5話
あの日。
焼け落ちた村から、リアンの背に揺られて森を駆け抜けたあの夜、俺は心の底から誓ったんだ。
――この世界で「最強」になる、と。
無力だった自分を乗り越えて、すべてを取り戻すって。
あれから五年。 五年という歳月は、想像していたよりも、あっという間だった。
俺は、十二歳になった。
魔族の城で過ごした日々は、厳しくも、実りの多いものだった。
剣術、体術、魔法の基礎。
戦略や戦術、さらには異世界の歴史、文化、言語、読み書きに至るまで――。
リアンの厳しい指導と、図書室で読み漁った無数の書物を通して、俺はひたすら吸収した。
この世界で生き抜くために。
“空白”と侮られても、力でねじ伏せるために。
そして、今日。
俺にとって最も重要な儀式が、今まさに始まろうとしている。
鑑定の儀――。
それは、全種族に共通して行われる、十二歳の通過儀礼。
手の甲に刻まれた紋章の真の姿を浮かび上がらせ、個人のスキル適性や魔力属性を明らかにする儀式だ。
この儀式の結果次第で、その人間の立場や進路、ひいては人生までもが左右される。
だからこそ、全員がこの日を恐れ、そして期待する。
胸が高鳴る。心臓の音がうるさいほどだった。
――何度も夢に見た。
手の甲に刻まれる、最強の剣士の証。
あるいは、伝説の魔導士の印。
この手に、それが宿れば、復讐の道が現実になる――。
「頼む……何か、何か出てくれ……!」
小さな、でも必死な声が漏れた。
自分の耳にしか届かないほどの弱さ。
着慣れない真新しい式服の袖を握りしめて、俺は神殿の前に立ち尽くしていた。
ここは魔族の神殿。
黒月の城に仕える大巫女シリルが管理する、神聖な場所。
その奥にある魔力の泉――そこで、鑑定の儀は執り行われる。
石の床には魔方陣が刻まれ、淡い蒼い炎が周囲を照らしていた。
列に並んだ魔族の子供たちが一人ずつ名前を呼ばれ、神殿の奥へと進んでいく。
そして、ついに俺の番が来た。
「アキラ。中へ」
扉の向こうから、澄んだ声が響く。
その声は、シリルのものだった。
あの夜、森で初めて会った、銀髪の巫女。
魔族の中でも高位の存在であり、神託と儀式を司る大巫女――そして、俺の鑑定を行う者。
俺は小さく頷いて、扉の中へと足を踏み入れた。
中はひんやりとしていて、空気は澄みきっていた。
まるで空間そのものが魔力に包まれているようだった。
泉の中央にある鑑定台の前に、シリルが静かに佇んでいた。
彼女の瞳は透き通るような藍色で、でもその奥には俺のすべてを見透かすような光があった。
「こちらへ。怖がらなくていいわ」
その言葉に、わずかに緊張がほぐれた気がする。
俺は静かに台に立ち、足元に浮かび上がる魔方陣を見つめた。
魔力の泉から放たれる蒼い光が、ゆらゆらと揺れている。
その光に包まれながら、シリルの声が高らかに響いた。
「アキラ。十二歳。本日、鑑定の儀を執り行います」
シリルが手を掲げると、空間の魔力が収束していくのが肌でわかる。
光の粒が俺の手の甲に向かって集まり、じんわりと熱を帯びはじめた。
そして、ついに――紋章が現れた。
輪郭は、確かに浮かび上がった。
だが、そこに“色”はなかった。
属性も、模様も、何も――ただ透明で、まるで空そのもの。
輪郭だけが、俺の手の甲に静かに刻まれていた。
その瞬間。
神殿の空気が凍りついたように、静まり返った。
誰もが息を呑んだまま、俺の手を見つめている。
やがて、シリルの声が静かに響いた。
「……空白の紋章、ですね」
その一言に、背後から明確なざわめきが起きた。
“無能”とされる――あの烙印。
ずっと恐れていた、最悪の“結果”。
空白の紋章。
それは、この世界で「無能力者」の証だった。
スキルも属性も発現せず、何の力も持たない者。
