第二十四話 影のない来訪者
朝の光が、窓からやわらかく差し込んでいた。
喫茶ルシェットでは、パンの焼ける香りと湯気の立つスープの匂いが、空気の層を優しく満たしている。
ルチェルはカウンターの中で、ギルが並べたカップにお茶を注いでいた。フワは天秤ばかりと睨めっこをしながら、なにやら帳簿と格闘している。シエラは掃除用のホウキを手に、入り口のマットを丁寧にはたいていた。
そのとき、扉の呼び鈴がカラリと鳴った。
「いらっしゃいませ」
シエラの声と共に、ひとりの客が入ってくる──かと思われたが。
「……あれ?」
扉の内側には、誰もいなかった。
けれど、確かに鈴は鳴った。
床にはうっすらと足跡がある。霧のような湿り気を帯びた足跡が、窓辺の席まで続いていた。
そこに、座っていた。
……だが、その人影には、影がなかった。
ギルが無言で後ずさる。ルチェルも、一瞬だけ息をのんだ。けれどすぐに微笑みを浮かべ、紅茶を載せたトレイを持って近づいていく。
「こんにちは。よければ、あたたかいお茶でもどうですか?」
その姿は、人間のようでもあり、そうでないようでもあった。服の形も、顔の輪郭も、見る角度によって微妙に揺れていた。
「……この場所は、まだ……在るんだね」
その声は、男とも女ともつかない、透き通るような響きだった。
「ここは、“いま、ここにいたい”と思う人と、帰る場所を探す者のためのお店ですから」
ルチェルが言うと、影のない客はわずかにうなずいた。
「わたしは、ずっと誰かの“使い魔”だった。でも、その誰かは、もういない」
「そうだったのね……」
「名前もないまま契約されて、名前もないまま、忘れられて、いなくなって」
フワがピクリと耳を動かす。シエラはそっと近づいてきて、ルチェルの横に立った。
「じゃあ──名前をつけましょうか?」
「……え?」
「ここでは、名前をもらうことが、“最初の一歩”になるの。パンを食べて、お茶を飲んで、ほんの少しだけでも、ここにいてみて。それからでいいから」
影のない存在は、しばらく黙って紅茶を見つめていた。
そしてようやく、指先でそっとカップを持ち上げた。
「……あたたかい」
「でしょう? ふふ、魔法が入ってるからね」
ギルが笑った。
「ルチェルのパンは泣けるほど美味いんだよ。俺が保証する」
影のない存在は、小さく笑った。
「……じゃあ、もうしばらく、ここにいてもいいかな」
「もちろん。あなたの影が戻るまででも、それから先でも」
ルチェルは穏やかに答えた。
窓辺の席に、新しい“誰か”が座った。
影はなかったけれど、確かにそこに“心”はあった。
そして喫茶ルシェットは、今日も静かに、優しく開かれている。
誰かのために、名前のない客のために。
──次は、きっとパンがあの席に届けられるのだろう。
読んでくださってありがとうございます!
二十三話と、二十四話が混在していて修正致しました。




