第84話 小さく砕かれた氷の粒
抗がん剤による第1クールが終了すると母の髪は抜け落ち、食欲も壊滅状態に陥った。それでも第2クールの多剤併用投与は開始された。
言葉が話せないという事は自分の気持ちをストレートに伝える術を無くしているのだから母の本当の願いが一体どこにあるのかわからなかった。
ヨチヨチ歩きだった中庭のカルガモたちは、いつしか大きく成長していて、もうすぐ旅立ちの時を迎えようとしている。私は何度か母をこの病院の1階にあるエントランスのような中庭に連れてきている。母は自分の余命を知っていたと思う。カモの仔を見ていた瞳は潤んでいた。この仔ガモたちが旅立つ時、私はここにはもういない。
私の職業は病院における放射線技師であるから夕方の五時には終業する。タイムカードを打刻すると急いで母のいる病院へと向かう。この時間の交通事情はたいがい渋滞するが正味1時間は掛からない。
母の待つ病院へ向かう車中で思っていた事はただひとつ。「どうすれば良くなってくれるのだろう。シスプラチンを絶って、イレッサに切り替えれば良くなる可能性があるのではないか。あるいは抗がん剤と併用して放射線治療もプラスし、一気に癌を小さくして手術で取り切ってしまえないだろうか。」
医者でもない私が頭の中だけで治療方針の変更を描いている。その描かれた頭のまま母のもとに向かう。日に日に衰えていく母を毎日、目の当たりにしなければならない。
入院当初、食事は摂れていた。しかし抗がん剤治療の第2クールに入ると一切の食を拒否してしまった。果物も食べない、水さえも飲まなくなった。口からはなにも入れなくなってしまったし、トイレに行くことさえ自力では不可能になった。
食を断つ。母は自分で自分の運命を決めた。私はナースステーションに行き、クラッシュアイスの氷を紙コップにもらってきて、スプーンを使い、母の口元にひとかけらづつ運んだ。母は鳥の雛のような格好で氷を口に含み溶かす。これだけが唯一の食となってしまった。
オムツからは汚れものがはみ出し、何度、取り替えても足らなくなっていく。洗濯しても乾くまでに時間がかかり追い付いていかない。乾かなければ通勤のクルマの後部座席に吊るして干した。
「かあちゃん、なにか食べないと死んじまうよ。」
死を覚悟して食を断つ。ただ小さく砕かれた氷の粒だけを受け入れるが私の言葉は一切、受け入れてくれなかった。その結果、舌が白く変色してしまった。何も口にしない母は当然ながら、うがいも歯磨きもしない、口の中でカビが繁殖しだしたのである。
母のいる病院へ向かっている運転中は『少しでもいい、良くなっていてくれ。』と願う。帰路を彷徨っている時には『もうダメだ、どうにもならない。』という絶望感に打ちのめされる。そんな心を癒してくれる唯一のものが琥珀色の液体だった。