第三十二話 旅支度と、風の道しるべ
朝の陽が、木々の隙間から差し込む。
喫茶ルシェットの奥、居間兼作業部屋では、出発前の準備が静かに進められていた。
「これも……いらないよね?」
ルウが背負い袋に詰め込んだ鍋を取り出し、首を傾げる。
「それは持っていけ、ニャ」とフワが即答した。
「けど重くて……」
「それでも食べられることのほうが大事ニャ!おまえ、外で調理できなかったらどうするつもりニャ?」
ルチェルは、ふふっと笑って包みを結ぶ。
「焼き菓子とパンは、これでよし。すぐ食べられるようにしておいたから」
その手元には、ふわっとバターの香りが漂う小さな袋があった。リンゴのドライフルーツが練り込まれたクッキーと、ほんのり甘い丸パン。
「コモリ、お水と茶葉は持った?」
ぴこりと耳を揺らして、コモリがうなずく。
「シエラ、その瓶……」
「うん。ちゃんと持ってる。まだ、光ってるわ。薄くなってきてるけど……ギルの残り香、まだ消えてない」
瓶のなかには、青銀色の鱗の欠片と、それを包むようにやさしくゆらめく光。まるで、小さな灯火のようにルチェルたちの進む先を照らしていた。
「じゃあ、行こうか。ギルを探しに」
ルチェルは最後に、喫茶ルシェットの看板を裏返す。
「*準備中。また来てくださいね*」
扉を閉めた瞬間、風がふわりと吹き抜けた。
まるで、何かが“こちらへ”と手招きするように。
* * *
森の奥へと進む道は、いつもより静かだった。頼りは瓶の中でほのかに光るギルの鱗だ。鳥の声も風の音も、どこか遠くに感じる。
だが、瓶の光はかすかに震えて進行方向を指し示していた。
「こっち……だと思う。なんか、風が……呼んでるみたい」
シエラが足を止めると、ルチェルも一緒に立ち止まった。
その瞬間、ふいに風が強くなる。草葉がさわりと揺れ、道の先に光の裂け目が生まれた。
ひとしきり吹き抜けたあと、空気の匂いが変わっていた。
「……ここ、なにか違うわ。魔力の流れが……濃い?」
「これは、“道”じゃないニャ。“場所”そのものが、呼んでるニャ」
誰からともなく、そこに足を踏み入れた。
すると、一歩ごとに景色がぼやけ、色がやわらぎ、やがて目の前には広い草原が広がっていた。
──静寂のなかに、ひとひらの声が響く。
「風の名に問う。なぜここへ来た?」
声の主は見えなかった。ただ風が吹くたび、どこかから語りかけるように響いてくる。
「……ギルという名の、小さな竜を探しています。わたしの、大切な仲間なんです」
ルチェルが、まっすぐ声の方を見つめて言った。
「…名を封じられし竜か。彼の名はまだ、還らぬが……。その気配なら確かに、通った」
「どこへ行ったの?教えて!」
「“彼自身”を問うための場所へ。名を持たぬ者が、自らを選ぶときが来たのだ」
「回りくどいニャ……」
フワがうしろでそう舌打ちする。
「でも、ギルがたしかにここを通った事はわかったわ!」
シエラが瓶を掲げた。
「教えてくれて、ありがとう。私たちは絶対にギルを見つけてみせます!だってーーー」
ルチェルは瓶の中の光に目を向け、力強く言った。
「ーーギルはきっと、待ってるから!」
瓶の中の光が一筋の風となり、草原を裂くように走った。
「ならば行くといい。風はきっと君たちを、彼のもとへ導くだろう」
そう言い残すと、風はふわりと優しくルチェルの頬を撫で、草原の向こうへと消えていった。
──静寂が戻った。
でもそこには、確かに“次”があった。
「じゃあ、行こう。ギルのもとへ」
ルチェルたちは、導かれるままに歩き出した。
足元には、小さな青い花が風に揺れていた。




