3話
母さんに手を引かれ、俺は布団を跳ね起きた。
ついさっきまで眠っていた部屋が、まるで別の世界に変わったように感じた。
焦げた臭いが鼻を強く突き、熱気が空気そのものを歪ませていた。
遠くで響いていたはずの騒音が、壁一枚の向こう、すぐそこにまで迫っているのが肌で感じられる。
「着替えなくていい、そのままで――早く!」
母さんの声は震えていたが、その手は強かった。
戸を開け放つと、夜風が吹き込み――熱を帯びていた。
目の前の光景に、息を呑んだ。
――村が、燃えている。
家々はまるで段ボール細工のように崩れ落ち、赤と黒の炎が夜空を舐め尽くす。
空には焦げた煙と火の粉が舞い、熱い灰が肌を叩いた。
(……戦争、だ)
そう心に思ってしまった瞬間、胸の奥が冷えた。
ゲームで見たどんな「滅び」のイベントよりも、この現実は残酷で、容赦がなかった。
手足が、鉛のように重くなる。
「アキラ、こっち!」
母さんに引かれるまま、俺は家の裏手へ走る。
木材が砕け散り、瓦礫が飛び散る音。
戸を蹴破った「何か」が、すぐそこにまで来ているのが分かった。
「父さんは……!」
「正門よ! 村の守りに行ったの!」
怒号、悲鳴、炎の爆ぜる音が混ざり合い、耳がぐしゃぐしゃになる。
足がもつれそうになるのを、母さんに引っ張りながらも無理やり連れていかれる。
「急がないと……帝国兵が、村中に入ってきてる……っ」
裏路地を抜けた先、俺の目に“それ”が映った。
ガシャ、ガシャ――鉄が軋む音が闇の中から響く。
姿を現したのは、鉄でできた“人型の何か”だった。
背丈は大人の二倍以上。胴体から腕、脚まで、全部が金属。
目のような部分が赤く光り、夜の中に浮かんで見える。
(な、に……あれ……?)
脳裏に浮かんだのは、ゲームのボスキャラ。
だが、目の前のそれは、CGでは表現しきれないほどの威圧感と、得体の知れない冷たさを放っていた。
「カラクリ兵よ!」
母さんが振り返らずに叫ぶ。
「帝国が、魔族から魔力を奪って作った機械兵よ……! 人なんて乗ってない。命令だけで、勝手に動くの!」
現実味のない言葉だった。しかし、目の前の存在は確かに動いている。
まるで意志を持った兵士のように、無感情な殺戮の塊だった。
その巨体が、目の前の家を何の躊躇もなく叩き潰すのが見えた。木が軋み、土煙が上がる。
(あれが、帝国の――“本気”か)
ロボット。前世の言葉がふと浮かぶ。
でも、あれは機械じゃない。もっと、冷たくて、生々しい、呪われたような存在だった。
「アキラ、しゃがんで!」
叫ぶ声と同時に、爆発音。どこかの家が吹き飛んだ。燃える梁が空を裂いて落ちてくる。
俺の頭のすぐ横を、熱風が通り抜けた。
全身が焼けるような熱気。焦げ臭い匂いが、喉の奥にまで広がる。
「大丈夫!? 怪我してない!?」
「う、うん……!」
手を引かれながら、物陰をすり抜けるように走る。すでに村の半分以上が火に包まれていた。
道の先で、友達の家が崩れ落ちていくのが見えた。
(……もう、戻れない)
焼け焦げた空の下、足を止める理由なんてひとつもなかった。
森の入り口が見える。
裏山へ通じる小道。木々がまだ無事で、そこだけが、村の中で唯一“いつものまま”だった。
「もう少し……ここを抜ければ……!」
母さんの声が、かすれていた。疲れているのに、ずっと俺を引っ張ってくれている。
母さんの手は汗でしっとりとしていたが、その震えが、この現実の恐怖を何よりも雄弁に物語っていた。
そのとき――
「ギィィ……!」
背後で、金属が擦れる音。
振り返ると、カラクリ兵が一体、こちらを追ってきていた。
「くっ……!」
母さんが俺の背中を押した。
「アキラ、走って!」
「えっ、ま、待って――母さん!」
「お願い、あなただけでも……っ!」
次の瞬間、地面が揺れた。
カラクリ兵の腕から放たれた魔力弾の爆発が、道を吹き飛ばす。
石が舞い、木が裂け、母さんは崩れ落ち、背中から深紅の血が滲んでいた。
(……うそ、だろ)
脚が、動かない。体が鉛のように重く、凍りついたようだった。
呑み込まれそうなほどの絶望が、俺を押し潰しかけていた。
(うそ……だろ)
体が鉛のように重く、動こうとしなかった
今まで経験したことがない絶望押し寄せる。
