第二十話 ルチェル、今日はおやすみ
朝、喫茶ルシェットにパンの香りが漂わなかった。
「……おかしいニャ。いつもなら、もう焼きあがってる時間ニャよ?」
フワがしっぽをぱたぱた揺らしながら、厨房の方を覗き込む。けれど、どこからも湯気も湯音も聞こえてこない。
「ちょっとルチェルー? 起きてるー?」
呼び掛けても返事がない。
ギルが心配そうに二階の扉をノックし、そっと開けると──そこには、頬をほんのり赤らめ、布団にくるまってぐったりしているルチェルの姿があった。
「……お、おはよう……うぅ、ちょっと、熱があるみたい……」
「バカ! 無理しすぎだよ!」
「でも、パン……まだ焼いてないから……」
「パンはいいから寝てろー!」
ギルがあたふたと額に手を当てると、確かに熱い。見るからに高熱、とはいかないまでも、喫茶店の厨房に立てる状態じゃない。
「今日はおやすみだよ、ルチェル。ちゃんと、休んでて」
「でも……お店……」
「俺たちが、なんとかするから!」
その声に、ギル自身が一瞬驚いた。けれど、もう決めていた。ルチェルのいない一日は、きっと初めてだ。でも、できる限りのことはしよう。──ルチェルのために。
その日、喫茶ルシェットは少しだけ開店が遅れた。
「よし、フワはレジ。ルウはお皿運び。コモリはお茶とお菓子。シエラは……」
「パン生地、昨日のが冷蔵庫にあるよ。焼き上げは、わたしがやる」
「……頼もしいニャ」
「じゃ、マグ。君は手の足りないところを手伝って!」
「わ、わかりました!」
マグ──先日ルチェルに拾われた新入りの使い魔(鳥人の青年)は、厨房の隅で何度もうなずいていた。彼はまだぎこちないが、真面目で力持ち、洗い物や配膳の補助にはうってつけだった。
「意外とまとめるの得意だニャ、ギル」
「まあ……こういうの、昔やってたからさ」
「“昔”? いつニャ?」
「……ずっと前。まだ、“火も吐けない落ちこぼれ”って、笑われてた頃」
言葉の端に、自嘲と、それでも揺るがない芯の強さがあった。
昼下がり。てんやわんやの中にも、不思議と店は回っていた。
シエラは慎重にパンを焼き、フワとコモリが息ぴったりのホール対応を見せる。ルウは無口ながら気配りができ、マグはひたすら皿やカップを洗って洗って洗いまくる。
「……なんとか、なるもんだね」
ギルが、ふうと息をついたときだった。
「……あれ? ルチェルは?」
常連の老婆が言う。ほかのお客も、店主の不在を不思議そうにしている。
「今日は……ルチェル、風邪なんです。だから俺たちで、店を」
「まあ……それは大変。でも、あんたたち、よくやってるよ。ちゃんと、あの子の味がするもの」
「……ありがとうございます」
ギルは、ちょっとだけ照れて、でもうれしそうに頭を下げた。
日が暮れる頃。
喫茶ルシェットのテーブルに、小さなトレイがのせられた。
シエラが焼いたシンプルなバターロール。コモリがいれてくれたハーブティー。フワが帳簿のすき間で摘んできた花。マグとルウが選んだ、ふかふかの布団。──そして、ギルが添えた小さなカード。
《ルチェルへ
今日は一日、ちゃんと休んでえらかったね。
パンのことは任せて。明日も無理しないでね。
──みんなより》
「……ふふっ」
ぼんやりとした頭で、ルチェルは笑った。
窓の外には月が昇っていた。
そして──翌朝。
まだ本調子ではないけれど、ルチェルはふらりと一階に降りた。
そこには、昨日より手際よく働く仲間たちの姿があった。
「あ!ルチェルちょうどいい所に!」
「……あれ? 今日も、休ませてくれるんじゃなかった?」
「そうしたいけど、厨房のバターの隠し場所がわからなくて」
「しょうがないわねえ」
ルチェルはちょっとだけ苦笑して、湯気の立つパン生地の前に立つ。
そして、思った。
──この子たち、きっと、わたしがいなくても生きていける。
でも。
──わたしは、きっと、この子たちがいるから、生きていけるんだ。
風邪は、少しだけ、ルチェルの心を軽くしてくれた。
喫茶ルシェット。ここには今日もあたたかい匂いが、立ちのぼる。
読んでくださってありがとうございます!
ルチェルがお休みの回でした!