第二十八話 小さな竜の、静かな不在
喫茶ルシェットの朝は、いつもどおり、パンの焼ける香りとともに始まった──はずだった。
「え?ギルが……いない?」
シエラの声が、店内の空気を揺らした。
寝室にも、書棚の隅にも、いつも陣取っているカウンターの椅子にも、ギルの姿はなかった。
「まさか、また寝坊かと思ったニャ……本当にいないニャ?」
フワがしっぽを巻きながら、レジの上で不安げに言う。
「私、朝いちばんに厨房にいたけど、足音ひとつしなかった。何も言わずに出ていったんだと思う」
ルチェルがオーブンの前で眉をひそめる。
テーブルの上には、一冊の本だけがぽつんと置かれていた。
ギルが大事にしていた古い魔導書──ところどころ、竜の歴史について書かれているが、読み解けるのは彼だけだった。
「……なにか、思い出したのかな…」
シエラが不安そうにぽつりと呟いた。
「どこかに、行く理由があったのかもしれないニャ。……ギル、弱いくせに一人で抱え込むところ、あるからニャ」
フワの言葉に、誰も否定できなかった。
ルチェルはテーブルの本を手に取り、そっとページをめくる。
そこには、竜についての古い記述が並んでいた。
ギルは竜だ。
火も吐けず、飛ぶこともできない。けれど、確かに“長く生きてきた”ことは、時折垣間見えた。
──博識さ。
──異様に落ち着いた物腰。
──そして、時折浮かべる“年齢不相応”な孤独。
ノートの中には、古い使い魔の記録や、契約魔法の変遷、そして“竜”と呼ばれる存在が何を担っていたのか──その痕跡が記されていた。
『竜の力は、時に失われる。
忘却の霧に覆われたとき、炎も翼も眠りにつく。
それは祝福か、あるいは罰か──』
「……ギルが火を吐けないのも、飛べないのも……やっぱり、なにか“理由”があるのかもしれないね」
その言葉に、シエラも、フワも、静かにうなずいた。
「コモリ、お茶淹れてくれる?」
ルチェルの声に、ぬいぐるみの精霊はぴょこんと跳ねて、ぽっと湯気のたつティーポットを差し出した。
「大丈夫。ギルはきっと帰ってくる。だからギルが戻ってきたら……温かいパンと紅茶で迎えてあげたいね」
ルチェルがそう微笑むと、店の中にはまた、ささやかな日常が戻ってきた。
けれど、その中心にあったはずの小さな竜は、今はそこにいない。
──外の森には風が吹き、どこか遠くで、青い鱗が一瞬だけ光った。
喫茶ルシェットの扉は、今日も開いたまま。
彼が帰ってくるその時まで、その香りとぬくもりは、ずっと変わらずそこにある。
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