第96話 沙織という女
元来、自分のいる同じ空間内で他者とコンタクトを取っている事に腹立たしさを感じる性格なので、電話というものが嫌いなのである。
「沙織さぁ、お前って確かに美人だし身体もいいよ。見た感じだけならね。ただ目に輝きがない、死んだ目をしているよな。」
うつ病そのものを蔑んで言い放ってやった。
「だって、そういう病気なんだから、しょうがないじゃん。でも、そのうちにパァって明るい気持ちになって、良くなるかもしれない、男次第かもね。」
沙織は他人まかせの人生設計しかできない女だった。
「俺の行きつけの飲み屋があるから、今夜は派手に飲み明かそう。そうしたら気分がスッキリするだろう。」
そう言って私はタクシーを自宅に呼びつけた。この頃の私は飲み屋に行くのに歩いてなんて行きはしない。たかだか1キロメートルもない場所でさえも、タクシー会社に電話を入れて迎車させていたし、釣り銭を返してもらう事もしていなかった。
ひどい時には1軒目で飲んだスナックのママが私を気遣い、タクシーを呼んで帰宅させるために乗車させても、駅前のロータリーを1周させただけで元の位置で降ろしてもらった。
たった1分にも満たない乗車で780円を千円札で支払い「釣り銭は取っておいていいよ。」と運転手のチップにしてしまう。
「この女、沙織っていうんだ、今夜のゲストね。」
一軒目の飲み屋で彼女を紹介すると、店のママさんから「あれ、遼ちゃん、また病院に入っていたんじゃあないの?いつの間にこんな綺麗な彼女を作っちゃってさぁ。これじゃあ、うちに飲みになんて来るわけないか。」と言い返されてしまう。
店の常連客にも「この娘、誰かに似ているなぁ、芸能人でいるよね、誰だったけかなぁ。」になる。飲み屋に沙織を伴うと評判になるのである。
「美人だ、綺麗だ、芸能人に似ている。」だいたい、この3通りで収まる。
沙織はほとんどアルコールを口にしないし、自分から話しかける事もなく、ただぼんやりと座ったまま、うつろな視線は焦点を曖昧にさせていた。
美人だが暗く影がある。そういう印象を残していった。
3軒目のフィリピン人、ニューハーフを売りにしている飲み屋を出た時には朝日が昇っていて、腕時計は4:00AMを過ぎていた。この時間になるとタクシー会社に電話しても迎車はない、駅前のタクシー乗り場で客を待つ車もない。夜勤帯と日勤帯が入れ替わる時刻なのである。
こういう時間を見計らって店を出れば、行き先はただ1つしかない。駅前にあるラブホテルである。どんなに朝早くてもラブホテルなら客を招いてくれる。
ホテルの一室に入るとアルコールで火照った身体にまとわりついている服を脱ぎ、裸になりベッドに仰向けになった。沙織は酔ってはいない。私の傍には座らず、少し離れた場所にあるソファーに腰掛けた。
「なぁ沙織、タオルを水に濡らして身体を拭いてくれ、シャワーは面倒だ。」
私の言葉のままに白いフェイスタオルを1枚、バス・ルームの脇から探し出して水に浸し、それを女の力で絞ってから広げて私の首元を拭き始めた。
首の次は脇を拭き、胸の中心から腹まで拭き上げたところで手が止まった。
「タオルが生暖かくなっちゃった。もう1度、水に浸してくるわ。」と言い終わった時、彼女の腕をつかんでそのまま自分の上に押し倒した。
「わたし、上って苦手なの、下になってもいい?」
自分のモノを沙織の中に出し切ってしまうと深い眠りに落ちていった。沙織は私が眠っている間にシャワーをして、ベッドには戻らずソファーに座ったまま寝入ってしまっていた。
携帯電話の時刻を見ると午後2時を過ぎている。
「今日は病院に戻らないで、うちでもう一泊してから戻ろう。」
そう沙織に言うと、「彼のマンションに戻りたい。」と言い出した。
「マンションに戻ってなにをするんだ、彼氏に会いたくなったのか?」
「ううん、ちがう。着替えを取りに行きたいだけ。全然、足りないから。」
沙織が男と同棲しているマンションまでクルマで連れていき、私自身は近くにあったドラッグストアの駐車場で待機していた。一時間が経っても沙織は戻ってこない、二時間が過ぎた。
「えらく時間がかかったな、なにをしていたんだ。」
言葉と一緒に目に飛び込んできたのは沙織の腫れて赤くなった右頬だった。
「彼氏が部屋にいたのか、殴られたのか。どういう理由でだ?」
矢継ぎ早の私の問いに沙織はただ泣きながら頷くだけだった。そして「遼ちゃんの自宅で暮らしたい。お願いします、病院にもマンションにも戻りたくない。おねがい・・・」