第二十九話 消えた竜と、ひとひらの鱗
喫茶ルシェットの朝は、いつものように静かだった。
パンは焼きあがり、紅茶の香りが店内に広がる。
シエラはカウンターでメニューを書き写し、コモリは新しいジャムの瓶を並べている。フワは帳簿と睨めっこをしているし、ルウはテーブルを何度も拭いている。
けれど──そこに、ギルの姿だけがなかった。
「まだ、戻ってこないの?」
ルチェルが厨房から顔を出し、少しだけ眉尻を下げた。
「うん。昨日の夜から……ずっと。声も、気配もないの」
シエラが心細げに答えた。
ギルがいない朝など、ほとんど記憶にない。あの旅以来だ。
早起きしてカウンターで本を読んでいたり、パイの焼き加減に文句を言っていたり──フワと言い合いをしたり。
彼の“いる空気”は、いつもこの店に自然に溶け込んでいた。
それが、まるで霧のように消えている。
「昨日、変わったことはなかったニャ?」
フワがレジから顔を出し、低く問う。
「……ううん。ほんとに、いつも通りだったよ。閉店のあとに片づけして、ギルもシエラもコモリも、普通に部屋に戻って──」
「でも、朝にはいなかったニャ」
そのとき、ルチェルが何かに気づいたように立ち上がった。
「……これ、ギルのノート?」
カウンターの下。普段ギルが使っているスペースに、開きかけのノートが残されていた。
そこには走り書きのように、ひとことだけ書かれていた。
「──なにか、呼ばれている気がする」
「夢、じゃない……よね?」
ルチェルがそう呟いたとき、コモリが店の入口の方を見て小さく震えた。
「ル、ルチェル……扉の外……」
コモリの声なき言動にみんなが目を向けたその先に、小さなものが落ちていた。
──鱗だった。
透き通った蒼銀色の、しっとりとした質感。
間違いなく、それはギルのものだ。
「どういうことニャ……ギルは、“連れ去られた”のニャ?」
フワが思わず立ち上がる。
「この鱗……引き剥がされた痕があるよ。自然に落ちたんじゃないんじゃ」
シエラは青ざめ、ルチェルは手を握りしめ、深く息をついた。
「何かが──ギルを連れていったのね。ギルが竜であることと、関係があるかしら……?」
そのとき、ルウがそっと扉の前に立った。
「……あの、ぼく、昨日の夜……窓の外で、“だれかに話しかけられてたギルさん”を見た気がします」
「誰か?」
「暗くてよく見えなかったんです。でも、声は低くて……なんだか、“知ってるふう”だったから。知り合いかなって。ギルさんのことを、“本物の名前”で呼んだみたいだったし…」
一同が言葉を失う。
ギル──本当の名前。
竜としての、それがあるなら──それを知る何者かが、彼を連れ去った……?
「それなら、“目的”があるニャ。ただの迷子や家出じゃないニャ。これは……“狙われた”ってことニャ」
フワの声は、静かに硬かった。
ルチェルは、鱗をそっと両手で包み込む。
「ギルを探しに行こう。けど、今はまだ、焦っちゃだめ。……あの子は、“帰ってこられる場所がある”って、信じてるはずだから」
彼女は、用意したパンをオーブンに入れ直した。
あたため直したその香りは、変わらぬ日常の証。
けれど、そこに“欠けたひとり”の存在が、はっきりと滲んでいた。
静かな森に、少しだけ、緊張の匂いが混じり始めていた──。
読んでくださってありがとうございます!
ハラハラ展開苦手です。。




