム、ワーム、ローパー、ウィスプ……
頭の中には、倒した魔物のデータが自動で記録されていくような感覚がある。
(でも……スキルは増えない)
あれからいくつ倒しても、《エアスラッシュ》の他には何も追加されない。
(スキル持ちって、そんなに珍しいのか……?)
立ち止まり、空を見上げながら考え込んでいたとき――
「アキラ!」
風を切るような音とともに、リアンの声が響いた。
草を分けて駆けてきた彼女は、頬を紅潮させながらも真剣な目をしていた。
「……何かあった?」
「巫女様が呼んでる。すぐに戻ってこいってさ」
その表情に、いつもの軽口はなかった。
シリル――あの静謐で、どこか神聖さすら感じさせる巫女。
呼び出された理由は、ひとつしか思い当たらない。
(……俺の“空の紋章”のことか)
* * *
城の奥、蒼白い光が揺れる神殿の一室。
まるで時が止まったかのような静寂の中、シリルは一人、祈るように目を閉じていた。
長い銀髪が背中に流れ、淡く輝く紋様の刺繍が施された黒装束が、儀式的な空気を纏わせている。
彼女の周囲だけ、空気の密度が違って感じた。
俺が一歩足を踏み入れると、彼女は静かに目を開けた。
藍色の瞳が、まっすぐ俺を射抜いてくる。
「来たわね」
声は小さいのに、なぜか胸の奥に響いた。
「呼ばれたんで、来ました」
努めて軽く返す。けれどその視線を前に、妙な緊張が背筋を這い上がってきた。
シリルはゆっくりと立ち上がる。その動作ひとつすら、無駄がなく美しい。
けれど、どこか人間離れした、冷たい神聖さをまとっていた。
「“空の紋章”……動き始めているようね。あなた、何を感じた?」
その問いは、まるで俺の心の奥まで見透かすような静けさと鋭さを帯びていた。
ただの情報収集ではない。俺自身に“意味”を問うような、そんな圧があった。
「……モンスターを倒すと、体の中に何かが取り込まれるような感覚がある。それと同時に、ステータスが――上がってる。あと、エアスラッシュっていうスキルも一つだけ手に入れた」
口にした瞬間、再びあの感覚が蘇る。
淡く、けれど確かに内側から広がる力の脈動。
シリルは一瞬、瞼を伏せる。
そのまま、祈るような仕草で胸に手を当て、息を吐いた。
「過去に、そのような“空の紋章”は確認されていないはずよ。ただ私が鑑定の儀で何かを感じたのは他しかっただった」
彼女の声は落ち着いていたが、その奥にあるものは動揺でも困惑でもなかった。
ただ――深い興味。何かを“確かめようとする者”の目だった。
「通常、紋章とは最初から定められた才能と限界を持つもの……けれどあなたの紋章は、それらの常識をすべて覆しているわね」
俺は息を呑んだ。
冷静な語り口の中に、僅かな“熱”が混じった気がした。
「……そうみたいですね」
その瞬間、シリルはゆっくりとこちらへ一歩近づいた。
ローブの裾が静かに床を滑り、長い髪が揺れる。
「アキラ。あなたは今、極めて特異な“観察対象”よ。この紋章の全てを解き明かし、その成長を、私は見届けたいの」
その言葉に、俺は一瞬だけ黙った。
“観察対象”
その響きに、最初は少しだけ抵抗感があった。
けれど同時に、それは“無関心ではない”という証でもあった。
(……俺も、この力を知りたい)
俺は頷いた。
「わかりました。協力します。俺も、自分のことを知りたいですから」
シリルの表情が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
それは儚い揺らぎだった。
氷のように透き通った表情の奥に、微かな“人間らしさ”が垣間見えた気がした。
「ありがとう、アキラ。……あなたのその紋章が、いつか世界の形を変えるかもしれないわ」
その声に込められた言葉の重みが、胸に残った。
“空”だった紋章に、ほんの僅かながら――光が、灯った気がした。