第一話 パンの香りと小さな竜
はじめまして。ご覧いただきありがとうございます。
こちらは、森の奥の小さな喫茶店を舞台に、竜や使い魔たちが織りなす、ちょっぴり不思議な日常物語です。
ゆったりとした雰囲気を楽しんでいただけたら嬉しいです。
その喫茶店は、町はずれの森の中に、ひっそりと佇んでいた。
石造りの小さな店構えに、丸い木の看板――《喫茶ルシェット》と刻まれた文字は、風雨にさらされて少しかすれている。それでも、やわらかな日差しに照らされた店先からは、ふんわりとパンの香りが漂ってきて、道行く旅人たちの足を、つい立ち止まらせるのだった。
店の中では、湯気の立つ紅茶のポットと、焼きたてのスコーンが静かに並べられている。
カウンターの向こうでは、栗毛の少女が一人、エプロンの裾を結び直していた。彼女の名は、ルチェル。元・パン屋の娘にして、この喫茶店の店主だ。
「ふう……今日も、いい焼き上がり」
彼女の焼くパンやお菓子には、ごく微量の魔力が宿っている。といっても派手なものではなく、ただ食べた人の心が、ほんのすこし、やわらぐだけ。お腹がいっぱいになると、なんとなく前向きになれる。そんな、小さな奇跡がある。
ルチェルはそれを「おまけ」と呼んでいた。
とくに宣伝もせず、大々的に看板も出していない店だが、いつしか噂は広まり、ぽつぽつと客が訪れるようになっていた。町の人も、旅の人も、傷ついた心を抱えたまま、ふらりとやって来ては、なぜか涙をこぼして帰っていく。
そんな、ちょっと不思議な喫茶店。
ルチェルがトレイを片づけていた、その時だった。
「……ねぇ…仕事、くれない?」
扉の陰から顔を出したのは、ひとりの少年――いや、その姿は少年のようでいて、どこか異質だった。
くしゃっとした銀の髪に、濡れたような青い瞳。背中には小さな翼があり、尻尾まである。手足も細く、全体的にひょろりとしているが、その瞳の奥には、深く古い時の色が宿っていた。
「……君は、だあれ?」
ルチェルが問うと、少年は胸を張って言った。
「おれ?おれは、竜だけど?」
「ええっと……竜、なの?」
「そうだよ。ちゃんとした名前もあるけど、今は“ギル”って呼ばれてる。火は吐けないし、飛べもしないけど、そこそこ働けるよ。掃除とか、皿洗いとか、接客とか」
それは、なんとも堂々とした“落ちこぼれ”宣言だった。
ルチェルは目をしばたたいた後、笑った。
「それ、面接で言っちゃうの?」
「事実だからね。でも……君のパン、食べたら、涙が出たんだ」
ギルは、ぽつりと呟いた。
「理由なんて、わからない。ただ、あったかくて、懐かしくて……帰ってきた気がしたんだ。だから、ここで働きたい」
それはきっと、彼が長い時を生きる中で、初めて感じた“居場所”の気配だったのだろう。
ルチェルはしばらく考え込んでから、小さく頷いた。
「いいわ。じゃあ、まずはお皿拭きからお願い。あと、接客の笑顔は大事だからね。竜だって例外じゃないわよ?」
ギルは目を丸くしてから、ぱっと笑った。
「はい、店主!」
こうして、小さな竜と喫茶店の少女の、静かな物語が始まった。
そしてこの店には、まだまだ秘密があった。たとえば――
「なにをベタベタ甘ったるい会話してんのニャ。さっさと働けニャ」
カウンターの上に、気だるげに座る黒猫がいた。猫のようでいて、ただの猫ではない。艶やかな毛並みに金の瞳。しゃべる猫、フワ。かつては高名な魔女の使い魔だったが、今はこの店で経理係を務めている。お金に関してはかなりうるさい猫だ。
「まったく、最近の若い竜は図々しいニャ……って、皿! そんな持ち方じゃ割れるニャ!」
「は、はいっ!」
竜と使い魔とそれから、パン屋の娘。
彼らのちょっと不思議で、あたたかな日々は、まだ始まったばかり――。
最後までお読みいただきありがとうございました!
次回は、炎を吐けない竜・ギルが「喫茶ルシェット」にやって来て、ちょっとした事件が起こる予定です。
のんびり更新になりますが、どうぞ気長にお付き合いください。