第十五話 雨宿りのお客さま
外は、朝からしとしとと雨が降っていた。
喫茶ルシェットの窓辺には、小さな水滴がつらなり、森の木々を淡く濡らしている。けれどその分、店内のパンの香りは、いっそうあたたかく、包み込むように漂っていた。
「……雨の日の匂いって、なんだか好きだな」
ギルがそうつぶやいた。
カウンターの奥で、ルチェルが焼き立てのブリオッシュをトレーに並べながら、ちらりと微笑む。
「そう? 湿気でパンは膨らみにくいし、あんまり好きじゃないって人も多いけど」
「うん。でも……たぶん、おれは雨の日に、ここにたどり着いたから…」
ギルは、店に初めて来た日のことを思い出していた。ずぶ濡れで、森の中をさまよい、ようやく見つけた灯──あのパンの匂い。食べた瞬間に、なぜか涙が出た。
「……そっか。あの日も、こんな雨だったっけ」
「ニャに? センチメンタルなギルなんて珍しいニャよ」
カウンターの下から顔を出したのは、毛並みをふわっと膨らませたフワ。
「いいニャ?雨の日はお客が少ないニャ。だからって、ぼーっとしてると売上が下がるニャ。パンをすすめるニャ、笑顔でニャ」
「はいはい……ごもっともですね、レジ係さん」
「わかってるならよろしいニャ!」
そんな調子で朝が始まった雨の日。
昼前、扉のベルが「カラン」と鳴った。
ずぶ濡れのマント姿の少年が、そろそろと店内に入ってきた。年の頃はギルと同じくらい。だが、やけに警戒した様子で、視線をさまよわせている。
「いらっしゃい。濡れたままだと風邪ひいちゃうよ。どうぞ、こっちで温まって」
ルチェルが、そう言って温かいタオルと椅子を差し出す。ギルも、急いでポットにお湯を足し、ミルクティーを淹れた。
「……あ、ありがとう」
少年はおずおずとタオルを受け取り、差し出されたカップを両手で包むように持った。
「ミルクティー、甘くしてあるから。パンもすぐ出すね。あ……お金は、あとでもいいよ。おなかすいてるでしょ?」
「……っ」
少年の目に、ぱっと涙が浮かんだ。
「……ぼく……なんでだろう。そんなつもりじゃなかったのに、涙が……」
ギルは、静かに隣に腰を下ろした。
「わかるよ。おれも、そうだったから」
「え……?」
「この店のパン、初めて食べたとき、泣いた。理由なんてなかった。……でも、ここにいていいんだって思えたんだ」
ルチェルが、ほんのり温かいチーズパンをトレーにのせて運んでくる。
「はい、召し上がれ。うちのパンは、魔法入りだよ」
「ま、魔法……?」
「うん。あったかくなったり、安心したりする……そんな魔法なの。誰かの心をほどくようなおまけ付きの」
少年は、恐る恐るパンにかじりついた。
──ぽろぽろと、涙がこぼれた。
「……おいしい。あったかい……。こんな、パン、食べたことない……」
「よかった」
ルチェルがほっと息をつき、ギルもゆるく笑った。
「ねえ、名前なんていうの?」
「……ルウって、呼ばれてた。ほんとうの名前じゃないけど」
「そっか。じゃあ、ルウくん。今日は、ここでゆっくりしていって」
雨はまだ、窓の外で降り続いている。
けれど、喫茶ルシェットの中は、静かでやさしい時間が流れていた。
ギルはそっとルウの手元を見つめた。その震えが少しずつ静まっていくのを見て、かつての自分を思い出す。
「……ここは、雨の日にぴったりの場所なんだよ。心が濡れてるときは、特に、ね」
ルウは、小さくうなずいた。
その一日、喫茶ルシェットには、外よりもずっと深い雨音が、静かに、心の奥に降っていた。
──そして、それをあたためる香りと、甘やかな声があった。
読んでくださってありがとうございます!
ほのぼのとした雨の日の喫茶ルシェルのお話です!