4話
月が森を照らしていた。
その下を、二つの影が静かに進んでいく。
一頭の黒い馬。その背に、リアンと俺の姿があった。
風が枝を鳴らし、木々がざわめいている。
夜の森は静かで、けれど冷たく、どこか張り詰めた空気があった。
俺はリアンの背に抱かれるようにして馬に乗っていたが、ほとんど体を動かせなかった。
目は開いているのに、視界のすべてがぼやけているような、薄い膜越しに見ているような感覚だった。
体の芯まで冷え切っていて、感覚が麻痺しているようだった。
あの夜の出来事が、現実なのか夢なのか、まだ判断がつかない。
村が、焼かれた。母さんが、目の前で――。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。何も考えたくない。
けれど、何かを考えていないと、心の奥底がじわじわと溶解していくような、嫌な予感がした。
……なぜ俺は、この世界に転生したんだろう。
転生したことで、よくある物語のように、チート能力や特別な運命があると思っていた。
でも、実際は――何もない、ただの子供だった。ただの、無力な子供。
「……大丈夫」
リアンが、低くて優しい声でそう言った。
背中から伝わってくる彼女の体温が、ほんの少しだけ、現実を縫いとめてくれているような気がした。
「しばらくは静かにしてていい。眠れるなら、少し寝たほうがいい」
俺は答えなかった。
ただ、まぶたを閉じた。
けれど、目を閉じると、焼け落ちる家と、崩れ落ちる母の姿がすぐに浮かんでしまう。
だから、すぐにまた目を開けた。
木々の隙間から、星がちらちらと覗いていた。
まるで、何もなかったかのように。
どれくらいそうしていただろう。
リアンが、ふと馬上で微かに身を揺らし、前方を見据えるのが、背中越しに伝わってきた。
警戒しているのか、それとも何かを探っているのか。
彼女の全身から漂う、独特の気配。
それは森で出会ったシリルという女性の気配と、どこか似ている気がした。
あの二人はいったい何者なのか。なぜ、俺を助けてくれたのか。
漠然とした疑問が、ぼやけていた意識の端に、微かな形を結ぶ。
沈黙の中で、ふと声が漏れた。
それは、この奇妙な状況の答えを求める、かすかな本能だった。
「……人間じゃないのか?」
リアンは驚くこともなく、軽く息を吐いて答えた。
「そうよ。私は“魔族”。あなたは人間の子。普通なら、敵同士ってことになるわね」
その言葉の意味が、すぐには腑に落ちなかった。
けれど、森で出会ったあの銀髪の女性――シリルの気配。
そして、リアンの瞳に宿る、人間とは少し違う“何か”。
「ああ……やっぱり、そうなんだ」
ようやく納得できたような気がした。
“敵”――その単語が、胸の奥に小さく刺さる。
だが、目の前のリアンからは、敵意も、悪意も感じなかった。
「でも安心して。私は人間を食べたりしないし、血を吸うわけでもないわ」
冗談っぽく言いながらも、リアンの声にはどこか棘のようなものが混じっていた。
それは、ただの軽口じゃない。
人間に対する、何か複雑な感情――きっと、傷のようなものがあるんだろう。
まるで、数えきれないほどの憎悪と悲哀を、その小さな体に抱え込んでいるかのように。
「あなたの村……中立だった。すごくいい村だった。誰に対しても優しかったよ」
俺は、ぼんやりと頷いた。
父さんが言っていた。『魔族だろうと関係ない、人として接するんだ』って。
食事を出したり、泊めてあげたりしていたのも、父さんの意志だった。
「いい村だった……」
リアンが、ぽつりと呟いた。
その声は、森のざわめきにかき消されそうなほど小さかったが、深いため息のように、俺の心に響いた。
その言葉に、喉の奥がつまって、息が詰まりそうになった。
村が、“あった場所”になっている――そう、実感してしまった。
この感覚が、現実だと、否応なく突きつけてくる。
夜の冷気が、皮膚の奥まで染みてくる。
「……寝ていいわよ」
