第十八話 ふたりの居場所、ちいさな役割
朝の喫茶ルシェットには、ふたたび新しいリズムが生まれつつあった。
奥の厨房では、パンの香ばしい匂いが漂うなか、シエラが粉まみれの手で一生懸命に生地を丸めている。その向かいにはルチェル。やわらかな表情で手元を見守りながらも、しっかりと技術を教えている。
「よし、今日はちょっと難しい成形にも挑戦してみようか。うずまきパン、やってみる?」
「う、うん……!」
緊張と期待が入り混じった声で答えたシエラの横顔に、ギルはふと目を細めた。
彼は今、店の窓際に設けられた“接客係”の持ち場に立っている。ぎこちなくエプロンを直しながら、客席に目を配っていた。
「──いらっしゃいませ。どうぞ、お好きなお席へ」
まだ声は少し硬い。けれど、その声を聞いた来客がふっと笑みを返してくれる瞬間。ギルの顔にも自然とやさしい色が浮かぶ。
「ギル、板についてきたニャよ?」
カウンターで帳簿を睨みながら、フワがぽつりと言った。
「そうかな。……昔の俺だったら、こんなふうに人に声かけるなんて、絶対できなかったと思う」
「それはシエラもニャ。ルチェルのとこに来たばかりのころ、パンをこねる手も震えてたニャ」
「……だな」
ギルはその言葉に、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
──あの旅の終わりから、まだ数日。
それなのに、何かが少しずつ、確かに変わっている。
その頃、店の隅の席では、ルウが静かに紅茶を飲んでいた。ルチェルが名前を与えた、あの記憶喪失の少年。まだ言葉少なで、動作もおぼつかないが、今朝は「お皿を運ぶよ」と、自ら申し出ていた。
ルチェルがさりげなく目を配ると、ギルとシエラが同時に気づく。
「ルウ、これ運ぶの手伝うか?」
「うん、できると思う」
ぎこちないながらも、お皿をしっかり両手で受け取るルウに、ギルがそっとアドバイスする。
「両手の指は、ちょっとだけ引っかける感じにすると安定するよ。そう、そんなふうに」
「……ありがとう、ギル」
そのやりとりを見ていたシエラも、微笑みながらパン生地の作業を続けた。
──いつか自分も、そうやって誰かに教えてあげられる日がくるのかもしれない。
ほんの少し前まで、自分は教わる側だったのに。そう思いながら。
夕方。
店の営業が終わり、食器を片付けながらギルがふとつぶやく。
「なあ、ルウって……少し、昔の俺に似てるかも」
「うん、わたしもそう思う」とシエラが頷く。「でも、ルウにはギルがいるし、わたしもいるし。……もう、一人じゃないよね」
「……ああ。そうだな」
その言葉が、ギルの胸にあたたかく染み込んでいく。
薪のはぜる音、ポットから立ちのぼる湯気、そして誰かの笑い声。
喫茶ルシェットは今日も、静かに灯っている。
そこには、確かに“居場所”があり、小さな役割を持つ者たちが、一緒に日々を重ねていた。
──そして、それはほんの少しずつ、未来を変えていくのだった。
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