第十三話 ギルの旅 ただいま、と言える場所
喫茶ルシェットの扉が、カラン、と軽やかな音を立てて開いた。
「──ただいま」
ギルの声は、思ったより静かだった。
旅を終えて戻ってきた彼の背には、ほのかに日焼けした跡と、長い道のりの重み。そして、その横には、少しおどおどとした少女──“お客さん”だった誰かが、寄り添うように立っていた。
「おかえり、ギル!」
ルシェルが、パン粉まみれのエプロンのまま、カウンターから飛び出してきた。
「……って、ずいぶん汚れてるじゃない! あとでお風呂ね」
「はは、ありがと」
ギルが笑う。その笑みに、ルシェルはふと気づく。どこか柔らかく、そして少しだけ遠くを見ているような、そんな寂しそうな瞳。
フワとクロウも、遅れて店内へ入る。
「ふニャ〜……戻ったら戻ったで、また仕込み地獄だニャ」
「この店の時間は、なんというか……恐ろしく元に戻るのが早いな」
クロウがぼやくのをよそに、“お客さん”はまだ一歩も動けずにいた。
ルシェルが、そっとその子に近づく。
「──あなたは?」
「……あの。えっと、わたし、名前も……思い出せなくて。でも……ギルの旅に、ずっと一緒にいて……」
「うん。そっか。じゃあ、今は“思い出す前のあなた”として、ここで過ごしていけばいいよ」
ルシェルが、やわらかく手を取る。
「名前、ないのは不便だよね。……どうしようかな。仮の名前、つけてもいい?」
「……え……、うん」
ルシェルはしばらく考え込み、それからふわりと微笑んだ。
「じゃあ、“シエラ”って呼んでいい? “しずかな朝”って意味があるんだ。あなたの瞳、すごく静かで、朝焼けみたいだから」
少女は目を見開き、それからゆっくりとうなずいた。
「……ありがとう。シエラ、か。……いい名前だね」
ギルはそれを聞いて、どこか懐かしそうに目を細めた。
「……不思議だな。シエラって聞いた瞬間、胸の奥が……あったかくなる。もしかしたら……ほんとうの名前、近かったのかも……」
「そうだニャ。思い出せるときは、思い出すニャ。思い出せないままでも、きっと大丈夫ニャよ」
フワがにんまりとしっぽを揺らし、コモリがいつのまにかポットを用意していた。
「みんな、どうぞ!旅も終わり」「ホットミルクティーです」コモリなそう声にならない声を上げぴょんぴょんと跳ねる。
「あと、焼きたてのパンもきっとあるニャよ!」
「コモリとフワが連携してるときは、大体なにか企んでるんだが……まあ、今日はいいか」
クロウがくちばしを鳴らし、ギルの肩から飛び去ると、天窓の枠にとまった。
日差しが差し込む午後の店内。いつもの喫茶ルシェット。
けれどギルの胸は、もう何かが変わっていた。
自分の過去、家族のこと、失われた夜、そして──シエラのこと。
「……ただいま」
もう一度、ギルが小さくつぶやく。
その声に、ルシェルも、フワも、コモリも、クロウも、そしてシエラも、そっと笑った。
この場所は、どこかの旅の終わりであり、また、何かの始まりでもある。
扉の前には、今日も新しい風が吹いていた。
読んでくださってありがとうございます!
ギルの旅はここで終わりますが、そうして新たな生活がまたはじまります!