リアンの声は、誰かを優しく慰めるようだった。
その声に、少しだけ甘えて、今度はまぶたを閉じた。
――今度は、炎も絶望も、追ってはこなかった。
深い森の静けさの中で、意識がゆっくりと沈んでいった。
* * *
次に目を開けたとき、光が差し込んでいた。
空は白く明るく、鳥のさえずりが遠くに聞こえる。
体が重い。頭もまだぼんやりしていた。
広くて静かな部屋にいた。壁は石造りで、天井は高い。
窓から差し込む光は温かく、どこか異国のような空気を感じる。
石造りの冷たい壁からは、微かに土と古い木の匂いがした。
静寂が支配する空間で、自分の心臓の音だけがやけに響く。
「起きた?」
リアンの声がして、視線を向けると、部屋の隅の椅子に腰かけた彼女がいた。
リアンは窓から差し込む光を背に受けていた。
その横顔は、昨夜の緊迫した表情とは異なり、どこか安堵したような、しかし微かに疲労を滲ませているように見えた。
長い黒髪は少し乱れ、いつもきりりとした目元も、今は少し和らいでいる。
彼女の視線が俺に向けられると、わずかに唇の端が緩んだのが分かった。
「……ここは?」
「魔族の本拠地、“黒月の城”。あなたを連れてきたのよ。森を抜けて、一日かけてね」
リアンは椅子から立ち上がり、ゆっくりと窓辺へ歩み寄った。
朝日を浴びる彼女の横顔には、まだ眠気が残っているような、柔らかな雰囲気があった。
「……俺、ずっと寝てたんだ」
リアンは小さく頷いた。
少し沈黙があったあと、俺は勇気を振り絞るように聞いた。
「……父さんと、母さんは……」
言葉の途中で、声が震えた。目を背けたくなった。
けど、知りたかった。知らずにいる方が、怖かった。
リアンの瞳が、一瞬だけ悲しげに揺れた。
「……残念だけど、村はすべて……焼かれていた」
心臓がぎゅっと締めつけられるように痛んだ。体中の血が、一瞬で凍り付いたようだった。
「村人も……全滅だった。あなた以外は、誰も……」
唇を強く噛んだ。涙は出なかった。
けれど、胸の奥が、ぽっかりと空っぽになる。
まるで、内臓を抉り取られたような、底なしの空虚感が全身を蝕んだ。
「帝国軍が通る道にある村は、全て同じ目に遭ってる」
リアンの声には怒りがあった。静かで、けれど確かな怒り。
「魔族と接触しただけで、敵とみなされて滅ぼされる。それが今の“帝国”。私たち魔族を攻めるための拠点として、道中の村を潰して回ってるの」
そう言ったリアンの声は静かだったが、その奥に、確かな怒りがあった。
彼女の表情は変わらず落ち着いているように見えたが、眉の端がわずかに歪み、拳を膝の上で強く握りしめていた。
淡々と語ろうとしているのに、感情が漏れ出てしまっている。
彼女もまた、何かを奪われた者なのだと――俺は思った。
その怒りは、他人事じゃない。
悼み、憤り、傷ついてきた「魔族」の怒りだった。
人間と魔族という隔たりを超えて、同じ痛みを知る者同士の、静かな共鳴のように感じられた。
「じゃあ……俺の村は……ただ、それだけの理由で……」
呟いた俺の声に、リアンは顔を上げ、しっかりと俺を見つめ返してきた。
その瞳は、悲しみと真剣さがないまぜになっていた。
そして――どこか、俺のために怒ってくれているような眼差しだった。
「ええ。あなたの村は何も悪くない。でも、“それだけ”の理由で、燃やされたの」
悔しさと怒りが、胸の奥で渦巻いていた。
拳を強く握る。指先が震える。
(全部、壊された……)
ここはゲームじゃない。
理不尽なイベント、強制的なゲームオーバー……だが、コンティニューは存在しない。
だが、俺は――。
「……俺は、強くなる」
リアンが目を細めた。
その瞳が、どこか誇らしげに見えた。
元・廃人ゲーマーとして、俺は本気でこの世界を生き抜く。
そして――この理不尽な“世界”を、俺が攻略する。
この手で、すべてを――“勝利”を勝ち取る。
それが、俺の――この世界での、新たな“始まり”だった。