第二十二話 名前のない日常に、風が吹く
昼下がりの喫茶ルシェットは、静かな光に包まれていた。
窓辺に干されたハーブが風に揺れ、淡い香りが店内に満ちている。
「ルウー、そっちのテーブル、もう拭いた?」
「う、うん! たぶん、完璧……!」
「“たぶん”は信用ならんニャ。ほら、拭き残しがあるニャ」
フワが器用にしっぽを伸ばしてテーブルを指し、ルウは慌てて布巾を握り直す。
「ルウ、焦らなくていいから。少しずつ、慣れていこうね」
ルチェルがやわらかく声をかける。ルウは顔を赤らめてこくりとうなずいた。
彼の動きはまだぎこちないが、どこか楽しそうだった。
その様子を、ギルはカウンターの奥からぼんやり眺めていた。
「……思ったより、馴染んでるな。ルウ」
「そりゃあ、“ここにいてもいい”って言葉は、強いニャ。特に、名前のなかった使い魔には格別ニャ」
ギルは黙った。窓の外では、森の葉がざわめいている。
使い魔──何かに仕える存在。名前をもらい、役割を持って生きる存在。
でもここには、「名前をもらっていない」使い魔も、「誰のものでもない」精霊たちもいる。
「ねぇ、ルチェル」
ふと、シエラがパン生地を丸めながら問いかけた。
「“使い魔”って、どこから来るの? もともと誰かのものとして生まれるの?」
「……違うと思うよ。きっと、誰かの“願い”とか、“祈り”みたいなものから生まれるんだと思う」
「願い……?」
「うん。“寂しくないように”とか、“誰かといたい”とか。
そういう気持ちが、どこかで形を持つとき、使い魔になるのかもしれない。
それがたまたま魔方使いに“使われる”形になっただけで、本当は――」
「本当は?」
「本当は、“一緒にいたい”だけなんだと思う。誰かと。何かと…」
シエラは、こねていた手を止めた。そしてギルを見た。
「……じゃあ、わたしも、そうだったのかな。あのとき、“ギルといたい”って、思ったから……」
ギルは目をそらした。
「さあね。でも、それなら──おれもそうかもな。あのとき、パンを食べたとき」
「泣いてたもんニャ、あんとき」
「う、うるさいな、フワ」
どこか照れたようにそっぽを向くギルに、コモリがそっとカップを差し出した。温かいハーブティーだ。
ルチェルはその様子を見ながら、小さく笑った。
名前のない誰かが、居場所を見つける。
ただ、それだけのことが、こんなにも大きな“奇跡”になる世界。
今日も風が、扉をそっと揺らす。
それは新しいお客かもしれないし、迷い込んだ使い魔かもしれない。
でも、どんな誰かでもいい。ここは、そういう場所だから。
「──さあ、ルウ。次は紅茶のサーブ、やってみようか」
「はいっ!」
いつも通りの喫茶ルシェットに、ささやかな風が吹いた。
それは、ほんの少しずつ、名前のない日常が、形を持ちはじめていた証だった。
読んでくださってありがとうございます!
少しだけ、この世界に触れてみました。