第85話 一人称ののふたり
母が食を絶った日から私も食事が摂れなくなってしまった。代わりに口に入れていたモノが安物のウイスキーになった。毎晩、呑んだ。飲まなければ現実逃避できない。
『誰がこうしたんだ。いったい誰に責任があるんだ、おまえだろう。今、平気な顔をして呑んだくれているお前しかいないじゃあないか。他の誰かに責任を擦りつけたいのか?よくも平気な顔をして生きていられるもんだな。母親をあれほど苦しめて楽しいのか?愉快なのか、どうやって責任を取るつもりなんだ。』
自分の中にもうひとりの自分を作り出して、そいつをただ、なじり倒す。二人称にして傷つけていく。性格の分離を起こさせて悪人を作り出し、そいつの責任にすればいい。こうする事で、その場限りの自己解放ができるのである。その為にも泥酔しなくてはならない。正常な精神の持ち主であってはならないのである。
アルコールを飲む事で二重人格を形成し、そいつをいたぶれば一人称の我が身は救われる。
これがアルコール依存症なのである。
第2クールが終了した。
もう母は私の胸の中にいる母ではなくなっていた。一切の食事を絶っているので命を繋ぐためには中心静脈血管栄養術(CVと略す)に頼るしかなくなった。左の鎖骨の下部分にメスを入れてチューブを心臓近くまで到達させる。このチューブから栄養剤を直接、血液に送り込む施術のことである。
いつものように私は母が横たわっているベッドの傍に座って、氷の粒をスプーンですくいながら母の口に運んでいた。母の右足は不随運動を起こすようになり、ベッドの柵にぶつけては傷を作るようになった。ただでさえ脳梗塞の予防薬であるワーファリンを処方されているから皮下出血は広がっていく。
そこに病棟巡回を終えたらしい担当医が来た。
「ちょっといいかな、君だけでいいんだ、来てくれるかな。」
担当医はレントゲンフィルムを手に持ったままムンテラをおこなう小さな診察室に私を伴って入っていった。
「お母さんの癌なんだけれど、おととい撮影したレントゲンの結果ね、腫瘍が小さくなっているんだよ。抗がん剤が効いているようだ。」
手にしていたレントゲン・フィルムをシャーカステンに掛けて私にそう言った。
この医師の言葉をどれくらいの間、待っていただろう。この瞬間、どれほどの喜びを感じただろうか。おそらく、同じ経験をされた方なら理解できると思う。
ふたつの人格がひとつに融合された瞬間だった。そう、文字通り、瞬間でしかなかった。
抗がん剤治療は第3クールに入った。
一切の食を絶ってから既に1カ月以上が過ぎている。見るからに骨と皮だけの身体と化し、自力では一切何もできない。ただ、右足の不随運動は絶え間なく続き、それだけが母の生きている証のようになっていった。
本当に良くなっているのだろうか?良くなっているとしたら、この足の動き方は何から起きているのだろう。
抗がん剤の副作用は体力を一気に失わせる。日に日に衰えていく母を毎日、見守るしか術が無くなっていた。ただ、医師の言葉を信じるしかなかったのである。