第十七話 ひとつぶのまごころ
ルウは、まだ「おはよう」と言うのが苦手だった。
朝の光が差し込む店内で、パンの香りと湯気が漂う中。
カウンターの隅にちょこんと座り、じっとテーブルの木目を見つめている。
「……ミルク、冷めちゃうよ?」
ルチェルが、そっと声をかけた。
ルウはびくっと肩を揺らし、小さくうなずく。
「……あ、ありがとう」
ぎこちなくマグカップに手を伸ばす。ルチェルの手作り、ほんのり甘いミルクティーだ。
「ゆっくりでいいのよ」
にこ、と微笑むルチェルの横では、ギルが薪を運んでいた。フワはその様子を見ながら、ぷいっと顔をそむける。
「ニャんでルウばっかり優しくされてるニャ。あたしだって、今朝から帳簿と格闘してたニャよ?」
「フワ、昨日クッキーの在庫ぜんぶつまみ食いしたからでしょ」
カウンターの奥から、クロウがくちばしで器用にメモをつつく。
「ぬっ……ニャ、ニャによそれは……証拠はあるニャ?」
「クッキーのかけら、尻尾についてたよ?」
ルチェルがからかうと、フワの耳がぴこぴこと動いた。
そんなやりとりに、ルウは小さく笑いそうになって──でも、ぐっとこらえてしまった。
(……ここにいて、いいんだろうか)
昨日もらった名前、「ルウ」。
あたたかい響きだった。でも、それに応えるように生きるには、まだ少し勇気がいる。
「……ルウ、これ。やってみる?」
ルチェルが差し出したのは、小さな布巾とガラスのコップだった。
「簡単なお手伝い。コップ、やさしく拭くだけ」
「……わたし、うまく……できるかな」
「できるよ。最初は誰でもはじめてだもん」
その言葉に、ルウはゆっくり立ち上がった。
ルチェルがそっと手を添える。最初の一つ、ふきんを当てる手はぎこちないけれど、確かに“誰かの役に立とうとする”意志がそこにあった。
「……きれいに、なった?」
「うん、とっても上手」
そう言われて、ルウの頬がかすかに紅くなる。
厨房の奥から、ころん、と音がした。振り向くと、コモリがなにやら大きな壺と格闘していた。
「お、お菓子の準備かニャ? コモリ、それは前のとき爆発したヤツじゃ──」
フワが叫ぶ間に、壺の中からふわりと甘い香りが立ちのぼった。
ルチェルが鼻をひくつかせる。
「……あ、これは。前に旅人がくれた“金の実”、ジャムにしたのね?」
コモリが誇らしげに頷く。
それを見たルウが、ぽつりとつぶやいた。
「……それ、きれい。……あの、パンに塗ってもいいの?」
「もちろん! じゃあ、みんなで一緒に“朝の特製パン”作ろうか」
その声に、ギルも手を止めて振り返った。
「それって、新メニューになるの?」
「うん。せっかくだから、名前もつけたいな。ルウ、なにか思いつく?」
ルウは少しだけ考えて、それから静かに言った。
「……“ひとつぶのまごころ”……とか?」
店内が一瞬、しんとなる。
それから、フワがぽんっと笑った。
「……意外と、乙女チックニャね。悪くないニャ」
「うん。ぴったりじゃないか」
フワとギルの言葉に、ルウはようやく、小さな笑顔を見せた。
その笑顔は、まだ頼りなくて、今にも風に吹かれそうで──
けれど、たしかに「ここにいたい」という気持ちが、込められていた。
ルチェルはそっと目を細める。
「パンって、不思議だよね。誰かの心を、こんなふうに少しずつとかしてくれるんだから」
その日、“ひとつぶのまごころ”と名付けられた小さなパンが、棚にひっそりと並んだ。
静かな朝。だが、確かに何かがまた、芽吹き始めていた。
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