表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/33

第十六話 パンの名前、心の名前



午後になっても、雨はやまなかった。


けれどルウは、朝よりずっと落ち着いた顔をして、ギルの隣でパンをつまんでいた。


「……ルウって、どういう意味なの?」


「うーん……わからない。旅してた人に、そう呼ばれただけ。言いやすかったのかも」


「そっか」


ギルは、黙って隣で紅茶をすすった。こういうとき、あまり多くを聞かないのがルチェル流だ、と知っている。


だがそのルチェルは、すこし考え込んだような顔で厨房から顔を出した。


「ねえ、ルウくん。ひとつ、聞いてもいい?」


「……うん」


「“名前”、欲しい?」


ルウは、一瞬きょとんとした顔をした。それから、肩を小さく震わせた。


「……ほんとの名前、覚えてないんだ。だから、そんなの、もらえるわけ……」


「ここに来た人には、よくあることだよ。覚えていない人、失った人、手放した人……でも、必要になったら、あげる。それが、ここ」


ルチェルの声は静かだった。けれど、その言葉には、あたたかい魔法があった。


ギルがそっと口を挟む。


「おれも、“ギル”って名前をここでもう一度もらったようなもんなんだ。もともとそうだったのかどうか、今はもう、どうでもいい」


フワが、あくび混じりに棚の上から降りてくる。


「ニャまえってのはニャ、人に呼ばれて初めて“意味”になるニャ」


「“意味”?」


「そうニャ。自分を誰かが呼んでくれることで、自分が“ここにいる”ってことになる。ニャまえは、そういう魔法ニャ」


ルウは、じっと自分の手を見つめていた。まだ少し、震えていた。


だがその手は、さっきより少し、あたたかくなっていた。


「……じゃあ、お願いしてもいい?」


「うん」


ルチェルは微笑んだ。そして、厨房の棚から、ふわっと膨らんだ小さなパンを取り出してきた。


「このパン、まだ名前がなかったの。でも、今日君が来て、“こんなパン、食べたことない”って言ってくれたから……君の名前にしようかなって思って」


「……え?」


「ルウパン。ね? 丸くて、ほんのり甘くて、でもどこか心が落ち着く味。君のこと、そんなふうに思ったんだ」


ルウは、小さく息を呑んだ。


「……それって……ぼくの名前になるの?」


「うん。今日から、“ルウ”は、君の名前。パンと同じように、大切にしていいと思う」


ルウは、ぎゅっと唇をかみしめた。それから、小さく、でも確かにうなずいた。


「……うん。ありがとう。ぼく、“ルウ”になる」


──名付けは、パンのレシピと似ている。


材料をよく知って、火加減を見て、時間をかけて待って、ようやく“その人だけの味”になる。


ギルは、そう思いながら、ルウとルウパンを並べて見ていた。


「……あーあ、おれもパンの名前になりたかったな」


「ニャに言ってるニャ、おまえの名前のパンはもうあるニャ。“かためのギルラスク”って呼ばれてるニャ」


「なにそれ聞いてない!」


「前に残りパンで作ったやつニャ。店の裏メニューにする予定ニャ」


「やめてくれぇ……!」


笑い声が、静かな午後の雨音の中に、ぽつぽつと広がっていった。


扉の外では、まだ雨が降っている。


でもルウの心には、もう、小さな火がともっていた。


その火は、パンと名前と、誰かの声によって灯されたものだった。


読んでくださってありがとうございます!


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