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第三十話 名を問うもの



暗闇は、どこまでも深かった。


ギルはゆっくりと瞼を開けた。だが、視界はぼんやりと霞んでいて、どこにも見慣れた光はなかった。木の香りもしなければ、パンの匂いもしない。

喫茶ルシェットとはまったく違う、静かで冷たい空気。


「……どこだ、ここ……?」


自分の声が、やけに響いた。床は硬く、ひんやりとしていて、石の感触が足の裏を伝う。見上げた天井には星すらなく、ただ、ぽつんと光る球体のようなものが浮かんでいた。


そのとき、不意に声がした。


「目覚めたか、小さき竜よ」


ギルは眉をひそめた。声の主は見えない。だが、その響きには不思議な懐かしさがあった。


「……誰だ。ここはどこなんだ。ルチェルや、みんなは……」


「彼らは“向こう”にいるだろう。まだ誰も気づいていないはずだ。おまえが、“こちら”に連れ去られたことにも」


「……さらわれた?って、おれが?」


「ああ。おまえは、かつて自ら進んでこちらに来たことがあるだろう?単にそれを“忘れている”だけだ。ある名を捨て、ある記憶を封じ、ただの“小さな竜”になった」


ギルの胸に、どくん、と何かが波打った。


「おまえは“名”を持っていた。古く、深く、強き名だ。だがいまや誰も、それを知らぬ。いや、おまえ自身が、最も遠ざけたのだ」


「名前……?俺の?」


「そうだ。ここは、“名”を問う場所。おまえが何者かを思い出すまで、おまえは元の世界には還れぬ」


ギルは目を閉じた。


――名も、力も、失った竜。火も吐けず、空も飛べず。けれど、それでもいいと思った。喫茶店で過ごす日々が、かけがえのないものだったから。


「……俺は、ただのギルだ。ただの落ちこぼれの竜で、接客がちょっと得意で、パンが好きで、みんなと一緒にいたいって、そう思ってるだけで……それじゃ、だめなのかよ」


声は、しばし沈黙した。


「その想いは、偽りではない。だが──それは“すべて”ではないのだ」


再び、あの淡い光が、ギルの足元を照らした。


そこには一冊の古い本があった。表紙には、見覚えのない紋章。そして、その背表紙に小さく、金色で刻まれた名前。


ギルは震える指でそれをなぞった。


──そこに記されていたのは、「スヴェイル」という名。


「忘れられし、おまえの本当の名だ。ギルはその“影”。だが、影が“本物”より偽りだとは限らぬ」


ギルは目を見開いた。


その名を口にしたことはない。だが、胸の奥で、何かがざわめいた。知らないはずなのに、心のどこかで確かに知っているような、奇妙な感覚。


「答えを急がずともよい。小さき竜よ。おまえが選んだ“名”を否定する者は、誰もいない。だが、その“名”には力がある。真の名を受け入れる覚悟があるか?それともーーーー」


そして、光は消えた。


ギルは一人、闇の中で本を抱きしめ、静かに座り込んだ。


ここがどこかも、どうすれば帰れるのかも分からない。

だが、少なくとも今、彼は自分の“過去”と“今”が交差する地点に立っていた。


そしてその先にあるものが、きっと彼が望む“未来”に繋がる道となるのだろう。


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