第十六話 パンの名前、心の名前
午後になっても、雨はやまなかった。
けれどルウは、朝よりずっと落ち着いた顔をして、ギルの隣でパンをつまんでいた。
「……ルウって、どういう意味なの?」
「うーん……わからない。旅してた人に、そう呼ばれただけ。言いやすかったのかも」
「そっか」
ギルは、黙って隣で紅茶をすすった。こういうとき、あまり多くを聞かないのがルチェル流だ、と知っている。
だがそのルチェルは、すこし考え込んだような顔で厨房から顔を出した。
「ねえ、ルウくん。ひとつ、聞いてもいい?」
「……うん」
「“名前”、欲しい?」
ルウは、一瞬きょとんとした顔をした。それから、肩を小さく震わせた。
「……ほんとの名前、覚えてないんだ。だから、そんなの、もらえるわけ……」
「ここに来た人には、よくあることだよ。覚えていない人、失った人、手放した人……でも、必要になったら、あげる。それが、ここ」
ルチェルの声は静かだった。けれど、その言葉には、あたたかい魔法があった。
ギルがそっと口を挟む。
「おれも、“ギル”って名前をここでもう一度もらったようなもんなんだ。もともとそうだったのかどうか、今はもう、どうでもいい」
フワが、あくび混じりに棚の上から降りてくる。
「ニャまえってのはニャ、人に呼ばれて初めて“意味”になるニャ」
「“意味”?」
「そうニャ。自分を誰かが呼んでくれることで、自分が“ここにいる”ってことになる。ニャまえは、そういう魔法ニャ」
ルウは、じっと自分の手を見つめていた。まだ少し、震えていた。
だがその手は、さっきより少し、あたたかくなっていた。
「……じゃあ、お願いしてもいい?」
「うん」
ルチェルは微笑んだ。そして、厨房の棚から、ふわっと膨らんだ小さなパンを取り出してきた。
「このパン、まだ名前がなかったの。でも、今日君が来て、“こんなパン、食べたことない”って言ってくれたから……君の名前にしようかなって思って」
「……え?」
「ルウパン。ね? 丸くて、ほんのり甘くて、でもどこか心が落ち着く味。君のこと、そんなふうに思ったんだ」
ルウは、小さく息を呑んだ。
「……それって……ぼくの名前になるの?」
「うん。今日から、“ルウ”は、君の名前。パンと同じように、大切にしていいと思う」
ルウは、ぎゅっと唇をかみしめた。それから、小さく、でも確かにうなずいた。
「……うん。ありがとう。ぼく、“ルウ”になる」
──名付けは、パンのレシピと似ている。
材料をよく知って、火加減を見て、時間をかけて待って、ようやく“その人だけの味”になる。
ギルは、そう思いながら、ルウとルウパンを並べて見ていた。
「……あーあ、おれもパンの名前になりたかったな」
「ニャに言ってるニャ、おまえの名前のパンはもうあるニャ。“かためのギルラスク”って呼ばれてるニャ」
「なにそれ聞いてない!」
「前に残りパンで作ったやつニャ。店の裏メニューにする予定ニャ」
「やめてくれぇ……!」
笑い声が、静かな午後の雨音の中に、ぽつぽつと広がっていった。
扉の外では、まだ雨が降っている。
でもルウの心には、もう、小さな火がともっていた。
その火は、パンと名前と、誰かの声によって灯されたものだった。
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