第十四話 静かな朝、パンの香りと共に
朝、喫茶ルシェットにいつもの陽射しが差し込んでいた。
厨房では、ルチェルが早朝からパンの仕込みに精を出していた。まだほんのり眠たげな目で、こね台に向かっているのは、昨日名前をもらったばかりの少女──シエラだった。
「……ん、上手くなってきたじゃない。力の入れ方、ちゃんと覚えたのね」
「う、うん……! あの、こう、丸めて、優しく……」
「そうそう、その調子」
ルチェルが笑うと、シエラもつられて小さく笑った。表情はまだぎこちないが、その手は確かに、生きているパン生地と対話し始めていた。
ギルはその様子を、カウンターの隅からぼんやり眺めていた。
「……だいぶ落ち着いたな、シエラのやつ。旅の途中じゃ、もっと不安そうな顔してたのに」
「当然ニャ。ここにはルチェルがいるニャから」
そう言って、フワがギルの隣でふわりと跳ねた。
「パンの魔力は、人の心をほどくニャ。おまえもそれで癒されたんニャろ?」
「うん……まあね」
「ニャっはっは、素直じゃないニャ~!」
カウンターの上からは、クロウが一言。
「人の心が緩むときってのは、誰かの“名前”をもらったときか、“パンの香り”に包まれたときかのどっちかだ。シエラは両方だな」
「ふふ、クロウにしては良いこと言ったニャ」
その頃、コモリはいつものようにポットにお湯を沸かし、朝のお茶の準備をしていた。喫茶ルシェットの朝は、昨日と同じようでいて、確かに少しだけ、違っていた。
──一人、仲間が増えたのだ。
「ギル、これ……昨日の残りのパンだけど。どうせ食べきれないし、朝ごはんにしたら?」
ルチェルが、トレーに焼き直したパンとミルクスープをのせて持ってきた。
「……ありがとう。なんか、帰ってきたって感じがするよ」
「うん、帰ってきてくれてありがとう」
その短い言葉に、すべてが詰まっていた。
シエラは、パンをこねる手を止めて、そっと振り向いた。ふわふわの三つ編みの間からのぞく表情は、もう昨日までの“旅の途中のお客さん”ではなかった。
「……あの、ルチェル。わたし、このまま、ここにいてもいいのかな」
「ええ、もちろん」
ルチェルは、迷わず答えた。
「まだ知らないことも、できないこともいっぱいあるだろうけど……“ここにいたい”って気持ちがあるなら、それで充分だよ」
シエラは、ぎゅっと胸元を押さえて、何度もうなずいた。
外では鳥がさえずり、小さな風が木々を揺らしていた。扉の外には、今日という一日が、まだ静かに待っている。
ギルは立ち上がり、窓の外を見やった。
「……そろそろ、薪を割ってくる。冬が来る前に、少しずつ備えないとな」
「えっ、ギルが率先して働くなんて珍しいニャ!」
「仕方ないだろ、帰ってきたばっかりだし。ちょっとは手伝わないと、パン抜きになる」
「ニャはは、それは困るニャねぇ」
笑い声が、朝の空気に溶けていった。
“日常”は、こうしてまた始まる。
でもそれは、かけがえのない、新しい日常だった。
──今日も喫茶ルシェットは、パンの香りと、あたたかい人たちの声で満ちている。
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