第91話 あ・り・が・と・う
日曜日、午前4:00
母は最後の最後で『生きる』時間の引き延ばしを始めた。上下の歯をむき出しにして、頭を左右に激しく振り、空気を吸い込もうと必死になっていった。
「昇圧剤、酸素を6にして。」
医師の最後の指示にナースが機敏に動いていた。血中酸素濃度は一気に低下し、血圧も下がっていく。心電計の波形がいつフラットになるだろうか。
「ちょっと出てくる、すぐに戻ってくる。」
私は弟夫婦に母を任せて病室を一旦出た。屋上に行き、携帯の電波受信が入るのを確認してから寺の住職に電話を入れた。
「ご住職、母はあと2~3時間で亡くなります。明日のご予定をお聞きしたいのと、明後日の火葬場の予約状況を確認中ですが、ご住職は早朝と午後三時でしたら、どちらのほうがご都合が良いでしょうか。所沢の火葬場は早朝しか空いていないので、ご住職のご都合次第ですが戸田の祭事場に行く予定にしています。」
ICUに戻ると弟を捕まえて「悪いが実家のリビングの裏側の窓ぎわ辺りに布団を敷いておいて欲しい。枕を北にして、窓は開けっぱなしでいい。裏側からおかあちゃんを入れるから、邪魔になりそうな植木鉢を移動させておいてくれないか。」
「わかった。」
弟は返事をして病院を出た。母の元には私と弟の奥さんのふたりだけが残る結果になった。
母は激しい息遣いをおこなう事で命を引き延ばそうと、もがいているように見えた。たとえ1分、1秒、僅かひと呼吸のために歯をむき出し、頭を左右に振っていたかと思うと急に静かになり、うっすらとした穏やかな呼吸に変わっていく。1~2分後には再び激しく頭を振って、苦しみを顔面に露わにして鬼のような形相になりながら呼吸を始めた。
私は思わず、ほかの重篤な患者が同じ部屋にいることを忘れて大声を出してしまった。
「かあちゃん、もういい。もういいよ。」
母は激しい息遣いをとめて、つむっていた瞳をほんのちょっとだけひらき、生きる戦いに終止符を打とうとしていた。その視線は定まっていなかったが、乾き切った唇を少し動かしてこう言った。
あ・り・が・と・う。
三ヶ月と四日の闘病生活が終わった。
母が亡くなったことはご近所の方々に『あっ』という間に伝わっていって、通夜の準備を始めようとしていた矢先から弔問の客が自宅に来られ、あとを絶たない。身内がこの世を去った直後に、遺族が悲しんでいる時間がない事は父が死んだ時に経験していた。
離婚をし、前妻となったリミも訪れ母の遺体の傍に座ると、おもむろに抱きしめていた。
母亡きあとの事を生前に決めておいたので慌てる事はなかったが、それでも慌ただしさは感じていた。遺影として使う写真を選ぶ事にだけ迷いが生じ時間が掛かったが、これも弟の娘、母からすれば初孫にあたる姪が『ヒョイ』と拾い上げてくれた。