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2話

 穏やかな日常は、まだ続いていた。


 しばらく経ち、俺は村の生活に慣れていた。

 毎日のように村人たちの紋章を観察し、ゲーマーとしての解析力を駆使して分類を始めていた。


 井戸端で水を汲む母さんの手には、水色のしずくを象ったような模様。

 畑を耕す農夫の腕には、葉のように広がる緑の紋。

 鍛冶屋のフリードおじさんの紋章は、赤銅に光るハンマーが交差するものだった。


(やっぱりそれぞれに個性がある。紋章はスキルの種類か、職業の系統を表してる……?)


 俺は心の中で分類しながら、照らし合わせていく。

 まるで隠しステータスを暴いていく作業のように、楽しくて仕方なかった。


「ねぇアキラ、また大人の腕ばっか見てるー!」


 近所の子どもに冷やかされても、まったく気にならない。

 この世界のシステムを解析するのが今の俺の最大の関心事だった。


 そんなある日の午後。

 どこか空気の端が、ざわりと揺れるような気配があった。


 井戸端で水を汲む村の女たちの会話が、ふと耳に入った。

 井戸のそばで洗濯物を干していた二人の女性が、声を潜めて話しているのが聞こえた。


「……ねえ、帝国軍がまた南の村に進軍したって聞いた?」


「ええ、もうすぐこの村にも来るんじゃないかって……うちの旦那が怯えててさ」


 一人が目を伏せ、指先をぎゅっと握る。

 その手には、洗い立ての布が握られていたが、無意識に力が入っているのが見て取れた。


「“人間の安全保障”のためだって……でも、焼かれてるのは中立の人間の村ばっかりよ」


 その言葉に、俺の心臓がどくりと跳ねた。

 一見、村の日常の風景の中に埋もれているような噂話。

 でも、そこには確かに、言いようのない“現実”が含まれていた。


(帝国軍? 進軍? この世界、戦争してるのか……?)


 俺はまだ子どもだけど、元は社会もゲームもそこそこ理解していた大人だ。

 耳にしたその話が、妙に頭に引っかかって離れなかった。


 そして胸の奥に、小さな不安の種が芽吹いた。

 それは“ゲームでよく見た崩壊直前のチュートリアル村”みたいな空気すら感じさせた。


 もう一人が吐き捨てるように言ったあと、周囲をちらりと見回した。

 誰に聞かれているわけでもないのに、思わず声を潜めてしまう――そんな空気だった。


 どこか、空がやけに静かだった。

 風もないのに、洗濯物だけが不自然に揺れているような、そんな不気味さがあった。


 胸の奥に、冷たいものが流れた。

 そして俺は、急いで家に帰ると、食事の準備をしていた母さんに声をかけた。


「ねぇ、母さん。帝国って、村に来るの?」


 母さんは手を止め、少しだけ驚いたように目を見開いた。


「……誰にそんなこと聞いたの?」


 母さんの声の調子がわずかに変わった。料理の手を止めたまま、俺を見つめる。


「井戸のとこで、みんなが話してた」


 その言葉に、母さんはほんの一瞬だけ眉をひそめた。けれど、すぐにいつもの穏やかな笑みに戻る。


「そんな噂を子どもが気にすることじゃないのよ」


 でも――その笑顔の裏に、確かにあった。わずかな“隠している”気配が。


 食い下がろうとした俺を制するように、母さんは柔らかいけど少し強い口調で言った。


「大丈夫。ここは辺境だけど、安全な場所なの。……さあ、手を洗って、夕食の準備を手伝って」


 言葉ではそう言っているけれど、母さんの目はどこか遠くを見ていた。

 まるで、自分自身に言い聞かせるような……そんな目だった。


(母さん……やっぱり、何か知ってる)


