第七話 その名を呼ぶために
朝の光が、カップの中の紅茶を金色に照らしていた。
コトリ、とカップを置く音がして、“お客さん”は首をかしげた。
「……やっぱり、思い出せないんだ。名前も、顔も。
でも、あの香りや、ルチェルさんの声を聞いてると……ふと、呼びたくなる。誰かの名前を」
カウンターに立っていたギルは、コップを拭きながら口元をゆるめる。
「思い出す順番なんて、人それぞれだよ。名前より、気持ちのほうが先ってこともあるだろ?」
「ニャ。むしろそのほうが自然ニャ。だいたい名前なんて後付けニャよ」
レジ奥の棚に座っていたフワが、しっぽを振りながら言う。
「なあ、それにしてもだ」
カラスのクロウが、窓辺の天井梁にとまりながらぼそりと呟く。
「思い出そうとしてるってことは、“その誰か”はまだ生きてる可能性が高いってことだ。でも会いに来ないってことは……その誰かも、もしかしたら、あんたのことを忘れてたりしてな」
「……それは、怖いな」
“お客さん”が、かすかに眉をひそめる。
「でも、それでも……もう一度会いたい。もし、どこかで生きてるなら」
「だったら、探してみたらいいニャ」
フワがカウンターからひょいと飛び降りて、言った。
「記憶はあいまいでも、魔法には“痕跡”が残るニャ。
昔使ってた杖とか、魔導具とか、そいつが寝てた布団のにおいでもいい。
魔力の“なごり”から、契約相手の波長を探ることはできるニャよ」
「……それって、できるの?」
ルチェルが驚いたように尋ねると、フワは自信たっぷりに胸を張った(猫だけど)。
「できるニャ。オレ様は元・一級使い魔ニャから。
ただし、必要なのは……“記憶をたどる旅”ニャ」
「旅、か……」
“お客さん”がつぶやいたその時。
「いいじゃん、旅!」
ギルがパン籠をテーブルに置いて笑った。
「このまま思い出すのを待つだけじゃ、もどかしいよ。
それに――おれもちょっと行ってみたい場所があるんだ」
「ギル?」
ルチェルが不思議そうに見つめると、ギルはほんの少し目をそらした。
「……おれの生まれた森。そこに、“思い出”があるかもしれないんだ」
クロウが小さく翼を震わせる。
「……なるほどな。確かにあの森辺りなら、昔の魔法使いの痕跡も多い。
探してる相手がそこにいる可能性は、なくもない」
「行ってみる価値は、ありそうね」
ルチェルが小さくうなずいたあと、少し寂しそうに笑う。
「でも……ギル、ほんとに大丈夫? お店、しばらく来れなくなるよ」
「そんなに長くかけるつもりはないさ。行って、ちょっと空気を吸って、思い出見つけて、帰ってくるだけ」
ギルの目に宿る光は、どこか遠くを見ているようだった。
「だから……ちょっとだけ、“おでかけ”してくるよ」
その日の午後。
旅の準備をはじめた喫茶ルシェットは、いつもより少しだけにぎやかだった。
コモリはギルのカバンにジャムの小瓶を詰めているし、フワは地図とにらめっこしながら「このへんは熊が出るからニャ」とぶつぶつ言っていた。
ルチェルは最後に、ギルの手にふんわりとパンを持たせる。
「これはね、魔力を少し込めてあるの。旅の途中で、ちょっとだけ心が寒くなったときに食べてね」
ギルは照れくさそうに笑いながら、そのパンを大切にカバンにしまった。
「……じゃあ、行ってくる。ちょっとだけ」
「うん。いってらっしゃい」
そして。
ギルと“お客さん”、それにフワとクロウ――小さな一行は、朝露の残る道を、静かに歩き出した。
忘れてしまった何かを、探すために。
大切だった“名前”を、もう一度呼ぶために。
読んでくださってありがとうございます!
次回からはギルの旅がはじまります!