第98話 哀れな女
沙織が我が家に来て四日目の朝、私は態度を急変させた。この日もいつものように携帯電話を使ってメールばかりしている女に「これから病院へ戻す。荷物をまとめろ。」と言い放った。
携帯から目を離して私を見つめた沙織は「イヤ、病院には帰りたくない。お願いします。」と懇願してきたが私の意は決していた。
「沙織といると、こっちの方が気が狂ってしまう。最初の夜に言ったはずだ、俺は携帯電話が嫌いだ。おまえはずっと俺を無視して携帯ばかりをいじり続けている。俺の存在をずっと無視し続けているじゃあないか。」
「だけれど夜は遼平の言われるままに従ってきた。メールをしないと不安になるの。これからも夜は遼平の言いなりになります。だから病院には戻さないでください。」
「イヤだね、もう1時間だって一緒にいたくない。沙織とはこれで終わりだ。俺も入院生活に戻る。アル中で入院しているのに、外泊しての飲みっぱなしにもいい加減飽きてきた。」
「だったらお願いです。もう1日だけ泊めてください。他に行く場所を探してみます。時間をください。」
沙織は何度も執拗に哀願してきたが、私はそんな女を無視し続けた。沙織も諦めて、こう言ってきた。
「どうしても遼平がダメだって言うなら私、彼のマンションに戻ります。病院に戻されるんだったら彼に殴られていた方がマシです。マンションまで連れて行ってください。」
「いいよ。」
私は素っ気ない返事をして沙織を車に乗せ、以前行ったことのあるマンションへ向かった。私と別れたあと沙織の身になにが起きようとも関係はない。大体、入院者同士が同じ日に外泊をスタートさせて、同じ日に病院に戻ってくる方がよっぽど不自然だ。
クルマを走らせてすでに10分以上が経っていた時であった。突然、「携帯を忘れた、戻って欲しい。」と沙織が叫んだ。
「ふざけるなよ、家を出る時にちゃんと忘れ物がないように確かめろって言ったはずだ。忘れましたは認めない。病院かマンションにあとで郵送してやる。」
「ダメ、携帯だけは絶対にダメ。無いとダメなの、お願いだから戻ってください。」
「なんで、そんなに大切な携帯を忘れてこられるんだ、忘れる方が悪い。あきらめろ。」
「それが私の病気なんです。遼平には理解できないだろうけれど、物事に集中できなくなっちゃうの、パニックになっちゃうの。パニックにさせたの、遼平なんだもの。」
我が家にクルマの方向を変えて、沙織に携帯を持たせてからもう1度、沙織の彼氏が住む街に向かった。
この日を最後に沙織は病院には戻ってこなかったし、携帯電話も音信不通になってしまったので、あれから彼女がどうしたのか全くわからなくなった。生きているのか死んだのか、探す方法もなければ探そうとも思わなかった。
二年が過ぎた。
私が再入院した別の病院の患者たちが沙織らしい女の話を喫煙室でしていた。私はこのアルコール依存症患者とは初対面だったから、ただ耳をそばだてて会話を盗み聞きしているだけだった。
「入間のさぁ、あの航空自衛隊の騒がしい精神病院に沙織って女がいただろう。覚えてないか? モデルか何かをやっていた奴だよ。」
聞かれた患者は記憶を巡らせているらしい。
「いたっけかなぁ、モデルあがりなら美人だろ?覚えているはずだけれど記憶にないなぁ。」
「ほら、妹がいてスチュアーデスやっているって言ってた女でさぁ、いっつもイヤホンで音楽聴いていて身体を揺らせていたオンナだよ。」
「あ~ぁ、いたいた。突然、外出届けを出したまま消えちゃった女だ。確かにいいオンナだったなぁ。それがなんだよ。」
「腹ん中に赤ちゃんが出来ちゃってさぁ、飛び込んだんだぜ、西武線の特急にだ、駅のホームから真昼間に、人が大勢見ている時間帯だ。」
「自殺か、もったいねぇ。あいつ、うつ病じゃあなければ男がいくらでもくっ付いてきただろうにねぇ、もったいねぇなぁ。」
「それがさ、男がいたんだってよ。そいつのDVが原因らしいんだけれどさぁ、ウワサだよ、単なるウワサなんだけれどもよ、この暴力オトコと同棲していたのに他のオトコともやってたらしくって、ご懐妊しちまってよ、もうバレバレ。行くところを無くしちまってよ、でもってさぁ飛び込んじまったてさ、哀れだねぇ。」
そうか、あれから沙織は妊娠してオトコに捨てられて、身重の身体で電車に飛び込み死んだのか。まぁ、俺の子じゃあないだろうし調べようもないだろう。
そう思い、あのオンナのことだ。いろんなオトコと関係を持っただろうし、俺の子だってことはまずないだろう。そう自分に言い含めて今日に至っている。