 俺の胸の中に、説明のつかないざわめきが残った。


 その夜。


 布団に入ったふりをして、俺は居間の方に耳を澄ませた。

 かすかに聞こえる、両親の会話。


 その夜、寝室の薄い壁越しに、父さんと母さんの声が小さく聞こえてきた。

 俺は布団の中でじっと息を殺し、両親の会話に耳を澄ませた。


「……魔族の使者が来たらしいな」


「援軍の手配をするって。でも間に合うのかしら。もし、帝国が本当にここまで来たら……」


「最悪の場合、アキラだけでも逃がさないとな」


 言葉の端々に、焦りと不安がにじんでいた。

 外の風がひんやりと窓を揺らし、村の静寂をいっそう深く染めていく。

 何が起ころうとしているのか、俺はまだすべてを知らなかった。


 そのあとも、村は表面上、変わらない一日を過ごしていた。

 子どもたちは棒切れを振り回して遊び、大人たちは畑や作業場でいつも通りに働いていた。

 けれど――その日差す夕日は、どこか重たく、胸の奥にひっかかるような色をしていた。


 何かが、近づいている気がする。

 村の空気の端に、微かなざわめきがずっと漂っているようだった。


 俺はその感覚を言葉にできないまま、いつも通りに夕食の席についた。

 けれど、箸を持つ手にほんの少しだけ力が入っていたのは、自分でもわかっていた。


 そして――夕食を終えたあと、母さんが台所で片付けをしているあいだ、父さんの姿が見えなかった。

 不思議に思って納屋を覗いてみると、そこには、椅子に座って剣を研ぐ父さんの姿があった。


「父さん……」


「おう、アキラ。まだ寝てなかったのか」


 月明かりが差し込む静かな納屋の中で、父さんは黙々と剣を磨いていた。

 武骨な鋼の剣。それは普段は家の奥にしまわれているもので、父さんが触れることは滅多にない。


「それ、どうしたの?」


「こういう時だからな。万が一の備えだ」


 父さんは研ぎ澄まされた刃を見つめながら、静かに呟いた。


「お前も、少し見ておけ」


 そう言って、父さんは自分の手の甲を俺の前に差し出した。

 そこには、銅色に輝く【槍と盾】の紋章が浮かんでいた。


「これは俺の紋章だ。“盾槍のランセット”って名前でな。元は騎士団の下級クラスだったが、魔物相手ならこの力で十分だった」


「それ……どんなことができるの?」


「剣や槍に“重力衝”を纏わせて、斬撃に重さを加える。防御に使えば、盾としても機能する。重い一撃を繰り出すのが、この型の特徴だ」


 そう言って父さんは剣を持ち上げると、手の甲の紋章がふわりと淡く光り、剣の刃先がわずかにきらめいた。


 魔力――いや、“紋章の力”が武器に流れ込んでいるのが見て取れる。


「すげぇ……」


「紋章が発現すれば、お前にも何かしらの能力が備わる。ただし、どんな紋章が出るかは“その人の資質”で決まる。親と同じになるとは限らん」


 父さんは剣を膝に乗せたまま、俺の目を真っすぐ見て言った。


「アキラ、お前がどんな紋章を持つかはわからない。けれど、大事なのはそれをどう使うかだ。いいか? 力が強いかどうかじゃない。どう使うかが、命を分ける」


 その言葉は静かだったけど、胸の奥にしっかりと響いた。


「……父さん、騎士だったんだよね。強かった?」


「さあな。でも、村を守るくらいにはな。今も、そうありたいと思ってる」


 父さんはそう言って、再び剣を丁寧に磨きはじめた。

 その横顔は、いつもよりずっと遠くを見ているようだった。


 その夜の風は、なぜか少し冷たかった。

 星が見えない曇り空の下で、村はいつも通りの静けさに包まれていた。


 でも、俺の胸の奥には、言葉にならないざわめきが残っていた。

 父さんの剣の刃が月明かりに照らされ、静かに光っていたのが、やけに記憶に残っている。


 夜になり、俺は布団に潜り込んだ。

 耳を澄ませば、遠くで虫の声が響いている。いつも通りの、静かな村の夜のはずだった。


 けれど、眠れない。

 何かが、村の周囲を、音もなく覆っていくような、そんな感覚があった。

 胸の奥が重い。冷たい石でも抱えたように、息苦しさが残る。


 ……不意に、外から低いうなりのような音が聞こえた。

 風でもない。獣でもない。地の奥から鳴っているような、鈍い響き。


 ごぉぉぉ……と、それは地鳴りのように腹に響き、床板が微かに震える。

 次の瞬間――身体の下から、大地が明確に“うねるように揺れた”。


「……なんだ……?」


 反射的に跳ね起き、窓の外を見た。


 そこに広がっていたのは、見たこともない光景だった。

 夜の闇の向こうで、空が、赤く染まっていた。

 炎のような灼熱の光が、地平の向こうから滲み出し、まるで空そのものが燃え上がるかのような異様な、禍々しい赤色に夜空を染め上げていた。


 次の瞬間――村の中央のほうから、誰かの悲鳴が上がった。


「きゃあああああっ――!!」


 それを皮切りに、怒号、衝突音、砕ける木の音、火の粉のはぜる音――

 そして、どこからか聞こえる無機質な金属の軋む音。

 それら全てが、濁流のように混ざり合った騒音が、洪水のように村を飲み込んでいく。


「な、なんだ……?」


 戸を蹴破るような音とともに、外で父さんの怒鳴り声が響いた。


「アキラを連れて逃げろッ!!」


 母さんの叫び声も、すぐ後に続く。


「急いで! アキラ、こっちに来て!」


 布団の中の世界は、一瞬で“戦場”に変わった。

 脳の奥で、何かが弾けるように理解する。


 これはもう、村の危機じゃない――現実の崩壊だ。

 ゲームオーバーの文字が見えない、理不尽なイベント。

 物語が、大きく動き出した瞬間だった。

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