第二十三話 まだ見えぬ、見知らぬ誰か
窓の外を、春のような風が通り抜けた。
けれど、それはまだ春ではない。森の木々は硬い芽を抱えたままで、空にはうっすらと冬の名残が残っていた。
「……今日は、あったかいね」
ルチェルは、カウンターにココアを置きながらそう呟いた。
その目の前で、シエラがうなずく。
「うん。なんだか、ちょっとだけ背中が軽いっていうか……」
「“季節の変わり目”ってやつニャ。気を抜くとまた風邪ひくニャよ?」
「う……はい、フワ先輩」
フワはふん、と鼻を鳴らしたが、その尻尾はどこかご機嫌そうに揺れていた。
店は静かだった。ランチタイムの喧噪が去り、夕方の焼き菓子が焼き上がるまでの、つかの間の休息。
ギルとマグは外で薪割りをしていて、コモリは厨房でチョコチップの計量をしていた。
その隅のほうで、ルウがココアを飲みながら、珍しく空を見上げていた。
「ねえ、ルチェル。風ってさ、“誰かの足音”に似てるよね」
「足音?」
「うん、名前のない誰かが、森の外からやってくるみたいな。……そう思わない?」
そのルウの言葉に、ルチェルは目を細めた。
「……たまに、そういう風が吹くのよね。昔、喫茶店を開いたころにも、似たような風があったの。……嵐の前みたいな、不安で、でもなぜか懐かしい感じの」
「それって、“魔法の風”ニャ?」
フワが声をひそめて聞いた。
「ううん、違うと思う。でも……何かを運んでくる風、かもしれない」
その瞬間、カラン、と扉が開いた。
風が一陣、店内を吹き抜ける。
誰もいない扉の先、けれど確かに、誰かの気配だけが残されていた。
ルチェルが、静かに呟いた。
「……ねえ、みんな。もし、誰かがここを訪ねてきたら、その子にパンとミルクスープを出してあげて。名前がなくても、姿が曖昧でも」
「また“迷子”かニャ?」
「うん。きっと、この風はその子を呼んでる」
静かな店内に、パンの香ばしい匂いと、甘い焼き菓子の香りが混じっていく。
それは、“居場所”の匂い。
たとえ名前をなくした者でも、魔法を失った者でも──
この喫茶ルシェットでは、誰かの優しさが、いつだってその空席を待っている。
そしてまた、風が吹いた。
次に扉を開けるのは、一体どんな“奇跡”だろうか。
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