母さんが、動かない。
すぐ近くには、カラクリ兵の機械音。
鉄の巨人がゆっくりと、だが確実にこちらへ向かってくる。
その足音が、俺の鼓膜を直接揺らすように響いた。
カラクリ兵の腕が光を集め始める。恐らく次の一撃の準備だ。
死が、間近に迫っていることを、幼い体でも本能的に悟った。このままでは、母さんと同じになる。
俺は無我夢中で森の奥へと駆け出した。
俺は、そのまま暗闇の中で息を殺す。
耳を澄ますと、遠くから大勢の足音が響いてくる。
何かが、近づいてくる――。
その足音は規則的で、大きく、まるで軍隊が行進しているかのようだった。
何の気配か分からないけど、ただただ恐ろしくて、俺の心臓は激しく鳴った。
そんな時、背後から声が響いた。
「シリル様! 人間の子供を見つけました!」
森の空気が一変し、冷たい風が木々の間を駆け抜けた。
やがて、銀色の髪を揺らす女性が現れた。
月明かりのように輝く長い銀髪。
透き通るような白い肌。
藍色の瞳は、森のすべてを静かに見通していた。
彼女がゆっくりと歩み寄る様は、足音すら消え入りそうな静けさで、まるで森そのものが形を成したかのようだった。
「……こんな森の奥まで、人間の子が来るとはな」
その女性はそう呟くと、ゆっくりと俺の腕に手をかざした。
触れられた腕には、ただ柔らかな温もりだけがあった。何か特別な力を感じることはなかった。
だが、彼女の藍色の瞳は微かに揺らぎ、わずかに輝きを増した。
「……こんな森の奥まで、人間の子が来るとはな」
その女性はそう呟くと、ゆっくりと俺の腕に手をかざした。
触れられた感触はただの柔らかな温もりで、何も特別なものは感じなかった。
だが、藍色の瞳が微かに揺れ、深く何かを見透かしているように感じた。
シリルは静かに息を吐き、俺の腕から手を離した。
「無事に連れて帰る。リアン、護衛はお前に任せた」
そう告げると、シリルは隣に控える女性へと視線を向けた。
黒髪を一つに束ねた少女――リアンは、わずかに肩をすくめ、唇を歪める。
「……ったく、また護衛? こっちは前線に出たくてうずうずしてるってのに」
その言葉には、ただの愚痴には収まらない熱がこもっていた。
声こそ不満げだったが、瞳の奥には戦場を求める鋭い光が宿っている。
彼女の細い体つきには似合わぬほど、そこには一種の“気配”があった。
鋼のように研ぎ澄まされた意志。俺は直感した。こいつは――危険だ、と。
「命令だ。連れて帰れ」
シリルの短い一言に、リアンはわずかに眉をひそめたが、すぐに受け入れたように溜息をつく。
「了解、了解。連れて帰ればいいんでしょ」
言いながら、リアンは俺の方へと視線を向けた。その眼差しには、戦士の覚悟と、どこか遠くを見据えるような静けさが同居していた。
「私の名前はリアン。今日からしばらく、お前の護衛だ」
その声に、俺はほんの少しだけ、張りつめていた胸の奥がゆるんだ気がした。
この状況で、“誰かが自分を守る”と言ってくれる――それが、どれだけ心強いことか。
「……俺、アキラ。アキラって言うんだ」
ようやく声が出た。喉が焼けつくように痛かったけど、名乗らずにはいられなかった。
リアンは一瞬だけこちらを見て、小さく頷いた。
「覚えた」
それだけで、なぜか少し救われたような気がした。
けれど、すぐに胸の奥に湧き上がる焦燥が口を突いて出る。
「リアン……! 村が襲われてるんだ。お願い、助けて……!」
思わず声を荒げていた。
母さんのこと、父さんのこと――焼け落ちる家々と、崩れる声。
全部がまだ、頭の中でぐしゃぐしゃに渦を巻いている。
けれどリアンは、その叫びを真っすぐ受け止めてくれた。
「わかってる。……そのために、私たちはここに来た」
力強く、はっきりとした言葉だった。
まるで、道標のように迷いのない声。
「だから、お前は無事でいろ。いいな、アキラ」
リアンの言葉が胸にしみ込んで、少しだけ足元の不安が軽くなる。
……助けが来てくれたんだ。
もしかしたら、まだ間に合うかもしれない。
父さんも、母さんも――きっとどこかで、無事でいてくれる。
そう思いたかった。そう信じたかった。
炎の煙る夜の中、わずかに残された希望の光が、胸の奥に灯った。