第五話 空席の椅子、空白の記憶
翌朝。
静かな霧の晴れ間に、小鳥のさえずりが混ざる。
喫茶ルシェットのカウンターでは、ギルが慣れた手つきでカップを並べていた。
「……で、そのお客さん、結局名前がわからないニャ?」
フワが小さな帳簿をぱたんと閉じて、カウンターに飛び乗る。
その視線の先――窓辺の席で、昨日の“記憶を失った魔法使い”がぼんやりと外を見ていた。
「そうみたい。まだ不安定そうだからこっちから呼び名を決めるのも変だし、とりあえず“お客さん”って呼んでるんだけど……」
「ニャー。正直、ちょっと気味は悪いニャ。魔法の乱れがあんなにひどいのは、見たことないニャ」
「でも、悪意は感じないんだよね。むしろ、なんていうか――」
ギルはそっと声を落とす。
「……すっごく、大事なものを落としてきた人みたいな」
そのとき、ドアの鈴が鳴った。
「いらっしゃ――あれ?」
姿を見せたのは、くちばしの黒い、見覚えのあるカラスだった。皮肉屋でよく喋るやかましいカラスだ。
「よう。まだパンの香りで客寄せしてる、のんきな店か」
「あ!このくそカラス!」
「クロウ!」
フワとルチェルが同時に声を上げる。
カラス――クロウは、器用に羽を広げて一礼した。
「朝の見回りついでに、ちょっと気になる風があってな。仕方ないから来てやったんだ。記憶のない客ってのは、まだ居座ってるようだな?」
「……なによそれ、心配して来てくれたの?」
「心配?まさか。面倒事に巻き込まれる前に、逃げ道を探しとこうってだけさ。用心深いのが俺の長所でね」
そう言いながらも、クロウは窓辺の“お客さん”を一瞥した。
「へぇ……これはまた、見事に空っぽな目だ」
「クロウ、何か感じる? 前に似たような魔力を見たことあるとか」
ルチェルが訊くと、クロウは少しだけ間を置いて、低くつぶやいた。
「……似たような空気の主なら、かつて一人だけ知ってる。昔の“ご主人様”の中でも、特に厄介だった奴さ」
「それって……?」
「まぁ、直接の関係があるわけじゃないだろうが――」
そのとき、窓辺の“お客さん”が、ゆっくりと立ち上がった。
「……この香り、懐かしい」
その目が、オーブンから漂う香ばしいバターの香りを追っていた。
「……昔、誰かと、……一緒に食べた。甘くて……やさしい……でも、顔も名前も、思い出せない」
ギルが顔をしかめる。
「何か、引っかかってるんだね。感覚だけは、残ってるのかな…」
「……何か、足りないんだ」
お客さんはふらりと、空席の椅子を見つめた。
「そこに“誰か”がいた気がする。……いつも隣にいて、言葉を交わして、……一緒に笑ってた」
静かだった店内に、ひゅうっと風が通り抜けた。
「きっとそれが……、きっと大事だったのかもしれないね」
ルチェルがそっと声をかける。
「……うん。もし……もう一度、会えるなら――謝りたい。なぜか、そんな気がするから」
クロウはしばらく黙っていたが、やがてつぶやいた。
「……だったら、探すか?」
「……え?」
「それが使い魔だったら、契約が切れても完全に消えるわけじゃない。どこかに“痕跡”が残るもんさ。たとえば――あの客の手元に、“印”が残ってるかもしれない」
ルチェルは頷いて、席に戻った“お客さん”に声をかけた。
「……手、見せてもらってもいいですか?」
お客さんは戸惑いながらも、左手を差し出した。
その手の甲には――かすかに、赤褐色の痣のようなものが浮かんでいた。
三日月のような、しおれた羽のような、不思議な模様だった。
「これは……」
クロウが小さくうなった。
「やれやれ。面倒事に首を突っ込むのはごめんだが……」
くるりと羽を返し、彼は言った。
「――こいつが探してる誰かは、“まだ生きてる”可能性はあるぜ」
静かだった喫茶ルシェットの朝に、少しだけ風が動いたような気がした。
読んでくださってありがとうございます!
次回はこの“消えた誰か”の正体と痕跡をめぐって、喫茶ルシェットの仲間たちが動き出します。