社会的には最下層に分類され、時に厄介者として忌避される存在。
魔族社会も例外じゃない。
知ってる。俺はその意味を、嫌になるほど学んできた。
図書室で、講義で、日常の雑談で“空白”とは、そういうものだと、何度も、何度も。
(……やっぱり、そうか)
あれほど願ったのに。
あの日の誓い。焼け落ちた村、崩れ落ちた母さんの姿。
俺はこの世界で生き残り、そして強くなって、全部取り返すって――
あんなに、強く祈ったのに。
でも。
結果は、これだ。
唇をきつく噛んだ。悔しくて、喉の奥が焼けるように熱い。
(……違う。これは何かの間違いであってくれ)
心の奥から、必死に願った。
どうか、ただのミスであってくれ。
この紋章の中に、何かまだ見えていない力があるんだと――そうであってくれ。
……けれど、その願いも、届くことはなかった。
不意に、シリルと目が合った。
彼女は静かに手を引き、俺の方へと優しく語りかけてきた。
「アキラ。鑑定は、これで終わりよ。お疲れさま」
その言葉に、俺はなんとか頷いた。
笑みを浮かべたシリルの表情は、いつもと変わらない穏やかさを湛えていた。
でも、目の奥――あの深い藍色の瞳の奥には、言葉では説明できない、何か複雑な光が揺れている気がした。
俺の手の甲を、ただの“空白”と断じきれない、そんな何かを……彼女は感じ取っていたんだろうか。
儀式を終えたあとも、神殿の神秘的な空気が肌にまとわりついて離れなかった。
手の甲の紋章――“空白”は、何も語らず、ただひんやりと冷たかった。
それが、余計に重く感じた。
静かな廊下を歩いていると、バルコニーの方に人影が見えた。
月の光に照らされて、そこに立っていたのは――リアンだった。
風に長い黒髪が揺れている。
背を向けていたはずの彼女が、俺の気配に気づいたのか、ゆっくりと振り返った。
「終わったか」
俺は、小さく頷いた。
言葉が出なかった。まだ、気持ちの整理がついていなかった。
リアンはバルコニーの縁に軽く腰を下ろし、ちらりと俺の方へ視線を向ける。
「聞いたよ。……“空白”だったんだってな」
リアンが小さく息を吐き、月明かりの差し込む城の緑にもたれかかる。
その視線が、ゆっくりと俺に向けられた。
どこか遠くを見るような目だったけど、そこに宿る光は、優しくて――ほんの少し、誇らしげだった。
「でもさ、アキラ。……お前、この五年で相当なものだぞ」
その言葉に、思わず顔を上げる。
俺は何かを返す間もなく、ただ彼女の横顔を見つめた。
リアンはふっと口元を緩めると、目を細めて続けた。
「体術、剣術、戦術。どれも驚くほど伸びた。集中力も判断も、実戦の感覚も――」
そう言いながら、彼女はゆっくりと自分の手を広げた。
その手は、たぶん、あの訓練場で何度も見た、俺の姿を思い返していたのかもしれない。
木剣を握って、何度も倒されて、それでも起き上がった日々のことを。
「年齢に対して異常だ。正直、私の訓練について来れるとは思ってなかった」
リアンの声は、静かで――でも、どこか温かかった。
「技術だけで言えば、同年代の魔族では右に出る者はいないだろう」
言葉にされて初めて、そんなに成長していたのかと実感が湧いてくる。
だけど、それ以上にリアンの言葉の奥にあった、ほんのわずかな“誇り”が、妙に胸に響いた。
「年齢に対して異常だ。正直、私の訓練について来れるとは思ってなかった」
リアンの声は、どこか感情を押し殺すように静かだった。
「技術だけで言えば、同年代の魔族では右に出る者はいないだろう」
淡々とした口調の中に、にじむような敬意が混じっていた。
それは、指導者としてではなく、一人の戦士として俺の成長を認めている証だった。
俺は思わず、少し目を見開いた。
