第十九話 ひとりぼっちのマグ、あたたかいスープ
昼下がりの喫茶ルシェットには、いつものようにパンの香ばしい匂いが漂っていた。
ルチェルは大きな鍋の前でスープをかき混ぜている。とろとろに煮込んだ根菜と豆、仕上げにひとかけの魔法のスパイス。それは彼女の得意な一品で、「心をほぐすスープ」として店の隠れた人気メニューだった。
「ギル、そっちはどう?」
「こっちは焼き立てのブレッドバスケット準備完了。あ、フワ、テーブル拭いた?」
「拭いたニャ。でもルウが同じところを三回は拭いてたから、なんかムラが出たニャ」
「え、ぼく……そ、そんなに……?」
ルウが焦ってタオルを握り直す。新人らしいぎこちない手つきではあるが、彼なりに真面目にやっているのが伝わってくる。
「大丈夫だよ。少しずつ慣れていこうね」
シエラが笑いかけると、ルウは少しだけ頬を赤くしてうなずいた。
その時、扉のベルがカランと鳴った。
ふわりと入ってきたのは、くすんだ羽毛をまとった、ふしぎな姿の客だった。
見た目は鳥に似ているが、どこか人のような佇まい。首にくるくると巻かれたぼろぼろのマフラーが、旅の長さを物語っていた。
「いらっしゃいませ」
ギルが声をかけると、客はそっと頭を下げた。目元はかすかに震えている。
「ここ……あたたかい匂いがしたから、つい……」
「うん、それなら正解。外寒かった?」
ギルが軽く微笑むと、鳥のような客──小さな使い魔は、うつむいたままこくりとうなずいた。
「どこかの使い魔だったの?」
今度はシエラが問いかける。客は少し迷ってから、ぽつりと答えた。
「……前の主に、『もう要らない』って言われて。長く飛び続けて、でも行く場所がなくて。魔力も切れて、翼も……折れたままで……」
沈んだ声が喫茶店に落ちた。ルチェルは静かにスープの火を止め、マグにそっと注ぎ始める。
「それなら、ここにいればいいよ」
「え……?」
「うちは“居場所をなくした使い魔”のための店だからね」
そう言って、ルチェルはマグを差し出した。
「心をほぐすスープ。ちょっとしょっぱいかもだけど、冷えた羽根には効くと思うよ」
震える手でマグを受け取った客は、そっとスープを口に運んだ。
──その瞬間、かさついた羽根がふるふると震え、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
「……あったかい……」
「泣いてもいいニャ。誰も何も言わないニャ」
フワが、ぽふんとその隣に座る。コモリも、無言で毛布を引っ張ってきて、そっとかけてやった。
ギルはその様子を、じっと見つめていた。
昔の自分と重なる姿だった。火も吐けず、どこにも居場所がなかった、あの頃の。
「なあ、名前ってある?」
「……“マグ”って呼ばれてたけど、それ、本名じゃないと思う」
「じゃあ、それでいいよ。今は“マグ”で、また違う名前が欲しくなったら考えよう。ここにいるうちに、きっと見つかる」
「……うん」
そのとき、シエラがそっとルウに耳打ちした。
「こうしてまた一人、仲間が増えたね」
「……うん。でも、ぼくなんてまだ何もできてないのに」
「じゃあ、一緒にできるようになればいいだけ。焦らなくていいんだよ。あたしたち、みんなそうだった」
厨房からルチェルの声が飛ぶ。
「シエラ、次のスープをお願いー!」
「はーい!」
ぱたぱたと駆けていくシエラの背中を見つめながら、マグはそっとマグカップを抱えた。
この店の名前は──喫茶ルシェル。
名前の通り、光を包む場所。
名を持たないもの、名を忘れたものに、新しい朝と、あたたかい居場所をくれるところ。
その日、マグはずっと羽をたたみ、温かいスープを少しずつ飲みながら、静かな午後を過ごした。
たったそれだけのことが、彼にとっては魔法のようだった。
──外では風が吹き、枝の上に小鳥がさえずっている。
今日もまた、誰かが扉を開ける音が聞こえそうだった。
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