リアンが俺を褒めるなんて、珍しい。
彼女はいつも厳しくて、的確で、でもあまり感情を表に出す人じゃなかった。だから、その言葉は余計に胸に響いた。
「……本来なら、そこに“紋章の力”が乗れば、もっと大きな可能性を引き出せた」
静かに告げたリアンの声には、わずかに悔しさが滲んでいた。
その響きに、俺の胸が少しだけ痛くなる。
それでも彼女は顔を上げ、まっすぐ俺を見て言った。
「けどな、アキラ。紋章がなければ何もできないってわけじゃない。お前はこの五年間、自分の力でここまで来たんだ。何をなすかは、お前自身が決めることだ」
その言葉には、魔族としての誇りと同時に、“個”の力を何より大事にするリアンらしい強さがあった。
誰かに依存せず、自分で選び、自分で立てという、彼女なりの励ましだ。
俺はゆっくりと視線を落として、少しの沈黙のあと、口を開いた。
「……少し、ひとりになりたい」
リアンは何も言わなかった。
ただ、小さく頷くと、ゆっくりと背を向けて歩き去っていった。
* * *
魔族の城を離れて、少し歩いた先にある草原。
昼間は魔獣の通り道にもなっているが、夜になると嘘のように静まり返る。
ただ、風だけが草を揺らし、低く唸るような音を立てていた。
俺は草の上に腰を下ろし、夜空を見上げた。
白い月は高く、遠く。雲は音もなく流れていく。
「……“空白”、か」
ぽつりと口にしたその言葉が、自分の胸の奥に重たくのしかかる。
認められたかった。
何か特別な存在として、証を手にしたかった。
でも現実は、空っぽの紋章――“無能”の烙印だ。
「何もない、なんて……そんなはずないだろ……」
ぎゅっと拳を握った。悔しさで指先が震える。
そのときだった。
「プルル……」
間の抜けたような鳴き声が、風に混じって聞こえてきた。
目を向けると、青く透き通ったスライムが一体、のそのそと跳ねていた。
体長は大人の足ほど。魔物としては最下級の雑魚だ。
……それでも、今の俺にはちょうどいい。
俺はゆっくりと立ち上がった。
腰に差していた短剣――訓練用だが、実戦にも耐えられる一本を抜く。
「……ふぅ」
深く息を吐いて、地面を蹴った。
短剣を構えながら一気に間合いを詰める。
俺の足音に反応したスライムがゆるりと振り返った、その瞬間。
刃を突き出すようにして、一直線に斬り込んだ。
「はッ!」
ぷちゅっ、と生暖かい感触とともに、スライムの身体が裂けた。
一度ぶるりと膨らみ……次の瞬間、霧のように崩れ落ちる。
……勝った。
だけどその直後だった。
俺の手の甲――“空白”だったはずの紋章が、淡く光り始めた。
「……え?」
目の端に、見慣れない文字が浮かぶ。
《モンスター撃破:スライム》
《情報獲得:スライムの構造解析完了》
《対象モンスターの力をインプットしますか?》
「な、なんだこれ……」
短剣を握ったまま、俺は自分の手を見つめた。
紋章は……やっぱり“空白”のまま。模様も色もない。
だけど、確かに何かが“動いて”いる――。
(インプット……?)
戸惑いながらも、俺は心の中で答えた。
――「はい」
すると、再び光が走った。
《インプット完了:ステータス更新》
《STR:+1》
……本当に、力が上がった。
ほんのわずか、だけど体の奥から確かな力が湧き上がる感覚。
自分の中に、“何か”が積み重なった気がした。
「これが……俺の、力……?」
呆然と呟く。
唇がわずかに震えていた。
誰も与えてくれなかった力。紋章にすら認められなかった力。
それでも――自分で掴んだものだ。
“空白”は、本当に“無”なんかじゃない。
確かにそこには、始まりのような力があった。
俺の中で、静かに何かが動き出していた。
それは、誰のものでもない、俺だけの物語の始まりだった。